試訳:追悼 J.‐C. プレサック
J. グラーフ、G. ルドルフ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年2月24日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Jürgen
Graf,
Jean-Claude Pressac and Revisionism, Germar Rudolf, The Double Agent, “The
Revisionist”, Volume 1, Number 4, November 2003を試訳したものである。 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。 |
プレサックと修正主義
J. グラーフ
プレサックが2003年7月23日、59歳の若さで急死したことを聞いて、ひどく心が動かされた。個人的には会ったことはないが、彼は「ホロコースト」論争で重要な役割を果たしたために、私がこのテーマに関する研究を始めた1991年以来、彼とは深くかかわってきた。その他の修正主義者と同じく、私も彼の考え方に刺激を受けてきた。ユダヤ人絶滅と殺人ガス室物語の主唱者の中で、私が尊敬できるのは、すでに何年か前に他界したユダヤ系イギリス人歴史家のライトリンガーとともに、プレサックだけであった。
プレサックは薬剤師であり、「ホロコースト」物語の提唱者ほぼすべてと同様に、歴史家としての正式な訓練を受けていなかった。この点は、第二次世界大戦中のユダヤ人の運命に関するホロコースト正史に帰依する人々の大半、ならびに修正主義者の大半にあてはまる。プレサックはユダヤ人ではなく、政治的には右派であった。
プレサックは少年時代に、ロベール・メルルの小説『死はわが職業』を読んでいる。アウシュヴィッツの初代所長ルドルフ・ヘスのグロテスクな物語で、感じやすい子供に強い情緒的影響を与えであろう。プレサックはそれ以来ずっと、アウシュヴィッツという思念に悩まされてきた。成人となると、「絶滅収容所」についてのホロコースト正史のホラー物語の信憑性に疑いを抱くようになり、修正主義を研究し始めた。
そして、ロベール・フォーリソン、ピエール・ギヨーム、その他のフランス人修正主義者と知り合いになり、しばらくのあいだ、彼らを手助けした。フォーリソンとの協力関係は個人的な敵対関係に終わり、その後の二人の関係も敵対状態であった。プレサックはその後、修正主義を否定し、その所説に反駁しようとした。彼は修正主義者との公開論争にたずさわったが、この点は、ホロコースト正史に対する学術的な異論との論争をかたくなに拒んできたヒルバーグ、ポリャーコフ、ダヴィドヴィチなどのホロコースト正史派の歴史家とは異なっている。プレサックは修正主義者と協力したことがあるために、修正主義者の説に通暁していた。そして、修正主義者の説に反駁するには、殺人ガス室におけるユダヤ人の絶滅の「技術的脆弱性」を克服することが必要であることを自覚していた。これこそが、プレサックがみずからに課した目標であった。
プレサックは、フォーリソンと協力していたときに、アウシュヴィッツを数回訪問しており、アウシュヴィッツ博物館のスタッフの信頼を勝ち得ていた。文書館に入ることを許され、大量の文書、設計図を検証し、コピーした[1]。
まもなく彼は、アウシュヴィッツというテーマにもっとも通暁している人物となった。ホロコースト正史の擁護者の目には、修正主義者の説を科学的に反駁できる理想的な人物として写るようになった。1970年代末から、修正主義は、バッツ[2]、シュテークリヒ[3]、フォーリソン[4]、ロック[5]その他の研究者の研究[6]のおかげで、大きく進歩したために、ホロコーストの受益者やその他の正史擁護派の人々はひどく狼狽していた。さらに、追い討ちをかけるように、1988年春、ロイヒター報告が登場した。
修正主義の反対者たちは、ロイヒターに反駁できる人物を探していたが、プレサックに落ち着いた。彼は1988年末、ロイヒター報告中のいくつかの弱点を指摘する論文を発表した[7]。もっとも、彼の議論にも誤りがあったが。
この論文は、二つの理由から印象的であった。まず、プレサックが有能で、情報に精通した人物であることが明らかとなった。彼は、マイダネク強制収容所を訪れたことはなかったが、設計図にもとづいて、その「殺人ガス室」を鋭く分析することができた。正史によると、そこではユダヤ人は、その大半がチクロンBによって、少数が一酸化炭素によって殺されたことになっていた。しかし、プレサックは、収容所のデザインと建物の様式だけにもとづいて、チクロンBを殺人目的で使うことはできないことを完璧に立証した。ただし、殺人ガス処刑は一酸化炭素を使って行なわれたと続けているが。
10年後、マットーニョは、マイダネクについての私との共著[8]の中で、一酸化炭素説も、チクロンBと同じような伝説の領域に追放した。プレサックは、マイダネクに関する論文によって、ホロコースト正史の核心についての論争の道を切り開いた。彼はまた、ユダヤ人絶滅説の支持者たちが、修正主義者と同じように、彼に対しても苛立ちを感じていることを明らかにした。
「ナチハンター」のクラルスフェルト兄弟の方がこの一匹狼の研究者に接触しようとしたのか、それともプレサックの方が彼らに接触しようとしたのかどうかわからない。いずれにしても、両者は協力するようになった。クラルスフェルト兄弟は、プレサックが著作を執筆するのに必要な金銭的支援を提供した。その著作は、ユダヤ人の絶滅がアウシュヴィッツの神話化されたガス室の中で実際に起ったことを、科学的に疑問の余地なく立証することによって、修正主義を完璧に蹴散らすはずであった。
1989年末、プレサックの『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』が完成し、ニューヨークのビート・クラルスフェルト財団から英語で出版された。フランス語版は出版されていない。
この著作は大部で、大きなものであったので、本屋では手に入れることができなかったが、プレサック自身によって私的に配布された。それは、その表題が約束していることを伝えてはいなかった。マンモスのようなこの著作は、アウシュヴィッツについて膨大な情報を提供していたが、「殺人ガス室の」技術と作動については新しい情報を提供していなかったからである。
『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』はきわめて異例で、難解な書物であり、未公開の戦時中のドイツ側資料の宝庫である。その資料を利用すると、これまで知られていなかった収容所の多くの側面が明らかとなる。その学術的価値については疑いの余地はない。
クラルスフェルト兄弟がプレサックにお金を支払ったのは、ガス室におけるユダヤ人絶滅の実在性を立証させるためであったが、彼が行なったのはそうしたことではなかった。まったく逆のことを行なったのである。「死の工場」神話に関していえば、『技術と作動』は、修正主義者の側にボールのインターセプトやタッチダウンをプレゼントしてやったようなものであった。
プレサックは誠実であったので、殺人ガス室の実在を証明する文書資料的証拠を発見できなかったことを認めている。その代わりに彼が提示したのは、全体としてみれば、殺人ガス処刑についての合理的な疑いをすべて払拭するはずである「39の犯罪の痕跡」であった。これらの「痕跡」は、SS、とくに中央建設局によるへまであった。プレサックによると、彼らは、殺人ガス処刑についての文書資料的証拠を残すなという厳命にもかかわらず、文書記録の中にこの犯罪について間接的に言及してしまうのを避けることができなかったという。その証拠として、プレサックは「ガス気密ドア」の注文書を「犯罪の痕跡」としている。彼の頭の中では、ガス気密ドアは、ただ一つのこと、すなわち殺人ガス室だけに使われるとみなされているからである。
プレサックは、大規模な大量ガス処刑(この当時、彼は、アウシュヴィッツの犠牲者を100万から150万とみなしていた)の実在性を「立証」するために、かくも貧相な証拠に頼らざるをえなかった。この事実は、アウシュヴィッツについてのホロコースト正史のよって立つ土台がきわめて脆弱であることを如実に示している。ガス室における大量絶滅が実際に起ったとすれば、大量の証拠を残しているはずであり、このような「犯罪の痕跡」に頼る必要はなかったはずであろう。フォーリソンはこの本のことを「修正主義者にとっては幸運な贈り物、絶滅論者にとっては破局」と呼んでいるが、それは核心を突いた言葉である。彼はプレサックの本についてのすばらしい書評の中で、この辛辣な皮肉を使って、ガス室の実在性についてのプレサックの説を完全に粉砕している[9]。
プレサックは、ホロコースト正史派の研究者とは対照的に、科学的精神を持ち合わせており、アウシュヴィッツの「ガス室目撃証人」の話を無条件に受け入れることを拒否している。しかし、『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』の中では、その論理的結論を考察することを怠っている。彼はその場その場で目撃証言のあらさがしをして、不正確さや矛盾を指摘しているが、最終的には、証言の大半を信憑性のあるものとみなしている。多くの場合、彼は、いわれているところの犠牲者の数を勝手に減らすことで満足してしまっている。
プレサックが「ガス室証人」の信憑性をどのような基準を使って裁定しているのか不明である。例えば、モシェ・モーリス・ガルバルツという名の錯乱した人物は、墓堀人部隊は、長さ50−60m、幅20−30m、深さ1.5mの大量埋葬地を一晩で掘り起こしたと述べているが、プレサックは、まったくコメントもつけずに、彼の本から長文を引用している[10]。彼は、ユダヤ系ポーランド人の靴工ヘンリク・タウバーの報告を「95%信用できるもの」と賞賛している。しかし、タウバーは、大きな壕の中の囚人は煮えたぎる人間の脂肪でまみれていたと述べている。さらに、連合国の飛行機が接近すると、焼却部隊のメンバーは、大量殺戮が進行中であることを知らせるために、燃焼室に通常以上の死体を詰め込んで、煙突から巨大な炎を出させようとしたとも述べている[11]。プレサックは、有名な「フランケ・グリクシュ報告」にも言及しているが、それは、「ホロコースト」文献の中では、名うての偽造文書の一つである。SS大佐アルフレード・フランケ・グリクシュが1943年5月4日にアウシュヴィッツを訪問したときに書いたとされるこの報告は、何と1年後に完成したはずのビルケナウの降車場について記しているのである[12]。
プレサックは目撃証言を「正そう」としているが、それは、ホロコースト正史にみられる軽信性を改善するどころか、ホロコースト正史の土台を動揺させてしまった。例えば、プレサックは、1941年6月にユダヤ人の絶滅という秘密計画をヒムラーから知らされて、絶滅施設の建設を命じられたというルドルフ・ヘスの供述の信憑性に疑問を呈している。ヘスは、ヒムラーとの会談の時期に、トレブリンカ、ベルゼク、「ヴォルゼク」という3つの絶滅収容所が存在したと述べている。しかし、ベルゼクの完成は1942年3月、トレブリンカの完成は1942年7月であり、「ヴォルゼク」という収容所などは実在しなかったのだから、この話すべてに根拠がない。だとすると、プレサックは、この件やその他のありそうもない話から、ヘスが信用できない証人であり、その証言にはまず疑ってかかる必要があるとの結論に達せざるをえないはずである。プレサックは、ヘスが、ユダヤ系軍曹バーナード・クラークの率いるイギリス軍チームから3日間にわたって拷問を受けたことを知っていた[13]。ポーランドのスターリン主義者に対するその後のヘスの供述も、強制のもとで行なわれた。にもかかわらず、プレサックは、ヘスは日付について混乱していたにすぎず、1942年夏にヒムラーの命令を実際に受け取ったと結論するのである。だが、この解釈もすぐに破綻してしまう。ユダヤ人絶滅命令が出される前に、どうして、「絶滅収容所」が建設されたのであろうか。ホロコースト正史によると、チェルムノが稼動し始めたのは1941年末、ベルゼクは1942年3月である。アウシュヴィッツ・ビルケナウでは、1942年春に、ガス室に改造された2つの農家で、絶滅が始まっていたという。これは、焼却棟が建設される前のことである。ガス室に改造されたといわれる農家の中で、一体どのようにしたら、大量殺戮を進めることができたのであろうか。このような施設が虐殺を始めるには、事前に、大量殺戮命令が必要であったにちがいない。だから、プレサックの新説は、旧説と同じように説得的ではない。むしろ、さらに問題を混乱させただけである。
プレサックの矛盾はこれにとどまらない。彼は、焼却棟の青写真を丹念に研究して、修正主義者と同様の結論、すなわち、焼却棟はまったく犯罪目的を持たない普通の衛生施設として建設されたという結論に達した。そして、彼は、アウシュヴィッツ当局はその後に、既存の死体安置室を殺人ガス室に改造することによって、焼却棟を「死の工場」に変えることを決定したと考えている。
この説はホロコースト正史でも依然として有力である。ヒルバーグも、きわめて非論理的ではあるが、この説を彼の本に取り入れている[14]。この説の第一の難点は、農家を改造したことを立証する文書資料的証拠、あるいは科学的証拠がまったくないことである。さらに、文書資料の欠如以上に重要なのは次の点である。すなわち、もしもヒムラーがアウシュヴィッツでユダヤ人を絶滅することをヘスに託し、ビルケナウに計画中の焼却棟の死体安置室をその場所として選択したとするのならば、なぜ、アウシュヴィッツ中央建設局は、最初から、焼却棟を絶滅施設として設計しなかったのであろうか。なぜ、焼却棟の完成を待ってから、そのあとで、粗雑な手段によって改造に着手したのであろうか。まったく馬鹿正直でなければ、ホロコースト正史派の解釈を信じることはできないであろう。
プレサックは、自分の思考の論理の中にある馬鹿げた諸点に気づかなかったのであろうか。彼は、アウシュヴィッツでは、チクロンBの97−98%がシラミの駆除のために使われ、2−3%だけがユダヤ人の絶滅のために使われたが、ヘスとその同僚は、シラミの駆除のためにチクロンBを注文するにあたって、ユダヤ人をガス処刑するためという口実を使ったと述べているが、そのとき、どのような悪魔が彼にとりついていたのであろうか。彼自身の言葉はこうである[15]。
「真実はこうである。SSの上層部はユダヤ人の絶滅については一般的知識だけを持っており、ことの詳細を知らなかった。現地のSSは、収容所の恐るべき衛生状態を隠し、殺菌駆除目的の大量のガスの使用を隠蔽するために、ユダヤ人の絶滅を利用した。ヘスは最近ヒムラーから賞賛され昇進していたが、もしも、破滅的な事態がベルリンにまで報告されていたとすれば、ヘスに対して不幸な結果となったことであろう。…そこで、SSはチクロンBを多量に必要とする口実にユダヤ人を使って(通常の目的)、収容所の運営に無能力である、収容所での事態をコントロールできていないという非難を、免れようとした。」(強調原文)
プレサックは、焼却棟WとXでのガス処刑を記述するにあたって、へまをやっている。それは、彼によると次のようなものであった[16]。SS隊員が、ガス室の屋根に上り、チクロンBの丸薬を、屋根に開けられた穴から投下する。このために階段を使った。穴は離れたところにあったので、SS隊員が持てるのは限られた量のチクロンBだけであり、チクロンBを投下するたびに、新しいチクロンBの丸薬を手に入れるために階段を降りなくてはならなかった。
それから、ふたたび階段を昇る。結局、このSS隊員は合計18回も階段を昇り降りすることになる。この任務にあたった隊員は「サーカスのような作業」に不平を言い始めた。大量殺戮作業を合理化するために、ガス室に修正が加えられることになった。収容所当局は、穴の大きさを10cm拡大することを決定したが、ガス室を改造するということは拒んだ。その理由は、プレサックの言葉では次のとおりである。
「収容所管理局は、ちょっとした肉体運動がガス処刑に責任を負う看護兵によい世界を与えると考えていた。」
訓練を受けた有能な化学者(さらに、すぐれた製図家、写真家でもある)プレサックがこのように場当たり的なたわごとを書いてしまったのは、なぜなのであろうか。結局のところ、皮肉のために書いたのではないだろうか。プレサックは、殺人ガス処刑に関するホロコースト正史の馬鹿げた点を明らかにすることで、絶滅説自体が馬鹿げたものであることを、巧妙に暴露しようとしたのではないだろうか。
おそらく、この疑問に答えることは永遠にできないであろう。いずれにしても、『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』は、修正主義に対する武器としては、まったく効力がなかった。このために、修正主義者がこの著作を丹念に研究する一方で、メディアはそれを無視するようになっていった。
この4年後の1993年9月、プレサックの二番目の、そして最後の著作『アウシュヴィッツの焼却棟。大量殺戮装置(Les crematories d’Auschwitz. La machinerie du meurtre de masse)』[17]が出版されたときには、いささか状況が異なっていた。今度は、この出版には、フランクフルトからの、騒々しい、巧みに調整された宣伝が付随した。メディアは有頂天になり、修正主義がついに敗北したと、何回も繰り返した。1994年春にドイツ語版[18]が出版される前から、「ドイツ史上もっとも自由な国」の「自由な出版物」は、ラインの西での勝利のコーラスに加わっていた。ヨーゼフ・ハニマンは、1993年10月14日の『フランクフルター・アレゲマイネ・ツァイトゥング』紙上で、次のように声明した。
「建設計画と写真資料を完備した本書は、技術者のハンドブックのようである。…焼却能力、1体あたりの燃料消費のような技術的詳細は、恐ろしいテーマを文書資料的に冷静に立証している。」
注意深い読者であれば、そのようではないことがわかるであろう。プレサックの新著には、このテーマについての学術文献に関する脚注がついてはいないので、学術書とはいえない。しかし、ホロコースト宣伝家たちはこうした些細な点にたじろがなかった。この典型は、エベルハルト・イェッケルが1994年3月18日に『ディ・ツァイト』紙に書いた、次のような馬鹿げた文章である。
「プレサックの本は学術的あるために、かなり退屈である。そしてこの理由からとくに貴重である。…プレサックは、反ユダヤ主義的嘘つきたちとその説に反駁している。彼らが今後どのような発言をするかどうか、興味深いことである。」
「反ユダヤ主義的嘘つきたち」は、『アウシュヴィッツ:むき出しの事実(Auschiwitz:Nakte Fakten)』と題する著作で、これに答えた。「マンフレード・ケーラー」(ゲルマール・ルドルフ)、セルジュ・チヨン、ロベール・フォーリソン、カルロ・マットーニョが、逐次、プレサックの議論を論駁した[19]。プレサックもイェッケルもこの論駁にまったく回答していない。
一番目の本と較べると、プレサックの二番目の本(10分の1ほどの長さ)は、学術的に後退している。『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』は、内容的に空虚ではあっても、少なくとも、批判的精神の輝きの痕跡が存在していた。しかし、『アウシュヴィッツの焼却棟』には、批判的と呼べるものはほとんどない。プレサックは、序文の中で、目撃証言は「いつも信用できるものではない」ので、大量殺戮が起こったことを立証するにあたって、目撃証言だけに依拠することはないと約束している。文書資料が自説を確証してくれるというのである。不幸なことに、彼はすぐにこの約束を忘れてしまった。ガス処刑を記述するたびに、目撃証言によって、「文書資料的に確証している」からである。
『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』にあった「39の犯罪の痕跡は」、『アウシュヴィッツの焼却棟』では4分の1にまで減ってしまった。フォーリソンの書評が的確にも指摘しているように、プレサックは、「4年前には恐ろしい虐殺の証拠とみなしていたもののうち、30については、人畜無害なものとして説明できることを発見してしまったのである。」プレサックは、消え去ってしまった「犯罪の痕跡」の変わりに、殺人ガス室が実在した「決定的証拠」を提出する。それは、1943年3月2日のトップフ社からアウシュヴィッツ中央建設局あての書簡であった。この書簡は、焼却棟Uのために「10個のシアン化水素残余物検知器」を注文していたが、これについては、修正主義者のあいだで活発な議論が起こった。フォーリソン、「ヴァルナー・ラデマッヒャー」(ヴァルター・リュフトル)、マットーニョがこの書簡について異なった解釈を提示しているが、殺人ガス処刑の証拠ではないことでは一致している[20]。
『アウシュヴィッツの焼却棟』は小説によく似ている。プレサックは、話の枠組みとしては、モスクワの歴史資料中央文書館で最近発見された資料を利用している。彼は、クルト・プリュファーという技術者が、「見せかけの心配をしながら」、炉の保証期間が切れてしまったと決定した話を記述する。そして、アウシュヴィッツに滞在していたSS隊員が前線での戦闘に動員されようとしたところ、「自分たちの臆病な心理をごまかすことのできないような」「けたたましい失望の抗議を行なって」前線への徴用をキャンセルしたのかという話を記述する。ついで、オズヴァルト・ポールが、アウシュヴィッツで病気のジプシーの子供を見て、自分がヒムラーと知り合いであったことを「呪う」話を記述する。誠実な読者であれば、プレサックはこのようなことを、どのようにして知りえたのかとの疑問を抱くにちがいない。
この種の話は、学術研究とはいいえない。それから、プレサックは、焼却棟の処理能力――彼は非常に明確な理由からひどく誇張している――について、とくに重大な科学的誤りを犯している。マットーニョは、プレサックに対する批判[21]の末尾で、このフランスの学者が、ホロコースト正史派のエリートたちとともに、ディレンマにおちいっていることを次のように活写している。
「1979年2月21日の『ル・モンド』紙に掲載された論文の中で、34名のフランス人歴史家たちは彼らの声明を、次のような定式で終えている。
『われわれは、このような大量殺人が技術的にどのように可能であったのか問うてはならない。それは起こったから、技術的に可能であったのである。このことが、このテーマに関するあらゆる歴史的研究の出発点となるべきである。』
しかし、プレサックは、この研究を引き受ける技術的な能力を持っていなかったにもかかわらず、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉といわゆる殺人ガス室を技術的に研究しようとした。
だが、プレサックは修正主義者の方法的な原則を受け入れなければならなかった。その原則によれば、証言と技術が一致していない場合には、技術の方を採用しなくてはならないというものである。彼は、(彼が狡猾に水増ししている)焼却炉の能力とは一致していないために、いわゆる殺人ガス処刑の犠牲者の数を減らすことによって、この原則を採用した。彼はこのようにして、伝統的な歴史学のなかでは抑え切れないような情報が外に漏れ出していく出口を開いてしまった。技術は、アウシュヴィッツ・ビルケナウでの大量絶滅が物質的に不可能であることを明らかにしているからである。だからプレサックが技術的なスタンスで一貫していたいとするならば、彼に残されたことはこの結論を受け入れることである。もし受け入れないとすれば、いわゆる大量殺戮が技術的に可能であったかと質問してはならないというフランスの歴史家たちの声明を受け入れることによって、後退するしかない。」
プレサックは、修正主義者の土俵の上で修正主義者を論駁しようとしたために、結果的には修正主義者に武器の選択権を与えてしまった。このことは、ホロコースト正史の多くの支持者には受け入れられないものであった。ユダヤ系フランス人の映画制作者ランズマンは、自分は「プレサックのガス検知器よりもトレブリンカの床屋の涙の方を」選択すると怒った。この「トレブリンカの床屋」とは、アブラハム・ボンバのことであり、ランズマンのメロドラマ的映画『ショアー』の登場人物である。この中で、ボンバは、ガス処刑を準備するたびに、自分と16名の床屋が4uのガス室に座っている70名の裸の女性の髪を切らざるをえなかったのかを、すすり泣きながら語っている[22]。ランズマンのほうが正しかった。ホロコーストは神話やメロドラマとしてだけ生き残ることができるからである。それを科学的に立証しようとすることは、真の信仰者にとっては破局に他ならないからである。
プレサックの二番目の著作が、アウシュヴィッツの犠牲者の数を大幅に減らしていたことも、絶滅論者がこの著作に震えあがった理由となった。フランス語版では、775000−800000人の犠牲者、ドイツ語版では630000−710000人の犠牲者(まだ400%も水増しされている)となっている。この当時、アウシュヴィッツ博物館はもはや400万人とは主張していなかったが、犠牲者の数を150万人としていた。プレサックという世界的に知られた「アウシュヴィッツの専門家」が犠牲者の数を減らしたために、ホロコーストの犠牲者600万人という数字は、かつてないほど守りとおすことができなくなってしまった。このために、プレサックは不興をかってしまった。『アウシュヴィッツの焼却棟』の出版に伴う嵐のような宣伝が短期間で収束してしまうと、彼の名前はメディアの見出しから急速に消えてしまった。2000年にロンドンで開かれたアーヴィング・リップシュタット名誉毀損裁判で、リップシュタット側が専門家証人として召請したのは、プレサックではなく、明らかにプレサックよりも水準の劣っている、ユダヤ系オランダ人ペルトであった[23]。
プレサックは、インタビュー記事によると、アウシュヴィッツの焼却棟の建設を担当したエルフルトのトップフ・ウント・ゼーネ社についての本を書こうとしていた。しかし、今となっては、それはできないこととなった。だが、絶滅論と修正主義のあいだをせわしく不法侵入したこの人物は、『アウシュヴィッツの焼却棟』以降、一つの論文とインタビュー記事を残した。この二つは衝撃的である。
1995年、トレブリンカ、ソビボル、ベルゼクの「純粋な絶滅収容所」を扱ったプレサック論文が、フランスの雑誌Historamaに登場した[24]。これらの収容所がもっぱらユダヤ人の絶滅を目的として建設されたとするホロコースト正史とは対照的に、プレサックは、これらがもともとは通過・害虫駆除収容所として設立されたと考えている。彼は次のように指摘している。目撃証言によると、ベルゼクには3つの隣り合ったバラックがもともと建設されていた。最初のバラックは待機室であり、二番目が浴室、三番目がガス室であったという。ガス室には3つの炉があったという。プレサックは、大量殺戮施設に浴室を建設することにはまったく意味がないと論理的に考察している。犠牲者を殺す前に、なぜ彼らを入浴させなくてはならないのかというのである。プレサックによれば、この件を説明できるのは、「1941年末から1942年中ごろのあいだに、ベルゼク、ソビボル、トレブリンカでは、3つのスチーム害虫駆除室が建設された」という解釈である。彼は次のように説明を続けている。
「1942年1月20日のヴァンゼー会議は、ユダヤ人の東部地区への移送計画を確定したが、これによって、これら3つの衛生施設で移送者の衛生処理をすることが必要となった。」
ただし、プレサックは、その後、害虫駆除施設は絶滅施設、すなわち殺人ガス室に変わったとも述べている。このことを彼が実際に信じていたのか、それとも、論文を発表するために戦術的に譲歩したのかどうか明らかではない。いずれにしても、「東部の絶滅収容所」がもともとは通過・害虫駆除施設として建設されたという彼の説は、ホロコースト正史の根幹を動揺させたのである。
1995年、プレサックはValérie
Igounetのインタビューに応じている。このインタビュー記事は、プレサックが修正したうえで、2000年に始めて公表された[25]。彼はこのインタビューの中で、アウシュヴィッツは別として、「絶滅収容所」の犠牲者についてのホロコースト正史の数を大幅に減らしている。
「チェルムノ:150000の代わりに80000−85000
ベルゼク:550000の代わりに100000−150000
ソビボル:200000の代わりに30000−35000
トレブリンカ:750000の代わりに200000−250000
マイダネク:360000の代わりに100000以下」
プレサックは自分の数字の根拠を文書資料ではなく、「絶滅施設」の処理能力に関する自分の計算に求めているようであるが、この件については、インタビューでは説明されていない。これらの「絶滅施設」の実在は立証されておらず、たとえ実在したとしても、どの程度使われたのかがわかっていないので、プレサックの分析結果には科学的な価値はまったくない。これらの収容所の中で、マイダネクは文書資料的証拠が利用可能な唯一の収容所であるが、プレサックの数字は実際の犠牲者数の2倍以上である。現存資料から、42300名がマイダネクで死亡したといい得るからである[26]。だが、彼の見積もりの最低水準にもとづくと、彼は5つの収容所の犠牲者数の合計を510000人にまで減らしていることになり、これは、ホロコースト正史の数字の4分の1である。正史の「聖杯」を保管している人々にとっては、これはまったく大変なことであったにちがいない。さらに事態は悪くなっていった。プレサックのインタビューの中での次のような発言は、絶滅論者の血管を流れる血を凍らせてしまったにちがいない[27]。
「ユダヤ人の大量殺戮については、いくつかの基本的な概念を根本的に修正しなくてはなりません。『ジェノサイド』という表現はもはや適切ではないでしょう。時代の変化によって、私がこれまで永遠であると教えこまれてきた記憶の厳格な基準を新しく見直さなくてはなりません。新しい資料が登場して、それは、公的に確かなこととされてきたことをくつがえしていくでしょう。ですから、強制収容所についての現在の記述も、依然として優勢ではありますが、崩壊していく運命にあります。現在の記述の中で、何を救うことができるでしょうか。ごくわずかです。強制収容所システムの規模を誇張することは、円と同じ面積の正方形を作るようなものです。白を黒ということです。民族的な良心は悲しい物語を必要とはしません。ソンビの生活は励ましにはなりません。苦痛の経験は利用され、じゃらじゃらと鳴るコイン、すなわち、勲章、年金、公職、政治的影響力に代わっていくからです。だから、犠牲者になると同時に、特権的な個人、ひいては処刑人になることもできるのです。」
どのような修正主義者であっても、これ以上うまく表現できないであろう。クラルスフェルト兄弟は、プレサックの中に、「反ユダヤ主義的嘘つきたち」と闘うかけがえのない才能を発見したと思っていた。プレサックは、フォーリソンと仲たがいしてから、アウシュヴィッツの専門家となり、修正主義に背を向けた。クラルスフェルト兄弟は彼を財政的に支援して、修正主義に対する跳躍板となるはずである著作を書かせたが、大きな逆噴射が生み出されてしまった。プレサックは、混沌とした落ち着きのない性格の持ち主であったが、強い自尊心を持っていたので、クラルスフェルト兄弟一派に支配されるままにはならなかった。彼は、犠牲者の数を絶えず減らし、目撃証言を批判し、ホロコースト正史の核心を踏みにじることによって、彼を自分たちの側に引き寄せようとする人々に大きなダメージを与えてきた。彼は、ユダヤ人虐殺とガス室説の筆頭チャンピオンとして、修正主義者のいうところの、ホロコーストの科学的「脆弱性」についての論争に関与してきた。彼は、当初、必要とされる化学的・技術的甲冑を手に入れることなしに、この論争に関与したために、この論争はホロコースト正史の崩壊をもたらしてしまった。事実こそが、「ショアー」伝説の最大の敵であり、科学的な論争をするたびに、ホロコースト正史の支持者たちは迷路に踏み込んでいった。今となっては、舵を切りなおすのは遅すぎる。絶滅論者たちは、プレサックのことを、科学的証拠を使って修正主義者をチェックメイトする天才として世界に売り出したので、「ホロコーストが技術的にどのように可能であったのか問うてはならない。それは起こったから、技術的に可能であったのである」という34名のフランス人歴史家の声明の後ろに隠れることはできない。
クラルスフェルト兄弟は、自分たちがフォーリソンの鬼っ子にだまされたことを後悔しているにちがいない。一方、われわれ修正主義者は、プレサック氏よ、安らかにお休みください、と心から願っている。
二重スパイ
G. ルドルフ
1993年5月、シュトゥットガルトのマックス・プランク固体力学研究所では、大事件が進行中であった。そこにつとめていた若い博士候補者がスキャンダルに巻き込まれ、ドイツ中のニュースとなったのである。この博士候補者の名は、ゲルマール・ルドルフ、この記事の筆者である。私は、レーマー少将の弁護団の求めに応じて、アウシュヴィッツの「ガス室」に関する専門家報告を作成し、その中で、目撃証言が報告しているところの大量ガス処刑は物理的に不可能であるとの結論に達していたが、そのことがスキャンダルとなった。1993年の復活祭直後、レーマー少将は、この報告書のコピー数千を、ドイツの有名な政治家、法律家、歴史家、化学者、さまざまなメディアに送りつけた。この結果、想像できる限りのありとあらゆるロビイストと圧力団体は、あらゆる手段を使って、私が専門家証人となることを阻止しようとした。忘れもしない春のことであるが、ニュース・メディアから多くの電話が私の職場にかかってきて、研究所の仕事を妨げることになった。電話かけてきた人々やその話の中身は、ここでは、関心の対象ではないが、一つの例外がある。それは、ある紳士がプレサックであることがわかったことである。彼は、私個人の電話番号を尋ねてきたが、丁重に断った。
私は、手紙で話し合おうと提案した。しかし、彼は、安全上の理由から、文書で意見を交換したくないようであった。そのようなことをするのは危険であるというのである。そして、彼は、護衛をつけるようにと警告してくれた。さらに、とくに「ホロコースト」というテーマについては、一時にあらゆる側面に挑戦するのを避けるように忠告してくれた。「ホロコースト」を扱うにあたっては、個人的な危険を犯さずに成功する唯一の希望は、ホロコーストの側面の一つのことを、個別的に批判することであるというのであった。
私は、この電話以来、プレサックは、われわれ修正主義者の方が原則的に正しいと考えていると確信していた。しかし、彼は、絶滅論者の圧倒的権力を考えると、「体制」と闘うには、その内部から闘わなくてはならないとの結論に達していたのである。彼が絶滅論者の側に組して、そのために仕事をしていたのは、彼なりのサラミ戦術であった。一つ一つ譲歩を引き出すために、「体制」を利用するというのが彼の計画であった。
プレサックの著作を年代順に眺めてみると、著作を発表するごとに、修正主義の主張に近づいていることがわかる。第一歩は、たんに、このテーマを公に議論することを可能にすることであった。第二歩は、目撃証言よりも科学的証拠の方が優位を占めていることを「体制」に認めさせることであった。第三歩は、このような証言にある矛盾を「体制」に認めさせることであった。また、彼は、新しい著作を出版するごとに、犠牲者の数を減らしていき、目撃証言への評価はいっそう批判的となっていった。そして、最後に、「アウシュヴィッツの神話」の土台を攻撃したのちに、彼の関心は、その他のいわゆる「絶滅収容所」に向けられていった。
プレサックは、1993年に二番目の本を出版してから、次第に恐怖心を感じるようになったにちがいない。本を改訂するたびに、多くの敵を作り出したからである。彼が恐れのことを口に出したのは、私と電話していたときだけではない。マットーニョも、プレサックが自分とのすべての関係を絶ったのはこの当時のことであったと報告している。フォーリソン教授も、プレサックが1995年のフォーリソン裁判のときに、まったく心身喪失してしまい、次のように述べて、フォーリソンの質問に答えることを拒否すると判事に釈明したことを報告している。
「私には一つの命しかないことをご理解ください。私は自分の闘いで一人ぼっちであることをご理解ください。」
彼は、自分がまったく孤立しており、命が危険にさらされていることを知っていたので、証言を拒んだのである。フランスの法廷での率直な証言は、それが修正主義的な性質を持っていれば、深刻な結果をまねいてしまうことを、プレサックはわかっていたのである。
プレサックの著作が科学的には疑問の余地があるものであるにせよ、彼が政治的にはもっとも成功を収めた修正主義者であったことには疑問の余地はない。事実、彼は、われわれの二重スパイであったのである。
ジャン-クロード・プレサック、心から感謝したい。
[1] R. Faurisson, “My Revisionist Method,” Journal for
Historical Review 1(2) (2002), p. 7.
[2] A.R. Butz, The Hoax of the Twentieth Century,
Historical Review Press,
[3] W. Stäglich, Der Auschwitz-Mythos, Grabert,
Tübingen 1979; Engl.: The Auschwitz Myth, Institute for Historical
Review,
[4] Faurisson, R., Mémoire en défense, La Vieille
Taupe, Paris 1980; S. Thion, Vérité historique ou vérité politique?, La
Vielle Taupe, Paris 1980.
[5] H. Roques, The Confessions of Kurt Gerstein,
Institute for Historical Review, Costa Mesa, CA, 1989.
[6] Primarily:
W.N. Sanning, The Dissolution of East European Jewry, Institute for
Historical Review, Newport Beach, CA, 1983; Carlo Mattogno, Il mito dello
sterminio ebraico, Sentinella d’Italia, Monfalcone 1985 (Engl.: English: “The
myth of the extermination of the Jews: Part I,” Journal of Historical Review
8(2) (1988) p. 133-172; part II: Journal of Historical Review 8(3)
(1988) p. 261-302; Mattogno, Il rapporto Gerstein: Anatomia di un falso,
Sentinella d’Italia, Monfalcone 1985; Mattogno, La risiera di San
Sabba. un
falso grossolano, Sentinella d’Italia,
Monfalcone 1985; Mattogno, Auschwitz: Due false testimonianze, Edizioni
La Sfinge, Parma 1986 (Engl.: “Two false testimonies from Auschwitz,” Journal
of Historical Review, 10(1) (1990), pp. 25-47); Mattogno, Auschwitz: Un
caso di plagio, Edizioni La Sfinge, Parma 1986 (Engl.: “Auschwitz: A case
of plagiarism,” Journal of Historical Review, 10(1) (1990), pp. 5-24);
Mattogno, Wellers e I “gasati” di Auschwitz, Edizioni La Sfinge, Parma
1987; Mattogno, Auschwitz: Le confessioni di Höss, Edizioni La Sfinge,
Parma 1987; Mattogno, “Medico ad Auchwitz”: Anatomia di un falso,
Edizioni La Sfinge, Padua 1988; Mattogno, Come si falsificia la storia: Saul
Friedländer e il “rapporto Gerstein,” Edizioni La Sfinge, Padua 1988.
[7] Jean-Claude Pressac, “Les carences et incohérences du
rapport Leuchter,” Jour J, December 1988.
[8] J. Graf, Carlo Mattogno, KL Majdanek, Castle
Hill Publisher, Hastings 1998; Engl.: Concentratioon Camp Majdanek,
Theses & Dissertations Press, Chicago 2003.
[9] Robert Faurisson, “Bricolages et ‘gazouillages’ à
[10] Jean-Claude Pressac,
[11] J.-C. Pressac,
[12] On this subject see also Brian Renk, “The
Franke-Gricksch Resettlement Action Report: Anatomy of a Fabrication,” Journal of
Historical Review, Fall 1991,
pp. 261-279.
[13] Rupert
Butler, Legions of Death, Arrow Books,
[14] Raul Hilberg, Die Quellen des Holocaust.
Entschlüsseln und Interpretieren, Fischer
Verlag, Frankfurt/M. 2002, p. 60; Engl.: Hilberg, Sources of Holocaust Research: An
Analysis, R. Dee, Chicago 2001
[15] J.-C.
Pressac, op. cit. (note 10), p. 188.
[16] Ibid., p. 386.
[17] Published
by CNRS,
[18] J.-C. Pressac, Die Krematorien von Auschwitz, Piper Verlag, Munich/Zürich 1994.
[19] H. Verbeke (ed.),
[20] Robert Faurisson in:
[21] Carlo Mattogno, “
[22] See B. Smith, “Abraham Bomba, Barber of Treblinka,” TR 1(2) (2003), pp. 170-176; an older version of this
article appeared in Journal of Historical Review 7(2) (1986), pp. 244-253.
[23] See C. Mattogno, “Architektonische Stümpereien zweier
Plagiatoren,” VffG 4(1) (2000),
pp. 25-33; G. Rudolf, “Gutachter- und Urteilsschelte”, VffG 4(1) (2000), pp. 33-50; Engl.: “Critique of Claims Made
by Robert Jan Van Pelt,” http://www.vho.org/GB/c/GR/RudolfOnVanPelt.html.
[24] “Enquête sur les camps de la mort,” in: Historama, No. 34, 1995.
[25] “Entretien avec Jean-Claude Pressac réalisé par
Valérie Igounet” (Interview with Jean-Claude Pressac, Conducted by Valerie
Igounet), in: Valérie Igounet, Histoire du négationnisme en
[26] J. Graf, C. Mattogno, Concentration Camp Majdanek, op. cit., (note 8), Chapter 4.
[27] V.
Igounet, op. cit., pp. 641, 652.