試訳:ごくあたりまえの修正主義

――ロシア人ジャーナリストとグラーフとの対話――

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:200447

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、"Обыкновенный ревизионизм" интервью с Юргеном Графомを試訳したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

http://www.svenlib.sandy.ru/pugovichki/vesti/graf.htm

 

(ユルゲン・グラーフは喜んでインタビューに応じてくれた。彼のロシア語は流暢で、受け答えは穏やかであった。ときおり、対談者の説を反駁しようとして、身振り手振りを交えながら、話してくれた。グラーフは、私たちが思い描いていたような狂信者ではなかった。しかし、彼の話には、慎重に対処しなくてはならない。)

 

K:対談者カパーエフ

G:ユルゲン・グラーフ

 

東部地区への移送。「絶滅計画など存在しなかった」

K修正主義の本質とは何ですか?あなたは何のために、もしくは何に反対して発言されているのですか?

G:私の目的は歴史的真理です。ホロコースト正史は、第二次世界大戦中に、600万人ほどのユダヤ人が殺された、その大半はガス室で殺されたと主張しています。修正主義者はこの正史に根本的に反対しています。ユダヤ人犠牲者の数ははるかに少なかったはずです。絶滅収容所など存在しませんでした。ガス室も存在しませんでした。ユダヤ民族を物理的に絶滅する計画も存在しませんでした。このことを立証するのはきわめて簡単です。私たちは、修正主義の政治的結果については関与しません。私はもちろんシオニストを好んではいませんが、反ユダヤ主義者ではありませんし、ユダヤ人を憎んでいるわけでもありません。

 

K19421月、ヴァンゼー会議が開かれ、そこではいわゆるユダヤ人問題の「最終解決」が審議されました。ここで語られているのは、「絶滅」についてではなく、「東部地区への移送」でした。公式の歴史家たちは、「移送」とは「絶滅」の婉曲語法であるとみなしています。そうではなく、「東部地区への移送」であったことを立証する証拠がありますか?

G:「ヴァンゼー会議」については、ホロコースト史家のイェフダ・バウアーがもう何年も前に、「ヴァンゼー会議の歴史」を「馬鹿げた歴史」と呼んでいます。東部地区への移送が行なわれたのです。ホロコースト正史派の歴史家でさえも、ドイツ人が多くのユダヤ人をミンスクやバルト海沿岸地方に移送したことを認めています。もしも、ポーランドに6つの絶滅収容所が存在していたとすれば、なぜ、それよりも東方のミンスクにユダヤ人を移送したのでしょうか?そして、このユダヤ人の一部が1944年にドイツに戻ってきていること、すなわち、これらのユダヤ人は生きのびたことがわかっています。

 

K1942年、数千のユダヤ人がテレジンからエストニアに移送されています。老人と子供たちは、カレヴィ・リイヴァで射殺されました。目撃者もいますし、裁判も開かれましたが。

G:どのような証拠が存在しているのでしょうか?文書資料、物的資料なのでしょうか?例えば、彼らの死体が発見されているのでしょうか?そのような証拠が存在しているとすれば、私も見て見たいものです。目撃証言は信じていません。バルト海沿岸地方については、私たちの研究はまだ進んでいません。私たちの研究はまず強制収容所についてであり、まだ終わっていません。私たち修正主義者は、ドイツ人が東部地区でユダヤ人を銃殺した事実については否定していません。私たちが関心を抱いているのはその数なのです。

 

Kしかし、あなたは、ユダヤ人絶滅計画の存在を否定していますね。ナチスは老人や子供を絶滅しなかったというのですか?

G:そのとおりです。ホロコースト正史派の歴史家たちは、ベルゼッツ、ソビボル、トレブリンカという純粋「絶滅収容所」では年齢や労働能力にかかわりなく、すべてのユダヤ人が殺されたと主張しています。アウシュヴィッツについていえば、そこには病院もあり、この収容所にいた多くの子供たちが戦争を生きのびました。これは、確証されている事実です。ロシアの文書館で、私たちは、生きのびた子供たちと病気のユダヤ人の名簿を発見しました。すべてのユダヤ人を物理的に絶滅するという計画が存在していたとすれば、これらの子供たちや病人がまず絶滅の対象となったはずです。

 

K戦争の初期からアウシュヴィッツにいた子供たちと病人ですか?

G:詳しいことは覚えていません。1944年にハンガリーから移送されてきた多くのユダヤ人が残っていました。

 

Kそれは戦争末期のことではありませんか。この時期、ナチスは処罰を恐れて、強制収容所の囚人の絶滅命令を出したのではないでしょうか?

G:ホロコースト正史では、ドイツ人は1944年にアウシュヴィッツで、ハンガリーからの多くのユダヤ人をガス処刑したことになっています。現在、ホロコースト正史派の歴史家たちは、修正主義者の所説を知ることで、犠牲者の数をどんどん少なくしています。ハンガリー系ユダヤ人の移送についていえば、焼却棟では死体の焼却ができなかったことには疑問の余地がありません。正史派の歴史家たちは、目撃証言だけで自説を立証しています。以前には、ダッハウやブッヘンヴァルト強制収容所にもガス室が存在していたとの話でしたが、その後、正史派の歴史家も、そこにはガス室が存在しなかったことを認めています。

 

K金歯はどうですか?子供靴の山はどうですか?服の山はどうですか?

G:服の山が何を立証しているというのでしょうか?

 

K多くの人々が殺され、彼らの服が残されたのではないですか?

G:私たちの見積もりでは、アウシュヴィッツで死亡したのは15万名ほどです。これでも多い数です。悲劇でした。しかし、イデオロギー的な理由で、死者の数を水増しすべきではありません。私たち修正主義者はイデオローグではありませんが、私たちの反対者はイデオローグであることが多いのです。

 

囚人についての配慮。「チフスと飢餓の犠牲者」

Kベルゼック収容所は、ユダヤ人をヨーロッパからロシアの占領地域に移送するための「通過収容所」であったと主張していますが、その根拠はありますか?

G:ドイツの役人ハンス・ヒョフレはある文書の中で、多くのユダヤ人がポーランド総督府から国外に移送されており、戻ってきていないと記しています。正直にいえば、文書資料が実際上残っていないので、今日まで、ベルゼックについてわかっていることは少ないのです。さらに、トレブリンカについても、わかっていることは非常に少ないのです。

 

K「通過」地点があったとすると、これらの人々は生きているはずです。彼らのことを見つけましたか?

G:一部です。過酷な戦時中のことでしたので、彼らのうち多くが死んでいったことには疑いありません。私たちはこのことについて異論を申し立ててはいません。残った人々がどこにいるのか、これについては今後解明する予定です。

 

K強制収容所の囚人の大半が病死したと主張していますね?

G:はい、チフスは1942年にアウシュヴィッツで蔓延し、その他の収容所でも、チフスなどの恐ろしい疫病が流行しました。強制収容所で発見された死体の大半は、チフスの犠牲者でした。ドイツ人はこのような囚人をガス処刑したり、銃殺したとは誰も主張していません。彼らがチフスと飢餓の犠牲者となったことには疑いの余地はありません。

 

K飢餓についていえば、ミハイル・ロムの映画『ごくあたりまえのファシズム』には、消耗した人々を収容所に連れて行く喜色満面のドイツ軍兵士のシーンがありましたが。

G:例えば、アウシュヴィッツ博物館には、別のシーンもあります。そこには、1944年にソ連軍が解放した囚人が登場していますが、彼らの栄養状態は良好で、ごく正常に見えます。

 

K収容所によってさまざまであったということですね。しかし、いくつかの収容所で餓死した囚人がいたとすれば、それは、絶滅計画が存在した証拠ではないでしょうか?

G:戦争末期の数ヶ月には、食糧と医療品が不足していたにすぎません。アメリカ軍の空襲がすべてを破壊したのです。

 

K一つの点を除いて、賛同できるかもしれません。このシーンに登場するドイツ軍兵士の栄養状態は良好に見えるという点です。

G:そうかもしれません。こうした状況におかれた国家というものは、囚人よりも、自国の兵士に多くの食糧を提供すると思います。アメリカ人もロシア人も同じように行動するでしょう。ちなみに、私は修正主義者として、第三帝国の政策を擁護する義務を課せられているわけではありません。

 

K多くの点でユダヤ人絶滅計画に類似したことが行なわれたと、思われるケースがありますか?

G194212月、収容所管理局長オズヴァルト・ポールは、労働収容所の囚人死亡率が高いことに不満を述べ、囚人の栄養・衣料状態の改善を所長に命じています。これは、絶滅政策と矛盾しています。

 

K労働収容所では、囚人は働かなくてはならなかったのですね?

G:アウシュヴィッツも労働収容所でした。もしも、ドイツ人がユダヤ人を絶滅しようとしていたとすれば、生き残ったユダヤ人はいないはずです。ところが、図書館は、生存者の書物であふれています。10箇所の収容所を生きのびた人々もいたほどです。

 

赤十字と収容所。「私に殺人ガス車を見せてください」

K赤十字は1944年に強制収容所を視察したとき、殺戮の痕跡を発見することができなかったのでしたね。その年、赤十字代表ベルナドット伯がヒムラーと折衝したときのことでしたね?

G:はい、ベルナドットは「ユダヤ人がヒムラーと話している」という記事を書いています。彼はのちにパレスチナでシオニストに殺されました。

 

K1944年、西側諸国が、ベルナドットを含み、彼を介して、ドイツの指導部と交渉したときに、絶滅は中止されたのではないのですか?

G19449月、スイスの赤十字代表団がアウシュヴィッツを視察して、ガス室が存在するとの「噂が広まっているが」、そのような証拠はまったく存在しないとの報告書を公表しています。ホロコースト正史によると、ドイツ人は194411月までユダヤ人をガス処刑したことになっています。ドイツ人が赤十字のアウシュヴィッツその他の収容所の視察を許したという事実は、「定説」と矛盾しています。赤十字の代表団は、絶滅の証拠を発見することができたでしょうから。

 

Kしかし、代表団の視察の前に、証拠、ガス室の証拠は消し去られたのではないですか?

G:正史派の歴史家たちは、1944年夏に、ドイツ人は多くのユダヤ人を殺したと述べています。同じ頃、ドイツ人は、そこに半年も収容されていたポーランド人の囚人と、軽い犯罪人を釈放しています。彼らはユダヤ人ではありませんでした。しかし、彼らは絶滅収容所ビルケナウの囚人であり、もしもそこでユダヤ人が殺されているとすれば、すべての囚人がそのことを知っていたことでしょう。焼却棟は遠くからでも見えました。ビルケナウの真ん中にあったのです。

 

Kビルケナウに収容されていながら生き残った人物による、焼却棟についての証言は一つもないということになりますね?

G:いいえ、1年も、2年も、3年もそこで働いていたと述べている人々がいます。奇跡的に彼らは生き残ったというのです。もしもホロコーストが行なわれていたとすれば、ドイツ人はこうした目撃者を殺していたはずです。ロシア軍に解放された目撃証人は、400万人が収容所で殺されたと述べています。しかし、今では、この数字は信用できないものとみなされています。

 

Kオットー・オーレンドルフは、内部にガス室をもったトラック、もしくは殺人ガス車について証言していますが、これについてはどのように考えていますか?

G:殺人ガス車が存在したと述べている人々に対しては、私に殺人ガス車を見せてくださいとだけいっておきます。

 

K殺人ガス車などはすべて、破棄されてしまったのではないですか?

G:大量殺人を犯して、その証拠をすべて消し去ってしまったということですね。実際に、そんなことができるのでしょうか。アウシュヴィッツに焼却棟を建設した技師の一人は、アウシュヴィッツに殺人ガス車も存在したと証言しています。その後、ホロコースト正史がこの話を否定すると、目撃証人たちは、反対のことを証言するようになりました。目撃証言は、ホロコースト正史が変っていくので、いつも矛盾をはらんでいます。トレブリンカでは、11もの絶滅手段が存在しました。正史がそのうちの一つだけ、すなわちガス室だけを主張するようになると、スチーム室といった話はすべて忘れ去られていったのです。194512月の時点でも、ポーランド政府は、スチーム室でのユダヤ人の殺戮に言及した公式文書を出しています。スチーム室の痕跡は発見されていません。ナチスの証言は何も立証していません。逮捕された人々に対しては、望みどおりのことを自白させることができたからです。ミンスクには、第二次世界大戦博物館がありますが、そこにも殺人ガス車は展示されていません。フランス人の修正主義者=技術者は、殺人ガス車に関する話がまったく馬鹿げたものであることを立証しています。ドイツ人は残酷であったかもしれませんが、間抜けであったわけではありません。戦争中に貴重な労働力を絶滅するなどと考えるのは大馬鹿者だけです。

 

K老人や子供たちはどうなのですか?

G:なぜ、アウシュヴィッツには生き残った子供たちがいたのでしょうか?ロシア軍が解放した病気のユダヤ人の子供の名簿がなぜあるのでしょうか?

 

K194243年に収容された子供たちも生き残ったのでしょうか?

G:ドイツ人が1941年にバルト海沿岸地方に移送した子供たちの一部は生き残っています。彼らはリガの近郊で3年間生活し、1944年には、ドイツ人は彼らをシュトゥットホフに戻しています。

 

目撃者は嘘をついている。「ホロコースト神話」

Kルドルフ・ヘスは、「チクロンB」の結晶が部屋の換気口から投入され、部屋の中で空気と反応した、部屋は気密状態であり、その中で人々が死んでいったと証言しています。あなたは、「チクロンB」が害虫駆除手段としてだけ用いられていたと主張していますね?

G:「チクロンB」が害虫駆除に使われたことについては、ホロコースト正史派の歴史家たちも否定していません。「チクロンB」の痕跡は害虫駆除室で発見されていますが、「ガス室」では発見されていません。ヘスの証言には、まったく馬鹿げた誤りが数多くあります。例えば、彼は、1941年にベルゼッツとトレブリンカを訪問したと述べていますが、この二つの収容所が開設されたのは1942年のことです。また、194311月までに、アウシュヴィッツでは300万人が殺されたと述べていますが、アウシュヴィッツに収容されていた囚人の数は150万以下であることがわかっています。イギリス人のバトラーは、ヘスが3日間にわたって拷問を受けたと自分の本で述べています。

 

Kナチスの医者は囚人にさまざまな医学実験を行なっていますが、これについても否定していますか?レントゲンの照射による不妊化、気圧の低下による死亡などです。

G:いいえ。この件は立証されています。また、安楽死についても、その事実を否定してはいません。文書資料が残っています。ナチスはユダヤ人を迫害しましたし、多くのユダヤ人が死にました。西側の新聞は、私たちが強制収容所の存在も否定していると書いていますが、それは嘘です。

 

K数千の目撃者とはいわないまでも、数百の目撃証言はどうでしょうか。すべてが嘘をついているのでしょうか?

G:ガス室の構造と作動について詳しく述べている目撃証人は、ごく少数です。彼らの証言を分析した書物を執筆しました。彼らは同じ誤りを繰り返しています。例えば、焼却炉の燃焼室では、15分で3体が焼却されたという具合です。これは技術的に不可能です。目撃証言は、ソ連の委員会、アメリカの委員会、ポーランドの委員会で調整・作成されており、ある目撃者が証言したことを、別の目撃者が繰り返しているにすぎないのです。彼らは囚人でしたから、当然、ドイツ人を憎んでおり、喜んで、絶滅物語を作り上げていったのです。

 

K目撃証言の調整・作成は誰にとって必要であったのでしょうか?

G:ホロコースト神話を必要としていたのは、まずユダヤ人たちでした。ホロコーストによって、彼らは自分たちの国イスラエルを手にすることができたのです。そして、アメリカも、ソ連もこの国家の創設に賛成しました。ユダヤ人が一番苦難を経験しており、自分たちの国家を作るに値すると考えられたのです。アメリカ人とイギリス人もそこから利益を得ました。ドイツ国民を辱めることができたからです。ドイツ人はドイツ人であることを恥じなくてはなりませんでした。ドイツ連邦共和国がドイツ人の利益にかなった政策を実行したことはありませんでした。事実上、アメリカの国家だったのです。今日まで、ドイツ政府は、ドイツ国民の利益を守る政策を実行したことはありません。

 

Kあなたは多くの点で、嘘をつく可能性のある第三帝国の公式統計に依拠しているのではありませんか?

G:収容所での死亡者名簿のことをいっているのでしょうか?しかし、もしも、大量殺戮が行なわれていたとすれば、個々の死亡者の書類を作成したのは何のためでしょうか?まったく無意味なことです。犯罪の痕跡を隠したければ、すべての書類を焼却棟で焼却したはずです。

 

Kしかし、ソ連邦内務人民委員部の公式統計も、スターリンの弾圧時代に殺された人々の実数とは、かなり食い違っていますが。

G:スターリン主義の犠牲者の数も誇張されているのではないかと思っています。しかし、これは私の専門ではありません。

 

K第二次世界大戦中に、どのくらいのユダヤ人が死んだのでしょうか?

G:正確な統計はありません。100万ほどだと思いますが、これを立証することはできません。

 

Kこれらの人々が、どのようなかたちであれ、ドイツ指導部の政策の結果死亡したことに賛成していますか?

G:はい。

 

Kいずれにしても、これは恐るべき犯罪なのではないでしょうか?

G:数が重要ではないとすると、なぜ修正主義者は投獄されているのでしょうか?数が重要となっているのです。ホロコーストが立証された事実であれば、それは前代未聞の恐るべき犯罪でしょう。

 

K100万の死者は恐るべきものと思えますが?

G:そのとおりです。

 

ドストエフスキイとニーチェ。「これらのユダヤ人にどのように対処すべきか?」

Kどのようにして修正主義者となったのですか?

G1991年のことでした。数学の教師アルトゥール・フォークトと知り合いました。彼は本をくれました。そして、この問題を研究することにしました。この研究は、私にとって知的冒険でした。私は、スイスの学校でフランス語とラテン語を教えていましたが、1993年、自分の見解のために職を失いました。2年前、投獄を避けるために、スイスを離れました。最高裁が私の控訴を却下したからです。短期間ベラルーシで暮らして、その後モスクワに移りました。1年前、ベラルーシの女性と結婚しました。今は翻訳に従事しています。人智学についてのロシア語の本をドイツ語に訳したり、修正主義者の論文をロシア語に訳したりしています。

 

Kご自分の著作が反ユダヤ主義を喚起しているとは思いませんか?

G:ホロコースト正史は反ドイツ主義を喚起しているということもできます。政治的結果を重視する修正主義者も存在しますが、私は重視していません。

 

Kイスラエル国家の存在をどのように考えていますか?

G:イスラエル国家には存在する権利がありません。これらのユダヤ人にどのように対処すべきでしょうか?私たちは文明人ですから、彼らを絶滅することはできません。どうしたらよいのでしょうか?私にはわかりません。

 

K神を信じていますか?

G:はい、私はキリスト教徒です。カトリックです。

 

K性や人種、国民性によって、人々の精神的・心理的姿勢は異なると思いますか?

G:このような相違は存在すると思います。しかし、お話したくありません。専門家ではないからです。しかし、相違は存在します。

 

K哲学者の中で、誰のことをもっとも身近に感じていますか?

G:文芸評論家、作家として私はニーチェを崇拝しています。もっとも彼は無神論者ですが。フォーマ・アクヴィンスキイ、オズヴァルト・シュペングラーも身近に感じています。一番好きな作家はドストエフスキイです。

 

K誰が修正主義者を財政的に支援しているのですか?

G:私は友人たちから小額の援助を受けていますが、大半は、自分で稼いでいます。シオニストが、私はイラン人から金銭を受け取っていると述べているとすれば、それは嘘です。

 

Kもしも、明日、修正主義者が正しくないとの決定的な証拠を突きつけられたとすれば、そのことを穏やかに認めますか?

G:もちろんです。申し訳ありませんが、間違っていました、しかし、自分の説が正しいと確信していたのです、と釈明します。

 

インタビューア:ニコライ・カパーネフ、2002

 

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