試訳:マイヤー・ピペル論争によせて
ユルゲン・グラーフ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年8月19日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Jürgen
Graf,
"Just Call Me
Meyer" - A Farewell to "Obviousness" The
Revisionist,
2004, No.2を「マイヤー・ピペル論争によせて」と題して試訳したものである。 また、当研究会は、これまで、Fritjof
Meyerをフリツォフ・メイヤーとカナ表記していたが、今後は、フリツォフ・マイヤーと訂正して、カナ表記することとする。 |
最近ドイツで起こっているホロコーストに関連する出来事を見ていると、将来の見通しについて、慎重にではあるが、楽観的な期待を抱くことができるかもしれない。『シュピーゲル』誌の著名なジャーナリストであるフリツォフ・マイヤーは、第1論文を2002年5月に、第2論文を2003年11月に発表した。今のところ、ドイツの世論のごく少数の人々だけが、この2つの論文がもたらす帰結について知っているだけであるが、この2つの論文は、アウシュヴィッツの「ガス室神話」に予想しえないような帰結をもたらすかもしれない。世論はほとんど気づいてはいなかったけれども、修正主義者とその研究成果は、ホロコーストの「聖杯」の保持者に対して、非常に強い圧力をかけ続けてきた。マイヤーの2つの論文は、そのような圧力の結果である。
第1論文は、『東欧』誌上に、「アウシュヴィッツの犠牲者の数:新しい文書資料による新しい見積もり」という題で掲載されたが、そこでは、2つの主な点に関して、アウシュヴィッツの正史が修正されている[1]。第一に、マイヤーは、収容所の犠牲者の合計を510000名(うち、「ガス処刑された」356000名)と見積もった。この数字は、アウシュヴィッツ国立博物館歴史部長ピペルの110万[2]の半分以下、プレサックが『焼却棟のガス室』(1994年)[3]の中であげた少なくとも630000名より120000名も少ない。
マイヤーの計算の根拠は常軌を逸している。すなわち、彼は、焼却棟の最大処理能力から始めて、それと同時に、焼却棟がその稼動中はいついかなるときであっても最大能力を発揮したと推定している。このような思考方法は、少々通俗的ではあるが、次のようにたとえられる。すなわち、マイヤー氏のマイカーの最高速度が時速200kmであるとする。そして、マイヤー氏は、イグニッションキーを差し込んでから、車を止めるまでのあいだ、夜に、森のつづら道を走っても、昼に町の交通渋滞の中を走っても、時速200kmで走り続けるというようなものである。マイヤーの計算方法はこのようにナンセンスなものであり、それ以外にもナンセンスな点をかかえているが、それについては、マットーニョが指摘している[4]。文書資料によるとアウシュヴィッツの実際の死者の数は136000名であるが[5]、マイヤーの見積もりはこの3倍以上となっている。にもかかわらず、マイヤーの見積もりは、「ガス室」での「ユダヤ人絶滅」についてのホロコースト正史の代表者たちがこれまで提示してきた数字の中でもっとも低いものである。
マイヤーの第2の修正は、それがおよぼす結果の点では、もっと重要である。マイヤーは、ビルケナウの焼却棟は「実験的ガス処刑」のためにだけ使われ、その実験も、とくに換気の不十分さのために失敗に終わったと結論している。だから、大量ガス処刑は、「赤い家」と「白い家」と呼ばれている、もしくは「ビルケナウのブンカー」と総称されているビルケナウの2つの農家で行なわれたというのである[6]。この説は、正史全体をひっくり返してしまう。ペルトは、ここ数年間、アウシュヴィッツのホロコースト正史の著名な擁護者であったが、彼は、ビルケナウの焼却棟のガス室(といわれた場所)について次のように記している[7]。
「ドイツ人がおそらく500000名以上の死体を生み出したこの2500平方フィートの空間は、近代にとっては、ギリシャ人のアクロポリスのようなもの、キリスト教徒のシャルトレ大聖堂のようなものである。」
このように歪んだ比喩を行なうことができる人物は、一体どのようなメンタリティをもっているのかという問題にかかわるのは差し控えよう。アウシュヴィッツ正史の代表者によると、約150万人がアウシュヴィッツUの「ガス室」で殺されたことになっていると指摘しておくだけにしておこう。しかし、大量殺戮は、焼却棟U、V、W、Xのなかで大量生産システムにもとづいて行なわれたと考えられているのだから、犠牲者の圧倒的多数は、農家ではなく、5つの焼却棟でガス処刑されたことになっているはずである。
ドイツのマス・メディアはマイヤー論文にほとんど反応しなかった。『ヴェルト』紙が、2002年に憤激のうなり声を上げ、それに続いて、ゲルハルト・フライ博士の出版する民族主義的な『国民新聞』の二つのコラムが、マイヤーの分析結果を「真実」として賞賛し、「殺人ガス処刑」を歴史的現実として公然と認めただけであった。人を当惑させるようなマイヤー論文は、これ以外には、ぎこちない沈黙で迎えられた。この沈黙は理解できる。今日のドイツの法的慣習によると、マイヤーは、その論文のために裁きの場に引き出されなくてはならないからである。また、前ドイツ国会議長リタ・シュスムトの支援のもとで出版されている『東欧』誌の編集スタッフも、マイヤーが自説を公表することを許し、それによって「支援と教唆」の罪を犯した咎で、やはり裁きの場に引き出されなくてはならないからである。
修正主義者に対するすべての裁判において、ドイツの司法当局は、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟での大量ガス処刑は「これの証拠を必要としない自明の事実」とみなしている。このような裁判で、弁護側が反証を提出することを要請しても、それは、この「自明性」の教義にもとづいて却下されてきた。例えば、ゲルマール・ルドルフは、1993年に有名な専門家報告を出版し、そのなかで、焼却棟Uについては、建築学的および化学的根拠にもとづいて、その中での「大量ガス処刑」は起こりえなかったとの結論に達したが[8]、1995年に、シュトゥットガルトで開かれた裁判は、この報告書の件で、ルドルフに14ヶ月の「禁固刑」を宣告した。裁判は、ルドルフ報告の結論を「ホロコースト否定」としてはねつけ、「民衆煽動」の罪で処罰されるべきであると宣告したのである。ルドルフ報告は犠牲者の数問題もあつかっていないし、農家での個別的なガス処刑の可能性に異を唱えているわけではない(現存もしておらず、建物の図面も発見されていない建物を建築学的、化学的に検証しえないからである)。
ホルスト・マーラーと彼の仲間が、論文を配布した件でマイヤーに令状を送付したことはまさに快挙であった。ドイツのエスタブリッシュメントは『シュピーゲル』誌の重要ジャーナリストとリタ・シュスムトの『東欧』誌に対する政治裁判を必要としているために、ドイツの司法当局には、すべての犯罪審理を拒否する以外に選択の道がなかった。そのようにすることで、司法当局は、アウシュヴィッツの犠牲者の数を、――とりわけ、焼却棟での大量ガス処刑に異論を唱えることで――現在の公式の数の半分以下に減らしてしまうことが、「ホロコースト否定」と「民衆の煽動」にあたらないことを認めたのである。結果的に、司法に立場に根本的な変化が生じたことになる。
ここから論理的な帰結は、ルドルフ裁判や同じような裁判で、検事と判事が「自明性の教義」にもとづいて出してきた求刑および有罪判決は無効とすべきであるということである。ホルスト・マーラーが的確にも指摘しているように、今後、修正主義者に対する裁判は、ドイツの司法制度に跳ね返ってくるであろう。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館歴史部長ピペルが、2003年11月に、マイヤー論文を攻撃すると、マイヤーもすぐに、「ピペルへの回答」を公表した。この2つの論文、および論争に火をつけた『東欧』誌のマイヤー論文は、ドイツの監視団体「右翼過激派に対する情報サービス」のサイトにはじめて掲載された。この団体は、これらの論文にアクセス可能な場を提供することで、はじめて役に立ったことになる[9]。
上部シレジアの嘘の寺院の高僧は、粗雑なトリックを使ってアウシュヴィッツでの死者110万人という自説を擁護しているが、その粗雑なトリックについてはここでは検証しない。マットーニョが「ピペル・マイヤー論争によせて」という論文の中で、詳細に検証しているからである。マイヤーは「回答」の中で、修正主義者に対して、新しい、驚くほどの譲歩を行なっており、この点だけに触れておきたい。この譲歩は、「ポリティカル・コレクトネス」という誤った概念に対して数多くの卑屈な追従を行ないながらなされてはいるが、その点については、今日のドイツにおける政治的テロルという状況を考えれば、十分に理解できることなのである。マイヤーが、少なくとも部分的にではあるが、Newspeakで自分の「再教育」の物語を語らなかったとすれば、誰も彼の論文を掲載しなかったことであろう。もちろん、マイヤーが、政治的正統派に不必要なほど譲歩していることもいらいらすることである。例えば、マイヤーは、「回答」や第1論文の中でマットーニョに多くを依存しているにもかかわらず、彼のことを「イタリアのホロコースト否定派」としてしりぞけているし、ひいては、何十年もホロコースト文献に登場している「ヒムラーのユダヤ人絶滅中止命令」にまで言及している。彼は次のように記している。
「ヒムラーの絶滅中止命令は、…ほとんどまったくといってよいほど関心を集めてこなかった。修正主義者は、この命令が、それ以前にはガス処刑が行なわれていたことを立証しているがゆえに、この命令の存在を隠している。」
もちろん、マイヤーは、この幻のような「資料」のテキストをまったく紹介していない。
マイヤーは修正主義者に対して譲歩を行なっているが、その中でも、もっとも注目に値する数例を挙げておこう。
「われわれ[すなわち、マイヤーとピペル]は、アウシュヴィッツで犯された犯罪が、その規模と方法の点で比類のないものであることには同意している。」
論文冒頭に登場するこの文章は、一見すると、まったくホロコースト正史に沿っているようにみえるが、実際には――「再教育者」の専門用語では――、非常にデリケートなかたちでの「矮小化」となっている。もしも、マイヤーが主張するようにアウシュヴィッツでの365000名の「ガス処刑」が「その規模の点で比類のないもの」であるとすると、その他の「絶滅収容所」で殺戮された犠牲者は365000名よりもはるかに少ない数になってしまう、すなわち、トレブリンカの公式数字(750000から800000名)、ベルゼクの公式数字(600000名)は過度に誇張されており、これらの収容所についても再調査がぜひ必要となってしまうにちがいないからである。
マイヤーは、ソ連側はアウシュヴィッツ強制収容所の解放後、「ナチスがカチンでやったようには」、アウシュヴィッツについての外国人専門家報告が作成されることを許さなかったと述べている。まったく驚くべきことではない。カチンでのドイツ人法医学専門家は、実際に他殺死体、すなわちボリシェヴィキが殺害した4000名以上のポーランド軍将校の死体を提示できたのに対して、ソ連側は、大量絶滅についての明白な証拠、すなわち物的・文書資料的証拠を提示できなかったからである。ソ連側は、おもに疫病で死亡した150000名ほどの囚人の死についての証拠を提示することはできたにちがいないが、それでは、彼らの意図する目的には不十分であったのであろう。
ピペルは、アウシュヴィッツの解放直前に、収容所当局は文書資料を「破棄した」と述べている。この馬鹿げた嘘に対して、マイヤーは明瞭な事実を突きつけて反論している。
「赤軍は、127000の文書資料からなる、中央建設局、死亡記録、司令部の命令、ひいては収容所の文書記録すべてを確保していた。…
イリア・エレンブルクは、すでに1944年12月に、600万人のユダヤ人がドイツ人の手に落ちて『死亡した』と述べていた。このとき以来、二世代にわたって、この600万人という恐ろしい数字は、ドイツを殴り倒す修辞的『棍棒』(ヴァルザー)として使われてきた。ドイツ人の国は、このような規模の虐殺を行なった『犯罪者の国家』であるといわれてきた。それは、戦争宣伝であった。」
マイヤーが述べていることは、81歳になるスイスの修正主義者ガストン・アルマンド・アマウドルツの述べていることにほぼ等しい。ただし、後者は、マイヤーとはちがって、600万人という数字を「否定した」咎で(下級審で1年の刑を宣告されたのちに)、2003年初頭、3ヶ月の禁固刑を宣告された。
「[ソ連戦争犯罪]委員会報告には、解放されたばかりのアウシュヴィッツ強制収容所に関する世界ではじめての情報が含まれているが、そこには、この場所がユダヤ人の大量殺戮現場であったという話が一つもない。」
一体なぜそうなのか。収容所に残ってロシア軍を歓迎した数千の囚人たちは、「絶滅」のことを、自分たちの「解放者」に話しておかなくてはならない重要事件だとは考えていなかったのであろうか。
さらに、マイヤーは、ソ連調査委員会報告との関連で、次のように述べている。
アウシュヴィッツの解放後、「例えば、アンナ・ケピッチという名の『Cluj市からのハンガリー女性』は『3000名のハンガリー人囚人』の到着について述べているというような証言が掲載されている。しかし、1944年の数万のハンガリー系ユダヤ人に対する殺戮行動については何も語られていないのである。」
なぜ、調査委員会報告は、ハンガリー系ユダヤ人の大量殺戮にまったく触れていないのであろうか。その疑問を発することは、それに回答することである。
「もしも読者が、次のような現実的な結論に怒りを覚えたとしても、それは筆者の責任ではない。その怒りの鉾先は、10倍ほども[実際には30倍――グラーフ]犠牲者の数を誇張してきた人々、ならびに、人道に対する罪を政治的な目的に利用することに関与した人々に向けられるべきである。」
ドイツのもっとも有名なニュースマガジンの著名な編集者が、自分の雑誌にこの一文を公表できなかったとは、まったく恥ずべきことである。
マイヤーは、「ガス処刑の目撃証人」のことを、犠牲者集団がガス室に入っていく様子、および屋根からチクロンBの丸薬が投入される様子、および死体が除去される様子を「一つの全体的手順」として目撃した人物と定義している。修正主義者であれば、誰もがこの定義を認めるであろう。マイヤーの見解では、この定義にしたがえば、焼却棟でのガス処刑の「目撃者」は全部で何と6名しか存在しない。すなわち、「実験的局面」(???)での[ヘンリク]・タウバー、「疑問の余地のある観察者」ヘス、ベンデル、ニーシュリ、ミューラー、そして「おそらく」パシコヴィチである。言い換えれば、信頼できる目撃証人は一人もいないし、ドイツ人が焼却棟Uの死体安置室1だけで「生産した」500000名の死体(ペルト)は想像の産物なのである。マイヤーがこのように大きな譲歩をせざるをえなかった背景はまったく明らかである。すなわち、マイヤーは「ポリティカル・コレクトネス」の原則を侵犯することを恐れて、あえて名前をあげようとはしていないが、修正主義者の技術的・化学的所説のために、このような譲歩をせざるをえなかったのである。
「ガス処刑」という与太話の残りかすを救いたければ、ビルケナウの農家に避難場所を求めるほかに道はない。そこに出かけていって、すでに存在していない壁からサンプルを採取して、鉄シアン化合物の残余物を分析するようなロイヒター、ルドルフたぐいの人物は存在しないからである。さらに、「チクロンBの投入穴」が、もはや現存していない建物のどこにあったのかを調査することもできないからである。ブンカーこそが、マイヤーが採用した逃げ道であったが、彼はこう付け加えている。
「このテーマについては全体的な検証が必要であり、もし誰かが出版してくれれば、私にはこの検証を行なう用意がある。」
マイヤーさん、われわれがそれを喜んで、非常に喜んで、出版するであろう。われわれは、あなたの論稿が公表されることを歓迎する。もし、あなたの「検証」がすでに完成しているとすれば、あなたの分析とマットーニョの分析――「ブンカー」についてのマットーニョの分析の英語版は2004年末の出版予定である――と喜んで比較するであろう。
一体、なぜ、「ブンカーの目撃証人」の方が、色あせてしまった「焼却棟の目撃証人」よりも信頼できると考えることができるのであろうか。まして、多くの場合、この2種類の「目撃証人」は同一人物であることが多いのであるから。例えば、フランス系ユダヤ人のAndré Lettichは、焼却棟の各燃焼室では6つの死体が同時に焼却されたと述べているが、マイヤーは、この話が虚偽であると正しく判断することであろう。この同じAndré Lettichは、農家でのガス処刑のあとで、ドアが開かれ、たった20−25分の換気ののちに死体が運び出されたと述べているが、この話を信用できるであろうか。なぜならば、チクロンBが丸薬から放出されるには2時間ほどかかるために、2時間以前に換気をしても、それはまったくナンセンスなことなのだから、André Lettichの話は、6体を同時に焼却する燃焼室の話に劣らず、技術的にまったく馬鹿げているからである。
マイヤーは、André Lettichの話に触れることで、農家での殺戮を「立証する」つもりなのであろうか。また、リヒャルト・ベックは、シアン化水素がまったく無色な液体であり、目に見えないガスを放出するにもかかわらず、死体の上に「青いガス状の雲」のようなものが漂っていたのを目撃したと証言しているが、彼についてはどのように考えているのだろうか。また、ミルトン・ブキは、シアン化水素ガスで死亡した死体は青色ではなく、赤くなるのに、ガス処刑された犠牲者には「青い斑点」がついていたと証言しているが、彼の「証言」についてはどのように考えているのだろうか。さらに、モーリス・ガルバルツは、ビルケナウの墓堀作業班が一晩で、1500−2700㎥のプール(大量埋葬地)を掘ったと証言しているが、この馬鹿げた話についてはどのように考えているのであろうか[10]。マイヤー氏は、「質よりも量」という原則にしたがって、「恐怖の農家」についての、少なくとも41の「目撃証言」を列挙している。これは、ヒルバーグとプレサックがアウシュヴィッツでの「ガス処刑施設」について見つけることのできた証言の数よりも多い。
まったく馬鹿げているのは、もしもマイヤー説を受け入れたとすると、ガス処刑を自明の前提とする論理的な必要性がもはや存在しなくなることである。このことは、ハンガリー系ユダヤ人の事件からも明らかである。この事件では、マイヤーは、41000名がガス処刑されたと考えている(ヒルバーグは『ヨーロッパユダヤ人の絶滅』の中で180000名という数字をあげているが[11]、その4分の1以下である)。エベルハルト・フォン・タッデンス報告によると、移送されてきたハンガリー系ユダヤ人のうち、労働可能な者はわずか3分の1であった[12]。したがって、合計438000名の移送者のうち、合計292000名(3分の1)が、「労働不適格」であったことになる。292000名の労働不能者から41000名の「ガス処刑の犠牲者」を引くと、依然として、251000名の、労働不能で、ガス処刑されていないハンガリー系ユダヤ人が残ることになる。これらの人々は、(a)アウシュヴィッツにはやってこなかった、(b)アウシュヴィッツから別の場所に移送された、(c)1945年1月27日にアウシュヴィッツで、赤軍によって解放されたということになる。この場合、圧倒的多数は、(a)と(b)のカテゴリーに属したにちがいない。ドイツ人は6倍もの移送者を生きたままにしておき、ビルケナウでは数千のハンガリー系ユダヤ人病人に医療を提供する一方で、なぜ、41000名のハンガリー系ユダヤ人を殺したのであろうか[13]。ごく単純に、これらの41000名もどこかに移送されたと考えることはできないのであろうか。
「ホロコースト」というテーマに通暁した知識人のマイヤーのような人物が、こうしたことを理解しえないとすれば、それはきわめて嘆かわしいことであろう。だから、マイヤー論文が発表された背後にある動機についての私なりの解釈に進もうと思う。実際に重要であるのは事実関係であるのだから、作家の動機を憶測するのを差し控えるのが普通なのであるが、今回に限っては、このルールを逸脱するのも正当化されるであろう。
「ホロコーストの嘘」、とくに「アウシュヴィッツの嘘」からもっとも恩恵を被っているのは、イスラエル国家、国際シオニズム、ドイツ連邦の指導層である。嘘からの受益者のなかでももっとも知的な人々は、長期的には、第三帝国下のユダヤ人についての正史を救いあげていくことはできないことを知っており、バラストを船外投棄しようとしている。このために、彼らは、掛け金のリスク回避を行なっている。すなわち、ドイツの有力なニュースマガジンのジャーナリストであり、かなりの名声――それに加えて、若干の勇気――を持ち合わせており、修正主義者の説も含む、アウシュヴィッツというテーマに通暁している人物を支援しているのである。もしこの仮説が正しければ、マス・メディアは微調整をしながら、「ホロコースト」についての「新しく改良された」、もっと「現代的な」バージョン、いわば「ホロコースト・ライト」のようなものを受け入れていくであろう。にもかかわらず、2004年1月27日現在では、万人が依然として、アウシュヴィッツの犠牲者「150万人」という数字を語っている。この数字は、ピペルによると、アウシュヴィッツに移送されてきた囚人の合計よりも200000名も多いにもかかわらず。
マイヤーは、このような意味合いで、半修正主義的立場を作り上げるために選ばれたのであるが、そのことについては、別様に説明できるかもしれない。とくに、マイヤーは、ピペルへの回答の末尾で、自分にはアウシュヴィッツで死亡した親戚がいるとほのめかしている。マイヤーの親戚が、犯罪者、「反社会分子」、同性愛者として収容されたと考えないとすると、彼らは、政治的理由――すなわち、エホバの証人か民族社会主義の敵――もしくは人種的理由で収容されたのであろう。
人種的理由で収容されたとすると、フリツォフ・マイヤーは、その純粋にドイツ的なファースト・ネームにもかかわらず、部分的にユダヤ系であることになる。ホロコーストのバブルがはじけたならば――例えば、アメリカの包囲政策に耐え切れなくなったロシア政府が、すべての虚偽の暴露を許したならば――、ドイツの狭隘な精神のためだけによって、自分の分析結果を公表することを不幸にも禁止されていた有能な「ユダヤ系研究者」フリツォフ・マイヤーが、真理――もしくは半真理――を発見したのだということになるのかもしれない。この仮説が正しいかどうかは、将来が明らかにすることであろう。しかし、一つのことだけ、すなわち、トップレベルの保護がなければ、マイヤーは自分の論文を発表することはできなかったにちがいことだけは明らかである。今後どのような事態となっていくか、非常に興味深い。
[1] F. Meyer,
"Die Zahl der Opfer von Auschwitz. Neue Erkenntnisse durch neue
Archivfunde," in: Osteuropa. Zeitschrift für Gegenwartsfragen des
Ostens, No. 5, May 2002, pp. 631-641; see also online
www.vho.org/D/Beitraege/FritjofMeyerOsteuropa.html
[2] F. Piper, Die
Zahl der Opfer von Auschwitz,
[3] J.-C.
Pressac, Die Krematorien von Auschwitz. Die Technik des Massenmordes,
Piper Verlag, Munich-Zürich 1994, p. 202.
[4] Carlo
Mattogno, "
[5] Cf. Carlo
Mattogno, "Franciszek Piper and The Number of Victims of
[6] 戦時中のドイツ側資料には、これらの建物に言及したものは一つもない。さらに、どのような用途であれ、アウシュヴィッツ強制収容所管理局がこれらの建物を使用したとする証拠もまったくない。see for this:
C. Mattogno, The Bunkers of Auschwitz, Theses & Dissertations Press,
Chicago, in preparation.
[7] Robert Jan
van Pelt, The Case for
[8] 個別的・単発的なガス処刑を、科学的に除外することはまったく不可能である。だから、マイヤーのいうところの「実験的ガス処刑」は、ルドルフ報告の結論と理論的には両立しうる。しかし、アウシュヴィッツのたったユダヤ人が、焼却棟や農家でたった一人でもガス処刑されたことを示す文書資料的痕跡はまったくないことを強調しておかなくてはならない。
[9] www.idgr.de/texte/geschichte/ns-verbrechen/fritjof-meyer/index.php;
an English edition of Piper's critique may be found on the website of the
Auschwitz-Museum:
www.auschwitz.org.pl/html/eng/aktualnosci/news_big.php?id=564.
[10] On the other
eyewitnesses, see my book
[11] Raul Hilberg,
Die Vernichtung der europäischen Juden, Fischer Taschenbuch Verlag,
[12] NG-2190.
[13] 1944年6月28日のドイツ側報告は3318名のハンガリー系ユダヤ人がこの当時ビルケナウで治療行為を受けたと述べている。外科手術が必要な患者、下痢の患者、糖尿病患者、肺病患者、インフルエンザ患者その他に対してであった。これらについては、詳細にリストアップされている。GARF
7021-107-11, S. 130.