冤罪の構図(2)女性看守イルマ・グレーゼ

 

歴史的修正主義研究会

最終修正日:2006807

 

1. わずか22歳で絞首台に登った女性看守イルマ・グレーゼ

 1945年12月13日朝、若干22歳のドイツ人女性イルマ・グレーゼ(Irma Grese)が、民話「ハメルンの笛吹き男」で有名な古都市ハメルンの刑務所で、絞首刑となった。ドイツの敗戦後まだ半年ほどであり、ニュルンベルク裁判での主要被告の処刑(1946年10月)、アウシュヴィッツ強制収容所所長ヘスの処刑(1947年4月)を考えると、最初に処刑されたドイツ人「戦犯」に属する。軍人でも政治家でもない、わずか22歳のドイツ人女性が、他の民族社会主義ドイツの主要「戦犯」よりも前に、なぜ、絞首台に上らねばならなかったのであろうか?

 

SS監視員になる前のイルマ・グレーゼ

ベルゼン裁判の被告席のイルマ・グレーゼ

 

 彼女が死刑判決を受けたのは、イギリスが1945年9月17日から11月11日、ドイツのリュネブルクで開いた「ベルゼン戦争犯罪裁判」である。1945年4月に、ベルゲン・ベルゼン収容所を解放したイギリス軍は、逮捕した所長ヨーゼフ・クラマー(Josef Kramer)たち44名を、「ベルゲン・ベルゼン収容所での虐待行為」、「アウシュヴィッツ収容所での虐待行為」という二つの罪状で告発した。44名の被告の内訳は16名のSS隊員(所長クラマー、収容所医師クラインなど)、16名の女性看守、12名のカポー(囚人長)(うち5名が女性)であった。クラマーなど8名の男性、グレーゼなど3名の女性に死刑判決が下った[1]

 

2. 「ベルゼンの地獄」

 ホロコーストに関するマス・イメージのなかで、ベルゲン・ベルゼン収容所は、そこを解放したイギリス軍や連合国のジャーナリストが、疫病や飢餓で死亡した裸の死体の山などを撮影した写真やフィルムを大量にマス・メディアに公開したために、最悪の強制収容所というイメージが定着している。

 

ベルゲン・ベルゼン収容所

戦争末期の混乱の中で放置されたチフスや栄養失調による死者

 

しかし、もともとは、海外で抑留されたドイツ人との交換要員として利用することができる社会的地位の高いユダヤ人、あるいは中立国のユダヤ人を収容した特別収容所として1943年に建設されており、少なくとも、被告のクラマーが所長に任命される1944年末までは、収容者も比較的少なく、食糧事情・衛生状態も相対的に良好であり、「ベルゼンの地獄」と呼ばれる戦後のイメージとはかけ離れていた。

収容所の環境が極端に悪化したのは、1945年に入ってからのことであった。ドイツは、東部戦線でのソ連軍の侵攻に直面して、アウシュヴィッツなど東部地区の収容所の収容者を大量に、西部地区の収容所に移送させたために、ベルゲン・ベルゼン収容所は、許容量を大幅に超える大量の収容者を抱えることになってしまった。さらに、連合国の熾烈な爆撃がドイツの鉄道網・交通網を寸断してしまったので、食料、衣料品、医薬品の供給が途絶えてしまった。結果として、ベルゲン・ベルゼン収容所では、疫病(とくにチフス)の蔓延、食糧不足による飢餓という危機的な状態が生まれ、大量の収容者が死亡し(イギリス軍が解放したのちにも、毎日500−600名が死亡したという)、死体は放置されたままになっていた4月15日に収容所に入ったイギリス軍医療部隊のヒューズ准将は「ベルゼン裁判」で、次のように証言している。

 

「収容所の状況は筆舌に尽くしがたいものでした。どのような文章も、どのような写真も、建物の外のおそろしい状況を伝えることはできないでしょう。建物の中の様子はもっとおそろしいものでした。収容所にはさまざまな大きさの死体の山があり、鉄条網の外にあるもの、建物のあいだにあるものもありました。区画の中にも死体がありました。溝も死体で一杯で、建物の中にも多くの死体があり、寝棚の中にもありました。焼却棟の近くには、死体の一杯詰まった大量埋葬地があり、区画の左端には、死体が半分詰まった戸外壕がありました。もうすぐで、一杯になるところでした。建物には寝棚のあるものもありましたが、衰弱した囚人、病気の囚人であふれていました。建物では、囚人が身を横たえるスペースはありませんでした。もっとも込み入っているケースでは、100名収容の建物に、600-1000名が詰め込まれていました。」[2]

 

3. 憎悪と復讐の嵐の中で

イルマ・グレーゼがアウシュヴィッツからベルゲン・ベルゼン収容所に着任したのは、こうした危機的状況の真最中の1945年3月であった(ちなみに、アウシュヴィッツから移送されてきたアンネ・フランクがチフスで死亡したのも同月である)。そして、翌4月に、同僚の女性看守たちとともに、収容所を解放したイギリス軍によって逮捕された。

 

イギリス軍によって逮捕された女性看守たち

イギリス軍によって死体処理をさせられる女性看守たち

 

イギリス軍調査官は、収容所での「戦争犯罪」の調査を開始すると、収容者たちの告発・非難の声が、とりわけ、一人の「美しいSS女性看守」イルマ・グレーゼに向けられていることを発見した。

当時、連合国国民のなかでは、マス・メディアがベルゲン・ベルゼン収容所やダッハウの収容所でのナチス・ドイツの「蛮行」をセンセーショナルに報道していために、ドイツ人に対する復讐主義的な感情が高まっていた。ヨーロッパ各地では、捕虜となったドイツ軍兵士、逮捕された戦犯容疑者、故郷を追放された民間のドイツ人、あるいは対独協力者に対する迫害、拷問、ひいては殺害が頻発していた。とくに、収容所を解放した連合国兵士、解放された囚人の憎悪は、逮捕された収容所の看守たちに向けられた。ダッハウ収容所では、米軍兵士が、降伏した収容所看守を機関銃で銃殺している。

 

ダッハウ収容所看守を銃殺するアメリカ兵

 

そのような戦争直後のマス・ヒステリー状況のなかに突然登場した、端正な顔立ちのイルマ・グレーゼは、扇情的なマス・メディアの格好の標的となった。ブラウンのイルマ・グレーゼ伝『美しき野獣』は、このときの状況を次のように記している。

 

「一人のイギリス人記者は、被告であるSS看守に対する起訴状が正式に公表されるまえに、『美しきナチス女性(the beautiful Nazi woman)』の記事を書こうとした。この記者はグレーゼとのインタビュを許可された。フランス人の生存者が彼に同行したが、このフランス人は当然にも、憎悪に燃え上がっていた。…尋問の最中、この若い生存者はグレーゼに『直立不動の姿勢をとって』、壁にもたれかからないように命令した。そして、グレーゼに、今では彼女の方が囚人であることを思い起こさせた。彼は、グレーゼに記者の質問の答えようとはさせずに、自分で、『際限のないSSの残虐行為』を思い出させるような物語を並べ始めたこのフランス人がグレーゼに向かって、『なぜ、お前はこんなことをしたんだ』と大声で叫ぶと、この旧SS女性隊員は『ドイツの未来を保証するために、反社会分子を絶滅することが私たちの義務でした』と力強く言い返した。…裁判初日から、イルマ・グレーゼは関心の的であった。…彼女は毅然としており、その仕立てのよい上着はよくプレスされていた。…グレーゼは若く、しかも美貌であったので、すぐさまジャーナリスティックな関心の的となった。[3]

 

グレーゼの「若さ」「美貌」「端正な容姿」はマス・メディアの扇情的な関心を引いただけではなく、彼女が勤務していた収容所の女囚たちの、嫉妬心に満ち溢れた、復讐心のはけ口となった。アウシュヴィッツの女囚であったオルガ・レンギエルは、アウシュヴィッツでの経験をつづったとされる『5つの煙突』のなかで、グレーゼの容姿について、憎悪と嫉妬心をこめて、次のように記している。

 

解放後、ポテトの皮を剥くベルゼン収容所の女囚たち

5つの煙突』

オルガ・レンギエル

アウシュヴィッツを生き残った女性による真実の記録

 

 

    「イルマ・グレーゼを目撃したとき、このように美しい女性が残酷であるはずがないと感じた。彼女は、まさに青い目をした、髪の毛の整った『天使』であったからである。」

    「彼女は、きちんと整髪し、エレガントな服を身に着けた中背の女性であった。自分が存在しているだけで、死のような恐怖を呼び起こすことができるので、彼女は喜んでいた。この22歳の女性にはまったく哀れみというものがなかった。」

    「彼女の歯は非常に整っており、真珠のようであった。」

    「何回も繰り返しているので不思議に思われるかもしれないが、彼女は非常に美人でした。彼女の美しさは際立っていたので、彼女が訪れることは点呼とガス室送りの選別を意味していたにもかかわらず、収容者はまったくうっとりとしてしまい、彼女を見て、『なんと美しいのだろう』とささやいてしまいました。」

    私たち二人は好対照であった。私は、髪を切り込み、雨にぬれたぼろを身にまとっていた。イルマ・グレーゼは、髪は整い、非常に美しく、芸術的な化粧をしていた。非の打ち所がなく仕立てられた彼女の服は、スタイルを引き立たせていた。」

    「この22歳のSSは、自分の美しさの力を自覚しており、いつも、自分の魅力を高めようとしていた。彼女は、鏡の前で何時間も身づくろいし、もっとも魅力的な振る舞いをする練習をしていた。どこへ行くときでも、ちょっとした香水の香りを漂わせていた。彼女の髪には、人をひきつけるようなにおいのスプレーが吹き付けられていた。自分で香料を調合することもあった。」

    「私たちは、レースのスリップを着た金髪女のもとを立ち去った。彼女の白い肌は、黒いレースから映えていた。決して細身ではなかったが、整った身体つきであった。おそらくバストは少々大きすぎた。また、足は太かった。SSのブーツをはいていない彼女を見たのははじめてであった。彼女は自分の美しさを自慢していたので、その彼女にも欠点があることを発見して幸せであった。」[4]

 

アウシュヴィッツ収容所に関するオルガ・レンギエルの話には信憑性がないが、彼女たち女囚の怨念、復讐心、嫉妬心は十分に感じ取ることができる。

こうして、少女時代は看護婦志望で、戦時中は無名の収容所監視員にすぎなかったイルマ・グレーゼは、所長クラマー(「ベルゼンの野獣」)、アウシュヴィッツの医師メンゲレ(「死の天使」)、ブッヘンヴァルト収容所長の妻イルゼ・コッホ(「ブッヘンヴァルトの魔女」)、カール・フランク(「プラハの屠殺者」)などとともに、「美しき野獣」、「ブロンドの天使」、「金髪の悪魔」として、歴史の舞台に登場してくる。

 

4. 裁判での争点

 グレーゼの具体的罪状は、次の5点である。

@           囚人への殴打

A           囚人に犬をけしかけたこと

B           囚人へのその他の虐待行為

C           囚人の射殺

D           ガス室送りのためといわれる「選別」への参加

以下、グレーゼに不利な証言・供述を左半部に、グレーゼに有利な証言あるいは弁論を右半部にまとめておこう[5]

 

@ 囚人への殴打

 

グレーゼがアウシュヴィッツで殴っていたのを目撃しました。イギリス軍がベルゼンを解放する2週間前、彼女が収容所の少女を殴るのを目撃しました。ピストルを持っていましたが、乗馬鞭を使っていました。その殴打はひどいものでした。収容所では、それが死因とならなければ、ひどいものとは呼ばれませんでした(ポーランド系ユダヤ人女性Dora Szafranの証言)。

アウシュヴィッツではグレーゼは杖を持っており、鞭も持っていたことがありました。しかし、ベルゼンでは、二つとも持っていませんでした。この事件について混同していませんか(弁護側反対尋問)。

彼女は、皮製の乗馬鞭で少女を殴りました(同上)。

(鞭の材質を検事側から尋問されて)、「豚の尻尾のように編まれたセロファン紙でした。白ガラスのように透き通っていました」(グレーゼの証言)。

グレーゼについて、個人的な何かをしているのを目撃したことはありませんが、彼女が人々を殴ったことを聞いたことがあります(ポーランド系ユダヤ人Helen Hummermaschの証言)。

 

1944年7月、私がビルケナウの厨房で働いていたとき、一人の女性を目撃しました。彼女の娘が隣の収容所にいたので、彼女は娘に話しかけようと、隔てている鉄条網のところに行きました。自転車でそこを通りかかったグレーゼは、すぐに自転車を降りて、革のベルトをはずし、それでその女性を殴りました。彼女はまた、顔と頭を拳骨で殴り、女性が倒れると、足蹴にしました。女性の顔は青く腫れ上がりました。女性の娘の友人が彼女を連れて行き、この女性は3週間も病院で、この殴打による傷のために苦しみました。私は、グレーゼがこの犠牲者に対して行なったすべてを目撃しました(Ilona Steinの供述書)。

彼女を殴ったことは否定しませんが、地面に倒れこむほど殴ってはいませんし、足蹴にしたこともありません(グレーゼの証言)。

アウシュヴィッツの監視員はうすっぺらなベルトを身に着けており、その一つが証拠品として提出されている。そのようなもので、グレーゼが誰かを殴ることができたのであろうか(弁護側反論)。

彼女はさまざまなブロックを点検していましたが、よく杖で人々を殴っていました。ピストルも携帯していました(ポーランド系ユダヤ人Abraham Glinowieskiの証言)。

 

誰かが立ち止まると、グレーゼは、いつも携帯している乗馬鞭で殴りました。私は殴られたことがあります(ポーランド系ユダヤ人女性Lidia Sunscheinの証言)。

 

アウシュヴィッツでもベルゼンでも、グレーゼは労働部隊を監督していましたが、杖で女性を殴り、地面に倒れると、頑丈なブーツでひどく足蹴にしました。彼女はしばしば流血を引き起こしました。彼女が怪我をさせた多くの人々がこの怪我で死亡したということになっていますが、直接の証拠はありません(チェコ系ユダヤ人女性Gertrude Diamentの供述書)。

「それは嘘です。嘘をつくことが彼女の習慣なのでしょう」(グレーゼの証言)。

グレーゼはSS女性隊員の長であり、多くの虐待行為を犯したことを目撃しました。点呼のときに彼女の前を行進するとき、グレーゼが女性を殴ったり、足蹴にしたりしたのを目撃しました。彼女はSS女性隊員の中で最悪でした(ポーランド系ユダヤ人女性Gitla Dunklemanの供述書)。

囚人を殴ったというDunklemannの話は、本当だとしても、ひどく誇張されています(グレーゼの証言)。

 

法廷では、11名の証人がグレーゼのことを知っていた。この11名のうち、5名は、グレーゼに対してまったく告発していない。この事実は、グレーゼが悪名高い、獰猛な野獣であり、最悪のSS女性隊員である述べている証言の信憑性に疑いを投げかけている(弁護側反論)。

彼女は、ゴム製の警棒で殴ったり、足蹴にしました。収容者はポケットに入れて何かを持ち歩くことを許されませんでした。グレーゼは、止まって、収容者を検査し、何かが見つかると、殴りました(チェコ人Klara Lobowitzの供述書)。

 

彼女は、拳骨で殴る前に、グローブをはめました(チェコ系ユダヤ人女性Katherine Neigerの供述書)。

 

また、グレーゼが、ガス室の選別から逃亡しようとした囚人たちを殴り、足蹴にしたのを目撃しました(スロヴァキア系ユダヤ人女性Edith Triegerの供述書)。

 

 

 「杖」、「鞭」、「ゴム製警棒」、「ベルト」で囚人を殴ったかどうか、また、「頑丈なブーツ」で「足蹴」にしたかどうかは別として、グレーゼ本人も、認めているように、彼女が囚人たちに何らかの体罰を課したことは事実であろう。そして、その体罰の目的は、収容所の秩序の維持、とくに、囚人間で横行していた食料や衣料品の盗難の防止であった。そのことは、「彼女は収容所の門のところでの点検にはいつも積極的で、囚人が他人の靴下や靴その類を履いていたときには、この人物を殴りつけたものです」[6]というSzafranの証言でも裏付けることができる。弁護側が法廷で、「・・・被告たちが囚人を扱うにあたって置かれていた困難な状況も考慮しなくてはならない。・・・クラマーやその他被告は、いかなる程度であれ囚人を殴ることはドイツの法に違反していると述べているが、・・・気まぐれな虐待行為、鞭打ちと、囚人が悪事を犯した場合の杖による殴打とは峻別しなくてはならない、とも指摘している。囚人が悪事をなした場合の殴打への規制は死文書となっており、強制収容所では、当局も囚人も受け入れていたのである。収容所の囚人に対する即興的な殴打は戦争犯罪にあたるのであろうか[7]と述べているように、ほとんど飢餓状態に近い劣悪な環境での囚人の殴打という行為を戦争犯罪と断定することはできないし、まして絞首刑には値しない。

 

A 囚人に犬をけしかけたこと

 

グレーゼは私に犬をけしかけました。その犬は私の服を引き裂き、私をかみましたが、その傷跡は今も残っています(ポーランド系ユダヤ人女性Hanka Rozenwaygの証言)。

Rosenwaygの話への回答は、自分は戸外の労働部隊でローテと一緒だったことはなく、犬を連れていたこともないというものです。イルゼ・ローテは、カポーとして自分の部下だったことはありません(グレーゼの証言)。

藁を集めている女性の収容者が倒れると、グレーゼは自分の犬をけしかけていました(ロシア系ユダヤ人女性Luba Triszinskaの供述書)。

グレーゼが犬を連れていたというTriszinskaの告発については、被告が自分は犬を飼っていなかったと述べていますし、そのことは、アウシュヴィッツに関する他の被告や証人によって確証されている(弁護側反論)。

ローテがグレーゼに彼女の犬Hanka Rozenwaygにけしかけ、彼女の肩をかんだことを耳にしました(ポーランド系ユダヤ人女性Sonia Watinikiの供述書)。

グレーゼがビルケナウや職務を離れていたときに犬を連れていたのを目撃したことはありません(被告クラマーの証言)。

 

グレーゼは自分の収容所で働いていましたが、犬を連れてはいませんでした(被告へスラーの証言)。

 

ガス選別の場にいたことはまったくありません。アウシュヴィッツで犬を連れていたことは認めますが、収容者にけしかけたことはありません(被告ボルマンの証言)。

 

 グレーゼが、アウシュヴィッツおよびベルゲン・ベルゼンで犬を連れていたという証拠はまったくない。検事側の証言は、まったくの捏造か、あるいは、犬を連れていたことを認めたボルマンとグレーゼを混同したものであろう。

 しかし、「犬」(とりわけジャーマン・シェパード)は、「鞭」、「警棒」、「革のベルト」、「ブーツ」とともに、サディスティックに女囚に性的拷問を加える「SS女性隊員」を描いた戦後の「ナチもの」B級映画やコミックス、ポルノグラフィックな小説の「必須アイテム」となっていったことに留意すべきであろう

 

B 囚人へのその他の虐待行為

 

ベルゼンでは、グレーゼは、点呼を取って、数が合わないときには、寒くても、雨が降っていても、雪が降っていても、囚人たちを何時間も食事抜きで立たせて置いた(Ilona Steinの証言)。

 

ベルゼンでは、グレーゼは労働部隊監視員でした。彼女の振る舞いは非常に悪く、あるときには、労働から帰ってくると、一人の少女がポケットからぼろきれを落とすと、部隊全員が懲罰として、30分間、坂道を登ったり、下がったり、ひざを曲げたり、まっすぐに立てたりしなくてはなりませんでした(ポーランド系ユダヤ人女性Lidia Sunscheinの証言)。

SunscheinKleinの告発については、誰かが、食べ物の入った二つの包みを囚人グループに投げ込んだのを目撃しました。誰がやったのかと尋ねると、答えようとしなかったので、答えるまで、スポーツしなさいと言いました。30分ほどスポーツすると、包みを誰が投げ込んだのかわかりました。囚人たちが厳罰に処せられるであろうと考えて、この事件を報告しませんでした(グレーゼの証言)。

グレーゼは収容者と「スポーツをしていました」。何時間も座ったり、たったりさせ、次第にスピードを上げて、腹ばいで進ませました(ポーランド系ユダヤ人女性Helene Kleinの証言)。

グレーゼは、点呼に責任があり、収容者を何時間もひざまずかせ、石を頭の上に持たせました。彼女は、地面にいる人々を足蹴にしました。彼女の点呼は一日二度行なわれ、2時間続きました。3−4時間のこともありました。数え間違いがあると、間違いがわかるまで、囚人を立たせました。食べる時間もなく、結果として、人々は衰弱しました(チェコ人Klara Lobowitzの供述書)。

グレーゼに対するLobowitzの告発については、いくらなんでも、毎日、6−8時間の点呼が行なわれたということはまったくナンセンスである(弁護側反論)。

グレーゼはアウシュヴィッツでのSS女性隊員の長でした。彼女は点呼を6時間も続けさせ、そのあいだ、収容者には、手を頭の上に上げ、手には大きな石を持っているように命じました(チェコ系ユダヤ人女性Katherine Neigerの供述書)。

グレーゼは監視員長ではありませんでした(クラマーの証言)。

 

手に石を持たせて、それを頭の上に掲げさせたという話は否定します。供述者Catherine Neigerは自分の収容所にはいませんでした(グレーゼの証言)。

私はまた懲罰部隊にもいました。グレーゼが、外で作業する部隊の責任者であったとき、私たちは収容所のその砂堀場で雇われていました。この部隊では700−800名の女性が働いていました。砂を掘り出して、鉄のトロッコに詰める作業をしている人もいれば、そのトロッコを狭軌のレールの上で押していく作業をしている人もいました。私たちの作業現場は高さ約3−4フィートの鉄条網で囲まれており、その鉄条網の外に出ることは許されていませんでした。鉄条網の周囲には、間隔をあけて、12名の看守が配置されていました。ユダヤ人女囚のなかからあるものたちを選び出して、鉄条網の別の側から何かを取ってくるように命じることがグレーゼのやり方でした。彼女はいつも通訳と一緒に働いていました。囚人が鉄条網に近づくと、看守が警告しましたが、グレーゼはドイツ人以外の囚人を選び出したので、彼らは命令を理解できずに、歩いていき、射殺されました。…グレーゼは、作業部隊に責任をおっていたとき、いつもゴム製の警棒を携帯していました。彼女は、鉄条網を越える命令を出すことによって、少なくとも1日30名の死亡に責任をおっています。もっと多い日もありました。(被告、カポーHelena Kopperの供述書)。

私は、1943年3月にアウシュヴィッツに向かい、1945年1月18日までそこにいました。最初、ブロック長室で電話交換業務についていました。その後、懲罰部隊)に二日間責任を負いました(グレーゼの証言)

 

グレーゼは800名の屈強な人々の唯一の監視員であり、一人のSS隊員ヘルシェルが彼女をサポートしているというようなことがありえるだろうか。毎日30名が殺されていたとすれば、この話を確証するような証拠があるのであろうか(弁護側反論)。

 

 この件も、@と同様の指摘ができる。しかも、ここで挙げられている数字は、弁護側も指摘しているように、誇張されているし、グレーゼが「1日30名の死亡に責任をおっていた」という証言は、まったく確証されていない。戦争直後の「復讐主義的」感情および「勝者へのへつらい」の中で開かれた戦争犯罪裁判では、このような数字の誇張の事例が多々ある。資料が豊富に存在するアウシュヴィッツ収容所の死亡者数などについては、ホロコースト修正派の研究の圧力を受けて、ホロコースト派もその数字を劇的に減らしていっているが、資料が乏しいグレーゼに対する嫌疑のような事例については、もはや、検証することができない。結局、生き残った証人たちの証言だけが「正史」を形作り、処刑されたグレーゼたちの反論は、「歴史の暗闇」の中に封殺されてしまった

 

C 囚人の射殺

 

収容所Aのブロック9で、二人の少女がガス室送りに選別されました。彼女たちは窓から飛び出して、地面に横たわっていたとき、グレーゼは二度彼女たちを撃ちました(Dora Szafranの証言)。

囚人たちに銃を撃ったことはまったくありません(グレーゼの証言)。

 

彼女が収容者を射殺したとか虐待したとかいう話は、嘘です(クラマーの証言)。

 

グレーゼが二人の少女を射殺したというSzafranの話は嘘です。問題のブロックの窓を開けることはできませんでした。だから、グレーゼはピストルを装填・射撃することはできませんでした(へスラーの証言)。

 

グレーゼが二人の少女を射殺したというSzafranの話は、問題のブロックの窓は固定されていたというへスラーの証言を考慮すると、信用できない。この話は、Szafranの供述書にも、尋問のときにもない。再尋問のときに彼女が提出したのである(弁護側反論)。

1944年8月9月、ある選別整列で、選別された一人のハンガリー女性が、列を離れて、選別されなかった列にいた自分の娘と一緒になろうとしました。グレーゼはこれに気づいて、一人のSS衛兵に、彼女を射殺するように命令しました。そして、衛兵はこれを実行しました。私は彼女の命令する声を聞いてはいませんが、グレーゼが衛兵に話しかけ、衛兵がすぐに銃を撃ったことを目撃しました。(Ilona Steinの供述書)。

SSの衛兵に命令を出す権限を持っていたのかという弁護側の尋問に答えて]、「いいえ」(グレーゼの証言)。

 

Ilona Steinの告発に関して、監視員がSSの衛兵に命令を出すような権限を持っていたのであろうか。供述書では「その命令を聞かなかった」といっている(弁護側反論)。

1944年8月、グレーゼが30歳のハンガリー系ユダヤ人女性の左胸を銃で撃つのを目撃しました。その後、犠牲者のところに行きましたが、死んでいるのを発見しました(スロヴァキア系ユダヤ人女性Edith Triegerの供述書)。

グレーゼには4名の殺害容疑が、ロバウアーには1名の殺害容疑がかけられている。すべての告発は、再尋問のなかで、後からの思いつきとして提出されたものを除いて、供述書によってなされている。これらの射殺のどれ一つとして立証されていない(弁護側反論)。

 

 囚人射殺の罪状も、検察側証言と供述書だけにもとづいており、被害者の氏名すらも確定されていない。とくに、不可解であるのは、グレーゼがSSの衛兵に射殺命令を出したというSteinの供述である。グレーゼは、SSに雇われたたんなるAufseherin(監視員)にすぎず、Steinが証言する事件のときには、19か20歳の「小娘」であった。その彼女に、囚人射殺命令をSS隊員に出す権限があったのであろうか?

 

D 「ガス室送りの選別」への参加

 

ビルケナウにいたとき、グレーゼがメンゲレ博士とともに、人々をガス室送りにする選別を行なっていたのを目撃しました。これらの整列では、グレーゼは、ガス室で殺されるべき人々を選別したのです。1944年8月ごろのある選別では、2000名から3000名が選別されました。この選別で、グレーゼとメンゲレは、ガス室送りになる人々を選別したことに責任を負っています。選別された人々の中には、列から離れて、ベッドの下に隠れこもうとした人々もいました。そんな時、グレーゼは彼らを見つけ出して、倒れこむまで殴り、引きずって列に戻しました。ここに書いたことは、すべて私が目撃したことです。このように選別された人々がガス室送りとなったことは収容所ではよく知られていました(Ilona Steinの供述書)。

(ガス室にかんして上官から聞いたことがあるかという検事側尋問に答えて)、いいえ。囚人たちがそれについて話していました(グレーゼの証言)。

 

(ガス室送りの選別をしたのかという検事側尋問に答えて)、「いいえ。私は囚人がガス処刑されることを知っていました」(グレーゼの証言)

 

当時、選別整列の目的は知りませんでした(グレーゼの証言)

 

証言から見ると、人々がガス処刑されたと推論する一般的な根拠は、彼らが姿を消したということである。もし、人々が工場や別の収容所に行ったときには、同じことが起こったことであろう。ガス室送りに選別された人々は、何のために待機しているのかまったく知らなかったに違いない。そうでなければ、彼らをブロック25に連れて行くのにはまる1日かかったことであろう。ブロック25は、ガス室送りの人々の拘禁所は別としても、選別のあとで収容所を去っていく集団のための待機ブロックであったかもしれないのである。集団が選別されれば、送られるまで、彼らは隔離されていなくてはならなかった。ブロック25に数日間もとどまったという証人もいる(弁護側反論)。

 

グレーゼがガス室送りに犠牲者を選別したというDiamentの証拠はあいまいである(弁護側弁論)。

 

グレーゼは収容所Cの収容所リーダーでした。ハンガリーからの移送者が到着すると、彼女は、数百の病人や健康な人々をガス室に送りました。近くで働いていたので、毎日彼女を目撃しました(ポーランド系ユダヤ人Abraham Glinowieskiの証言)。

グレーゼもアウシュヴィッツでのガス室送りの犠牲者の選別に責任があります(チェコ系ユダヤ人女性Gertrude Diamentの供述書)。

グレーゼとメンゲレ博士が、ガス室送りか、ドイツでの強制労働に人々を選別していたのを目撃しました(チェコ人Klara Lobowitzの供述書)。

クラマーとグレーゼはアウシュヴィッツでの選別に参加していました(オーストリア系ユダヤ人女性Erika Thunaの供述書)。

ロバウアーとグレーゼがブロック25の外で、ガス室送りに選別された人々をトラックに追い立てているのを目撃しました(ロシア系ユダヤ人女性Luba Triszinskaの供述書)。

私は、アウシュヴィッツのC収容所での多くの選別を目撃しましたが、グレーゼはかならずそこにいました。規模の小さい選別のときにも、グレーゼは衰弱した女性を選び出して、ガス室に送っていました。グレーゼは収容所で毎日、手を使って、あるいはゴム製の杖を使って女囚たちを殴っており、足蹴にしていました(Edith Triegerの供述書)。

 

 「殺人ガス室」の存在については、収容所長クラマーも含めて、最初の証言あるいは供述では一様に否定していたが、二度目以降の証言・供述では、例えばグレーゼが「囚人たちがその話をしていましたと述べているように、きわめてあいまいな表現でその存在を認めるようになっている。弁護側とクラマーのやりとりはこうである。

 

「弁護人:最初の供述では、ガス室、大量処刑、鞭打ち、虐待についての告発が虚偽であると述べていましたが、その理由を法廷に明らかにしてください

クラマー:二つの理由があります。第一の理由は、最初の供述では、私は、囚人たちがガス室は私の管轄下にあったと告発していると言われていたことです。第二の、そして主要な理由は、私に話をしてくれたポールが、殺人ガス室の存在については沈黙し、ほかの誰にも話してはならないと私に誓約させたことです。最初の供述をしたときには、この誓約義務に拘束されていました。しかし、ツェレの獄中で第二の供述をしたときには、誓約義務を負っていたアドルフ・ヒトラーや全国指導者ヒムラーは死んでおり、もはや誓約義務に拘束されないと思いました。」[8]

 

 自らの生死にかかわるかもしれない事態の深刻性を考えると、上司であるヒトラーとヒムラーが死んでしまったので、「ガス室」の秘密を守る誓約義務から解除されたというクラマーの証言はきわめて奇妙である。ホロコースト修正派のJ.Bellingは、第二の供述は「連合国の尋問官の特技であったゴム製の警棒の犯罪的使用も含む、殴打、脅迫そのたの非常識な尋問方法の結果」であると断定している[9]

 さらに、検事側、被告側も含めて、「ガス室送りになった」とか「ガス処刑された」との表現は、登場するものの、その一方で、「殺人ガス室」の様相を具体的に述べた証言は、誤謬に満ちている。たとえば、アダ・ビムコは次のように証言している。

 

「最初の部屋で、私が暮らしていたのと同じ町からやってきた人物を見かけました。一人のSS軍曹もいて、彼は赤十字に属していました。この最初の大きな部屋に人々は服を置き、この部屋から第二の部屋に入るといわれました。数百名が入ることができるほど大きな部屋であるとの印象を受けました。収容所にあるようなシャワー室・浴室に似ていました。天井には多くのシャワーヘッドがあり、並列に並んでいました。この部屋に入った人々全員にタオルと石鹸が渡されたので、彼らは入浴するのだとの印象を持ったはずです。しかし、床を見れば、排水溝がないので、入浴するのではないことは明らかでした。この部屋には小さなドアがあり、それは真っ暗で、廊下のように見える部屋につながっていました。私は、小さな貨車の乗った、数列の線路を目撃しました。その貨車はローリーと呼ばれていました。ガス処刑された囚人はこの貨車に載せられて直接焼却棟に送られたという話です。同じ建物の中に焼却棟があったと思いますが、自分の目で炉を見たことはありません。低い天井を持ったこの部屋よりの数歩高いところに別の部屋がありました。二つのパイプがありましたが、それはガスを供給するパイプであったとのことでした。また、巨大な二つの金属製のガス・ボンベがありました。」[10]

 

 証言末尾にあるように、ビムコは、毒ガスがパイプを介して室内に供給されたと証言している。しかし、ホロコースト正史の定説では、チクロンBの丸薬は、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟T、U、Vでは、天井の穴から、焼却棟W、Xでは、側面の窓から室内の投入されたことになっている。それゆえ、彼の証言はまったくの虚偽であると断定しうる(アダ・ビムコの「ガス室」証言について詳細な分析は、試訳:アウシュヴィッツからの二つの虚偽証言(C. マットーニョ)を参照していただきたい)

 また、グレーゼが「ガス処刑」に関与していたと告発している上記の証人の中に、「ガス室」や「ガス処刑」について、具体的な証言を行なっている証人は一人もいない。したがって、弁護側反論が的確にも指摘しているように、グレーゼたちを告発する証人たちが、人々はガス処刑されたと断定する唯一の根拠は、これらの人々が収容所から「姿を消した」ということだけにすぎない。そして、「選別」=「ガス室送りの選別」という、彼らの告発の前提自体が、戦時中の虐殺宣伝・噂・メディア報道・憎悪・復讐心にもとづく虚妄にすぎないとすれば、グレーゼは「ガス室送りの選別」に関与したという告発=グレーゼの死刑判決の根拠も、まったく根拠のない虚妄にすぎないのである

 

5. 「生存者」レンギエルによるフレームアップ

 「ベルゼン裁判」が描いたイルマ・グレーゼの像は、「杖や鞭やゴム製の警棒で囚人を殴り、囚人に犬をけしかけ、ピストルで囚人を射殺し、無慈悲にガス室送りを命令した美貌の女性SS隊員」というものであった。ここに、サディズムと同性愛、性的放埓などの話を付け加えて、ポルノグラフィックなグレーゼ像を完成させたのが、アウシュヴィッツの囚人であったルーマニア系ユダヤ人女性オルガ・レンギエルであった。

 

「空腹や虐待にもかかわらず、以前の肉体的な美しさの片鱗を維持している女性は、最初に選別された。彼女たちはイルマ・グレーゼの特別な標的であった。」

 

「純真そうな顔の『天使』は多くの情事を経験していた。収容所では、クラマーとメンゲレ博士が彼女のおもな愛人であると噂されていた。しかし、最大の情事はSSの技師であり、彼女は夕方、彼とたびたび会っていた。彼女は、必要な時間に自分の職務に戻れるように、夜遅くまで彼を引き止めていた。彼が自分の仲間の中にいるときには、あたりにプライドを撒き散らしていた。私たちのほうを見て、『見てごらん、これが私の王国なの。この群れの生と死に対して、全体的な権力を持っているわ』と言っているかのようであった。確かに、彼女はこの権力を持っており、選別を行なうときには、それを行使することができたのであった。」

 

「収容所のボスたちは、異常行為で有名であった。グレーゼは女性でありながら、両刀使いであった。彼女のメードであった私の友人は、イルマ・グレーゼが収容者とたびたび同性愛的関係を持ち、その後で、犠牲者を焼却棟に送るように命令していたと教えてくれた。お気に入りの一人はバラック長で、イルマが飽きるまで、長いあいだ彼女の奴隷であった。このようなことがビルケナウの腐敗した環境であり、地獄の地獄であった。ここでは、ナチスはあらゆる権利をほしいままにして闊歩していた。ここでは、情事は奴隷たちにとっては腐敗した興奮、看守たちにとってはサディスティックな娯楽となっていた。」

 

「イルマは、男性の標本のような、このすばらしい男、ハンサムなグルジア人を見て、アジアの君主のように、自分のものにしようとした。彼女は、自分の部屋に来るように命じた。しかし、この自尊心の高い若い男性の精神は、囚人になったことによっても、イルマの悪名によっても、まだ砕かれていなかった。そして、彼女の意志に屈することを拒んだので、イルマは、彼の恋人への拷問を強制的に目撃させることによって、彼を自分の奴隷にしようとしたのである。」[11]

 

レンギエルは、自分がグレーゼの近くにいたので、自分の話を「一語一語、まったく真実である」とその信憑性を強調している。一方、このようなグレーゼの「悪行」や彼女自身の「中絶手術」を目撃していたにもかかわらず、生き残った理由を「イルマ・グレーゼはなぜ、私をガス室に送らなかったのか。射殺しなかったのか。もっと邪悪なやり方で殺さなかったのか。私には考え付かない」とか、「ガス室送り」に選別されたが、そこから逃れた事情を「突然奇跡が起こって、地面にある杖を発見した。アウシュヴィッツでは、杖は権力と権威の象徴であった。私は、それを拾って、別のバラックのバラック長グループに紛れ込んだ」とか、きわめて不可解な説明をしている[12]レンギエルの『5つの煙突』はホロコースト正史では、生存者の貴重な証言と扱われているが、戦後の「ホロコースト宣伝」と大衆の扇情的な関心に便乗した小説の域を出ない

 

6. 絞首刑

 イルマ・グレーゼは、「ベルゼンの美しき野獣」として、1945年12月13日朝、2名の女性とともに、処刑された。イギリス軍の処刑執行官A.Pierrepointによると[13]、名前を呼ばれたグレーゼは「房からでてきて、微笑みながらわれわれのほうにやってきた。誰もが会いたくなるような素敵な少女であった。」年齢を尋ねられると、ごく普通の女性のように、ためらいの表情を浮かべつつ、「微笑んだ」。絞首台の階段を上るように求められたときの最後の言葉は、「Schnell !!(早く済ませて!)」であったという。

 

1945年12月13日に処刑された3名の女性看守

Juana Bormann, murderous SS woman

イルマ・グレーゼ(22歳)

エリザベート・フォルケンラート(26歳)

ユアナ・ボルマン(42歳)

 

 近年、イルマ・グレーゼは、祖国ドイツへの献身、裁判での冷静な振る舞い、処刑されるときの毅然とした態度ゆえに、一部のドイツ人のあいだでは、敬意と崇拝の対象となっており、彼女の墓には献花が絶えないという。

 

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[1] その他、終身刑:1名、懲役10−15年:14名、懲役1−5年:4名、無罪:13名、病気のために裁かれなかった者:1名である。

[2] Trial of Josef Kramer and forty-four others (The Belsen Trial), edited by R. Phillips, 1949, p. 31.

[3] D. P. Brown, The Beautiful Beast : The Life & Crimes of SS-Aufseherin Irma Grese, Ventura, California, 1996, pp. 67-68.

[4] Olga Lengyel, Five Chimneys, Chicago, 1995, pp. 50, 103, 104, 160, 108, 160, 203.

[5] 以下の証言、供述、弁論は、Trial of Josef Kramer and forty-four others (The Belsen Trial), edited by R. Phillips, Law-Reports of Trials of War Criminals, The United Nations War Crimes Commission, Volume II, London, HMSO, 1947, case No. 10. The Belsen Trial, Trial of  Josef Kramer and 44 other members, British Military Court, Luneburg,17th September-17th November, 1945 (online : http://www.ess.uwe.ac.uk/WCC/belsenfwd.htm,belsen1.htm-belsen12.htm)、にもとづいて、編集した。

[6] Trial of Josef Kramer and forty-four others , p.90.

[7] ibid., p. 539-540.

[8] Trial of Josef Kramer and forty-four others , p. 157.

[9] J. Belling, Irma Grese, Victim of Lies, Part IV (online : http://www.cwporter.com/grese4.htm)

[10] Trial of Josef Kramer and forty-four others ,  pp.67-68.

[11] Olga Lengyel, op. cit, pp. 103-104, 199-200, 201-202.

[12] ibid, p. 108, 67.