試訳:現代の最大の冒険:ホロコースト修正主義

エストニアでの講演

ユルゲン・グラーフ

A Speech by Jurgen Graf in Estonia
25 November 2002 in Tallinn and 26 November 2002 in Parnu
Translated by Russ Granata www.russgranata.com

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:200383

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Jürgen Graf , The Greatest Adventure of Our Time: Holocaust Revisionismを試訳したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://www.russgranata.com/graf251102.html

 

 

1. 「西側民主主義国家」は修正主義とどのように戦っているか

 紳士ならびに淑女の皆さん、今現在、スイスでは、2003116日から、82歳の高齢で健康状態のすぐれない老人が、3ヶ月の投獄処分となっています。20004月、彼は1年の懲役を宣告されましたが、控訴審がそれを減刑しました。彼の犯した犯罪とは次のようなものです。すなわち、自費出版物の中で、第二次世界大戦中に民族社会主義者の迫害によって殺されたとされる600万のユダヤ人という数が誇張されている理由を説明したこと、さらに、実在の証拠がないのでナチスの殺人ガス室の存在を信じてはいないと述べたことです。

 この人物とは、ローザンヌの退職語学教師Gaston-Armand Amaudruzです。彼の論文はCourrier du Continentと呼ばれ、1ヵ月半のあいだごとに450部ほどが配布されました。3人が彼の論文のコピー1部を読んだとすれば、スイス人の6000分の1名がAmaudruzの論文を読んだことになります。スイスは、6000分の1名の市民が1ヵ月半ごとに異論派の著作を読んでいるという事実を耐え忍ぶべきであると考えることができるかもしれません。しかし、それは真実から程遠いのです。

 G.A. Amaudruzは、ホロコースト正史に疑問を呈した罪で罰金刑となったり、投獄されたりしてきた西ヨーロッパ「民主主義国家」の数百名の市民の一人にすぎません。スイスでは、私も含めて、10名が処罰されています。私は、帰国すれば、修正主義的な著作を執筆した咎で15ヶ月投獄されるでしょうし、スイスを離れてから公表した本や論文の件で、獄中にあっても、釈放されても訴追されることでしょう。ドイツでは、国家民主党前党首ギュンター・デッカートが、ホロコーストへの疑問の咎で、5年間も投獄されています。歴史家ウド・ヴァレンディは27ヶ月投獄されていました。オーストリアで、ホロコースト修正主義者は法律的には20年の投獄という危険を背負っています。フランスでは、3年間の投獄という危険を背負っています。しかし、フランスの裁判所は、ドイツとは異なって、高額の罰金刑を科して、被告の生活を破壊することで満足しています。このために、大量ガス処刑の技術的不可能性を最初に指摘した、高名なフランスの修正主義者ロベール・フォーリソンは、15回ほど裁判に引き出されましたが、投獄の憂き目には1度もあっていません。

 今日、ここで、自由なエストニアで、修正主義についておおやけにお話しすることができて、非常に満足しております。しかし、幻想を抱いてはなりません。皆さんのお国も、ラトヴィアとリトアニアと同様に、ヨーロッパ連合とNATOに加盟するにあたって、いわゆる人種的憎悪と差別に反対する法――それは、第二次世界大戦中のユダヤ人の運命について異論を表明することを犯罪とみなしています――を導入するという代価を支払うことを求められるからです。私もスイスで、人種差別の咎で公式に処罰されました。

 ガス室と600万人という数字を信じないことが人種差別と関連しているのかとお尋ねならば、まったく関係がないとお答えいたします。このレッテルが選ばれたのは、修正主義者が人種的憎悪を煽っているとの印象を作り出すためだけなのです。そのようなことはありません。修正主義者が関心を抱いているのは、歴史的真実の研究だけであり、それ以外の何ものでもありません。

 歴史学では、新しく研究・調査が進むにつれて、伝統的な考え方が修正されていくのはごく正常なことです。一例を挙げておきましょう。1960年代には、私は歴史の授業で、人類は50万年前ほどに登場したと習ってきましたが、今では、大半の考古学者は新しく発見された人骨の化石にもとづいて、それを100万年以上前にさかのぼらせています。このような修正主義は、西側世界の統治制度にとっては無害ですので、認められています。しかし、ホロコースト修正主義は、西側世界の根幹にとってきわめて危険であるので、認められていません。

 メディアでは、修正主義者はおおむねクレージーな人々とみなされており、太陽は地球の周りを回っていると主張する人々になぞらえられています。太陽は地球の周りを回っていると主張する人々がいるかもしれませんが、誰も彼らを訴追しようとは思っていません。無視されているだけです。修正主義者の見解には根拠がなく、ナンセンスであるとすれば、やはり無視されるだけで、彼らを取り締まる特別な法律を出すような政府も存在しないでしょう。修正主義者は質の高い議論をしており、歴史学的、人口学的、技術的に裏付けられた所説を展開していますが、それについてお知りになりたければ、エルンスト・ガウスの『ホロコーストの解剖』という論文集をお読みください。この本はドイツ語版の『現代史の基礎』の改訂英語版でして、指導的な修正主義的専門家の論文を集めています。修正主義者の所説に議論では反駁することができずに、この危険な異端者を沈黙させるために、警察国家のような恐ろしい弾圧措置が必死に取られている事情を理解できるでしょう。

 

2. ホロコースト修正主義者は何を主張しているのか

 第二次世界大戦中にユダヤ人が迫害されていたことを否定する人々は誰もいません。それは残酷な措置でした。枢軸国が占領・支配した国々の大半のユダヤ人住民は、19411944年のあいだに、連行され、ゲットーや強制収容所に収用され、チフスその他の疫病、また栄養失調や劣悪な環境のおかげで多くの命が失われました。1945年に連合国は強制収容所を解放し、そのとき、腐敗した死体、歩く骸骨を発見しました。その写真についてはよく知られています。ホロコースト正史派の歴史家はこれらの死体が大量殺戮の犠牲者であると主張しているわけではありませんが、これらの死体を写した写真は、今でも、絶滅政策の証拠として、間違って利用されています。戦争末期の数ヶ月の強制収容所での大量飢餓を引き起こしたのは、ドイツ国内の完全崩壊であり、ドイツの意図的な絶滅政策とはまったく関係ありませんでした。

 また、公式の文献に引用されている150万という犠牲者の数に疑問を呈してはいますが、東部戦線のドイツ軍が多くのユダヤ人を射殺したことを否定する修正主義者は一人もいません。

 論点となっている、あるいは論議の対象となっているのは以下の3点です。

 

    ユダヤ人の物理的絶滅計画の存在

    ユダヤ人の絶滅ならびに殺人ガス室の維持のためにだけ設立された絶滅収容所の存在

    民族社会主義者による600万というユダヤ人犠牲者。資料が不完全なために、それに代わる正確な数字を挙げることは不可能です。個人的には、民族社会主義者の政策によって、ほぼ100万のユダヤ人が死亡したと考えています。

 

ホロコースト修正主義の創立者フランス人のポール・ラッシニエは、社会主義者で、レジスタンスの戦士で、ブッヘンヴァルトとドラ強制収容所の囚人でした。ラッシニエは解放後、ブッヘンヴァルトのガス室についての話を多く読みました。彼は自分の経験からこの収容所のことを知っていましたので、これらの話が嘘であることに気がつき、他の収容所のガス室についての話も本当であるのか疑問を抱くようになりました。ラッシニエは、『ヨーロッパ・ユダヤ人のドラマ』の中で、ユダヤ人の絶滅という物語はもっとも奇怪な虚偽であるとの結論に達しました。ホロコースト修正主義を創設したのは反ファシストであり、かつての強制収容所の囚人でした。このことは、修正主義者がネオナチ思想家であるという主張がいかに誤っているかを示しています。もちろん、民族社会主義に共感を示す修正主義者もいますが、2足す2は、たとえ民族社会主義者の発言であったとしても、4なのです。研究者の思想的方向性は、彼の説の正確さには関係ありません。学術的な議論において重要なのは、事実にもとづく議論だけなのです。

 

3. 事実の陳述、文書資料的証拠、目撃証言

 ユダヤ人がガス室で殺されたというホロコーストの正史とその証拠(文書資料)を知りたければ、少なくとも、ヒルバーグの『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(Homes & Meyer, New York 1985)をお読みください。彼の浩瀚な3巻本には数千の脚注があります。これらを検証すれば、ヒルバーグがしっかりとした証拠を使って確証したのは、ユダヤ人の迫害――ドイツとその同盟国の反ユダヤ法、その地域のユダヤ人の大半の収容所、ゲットーへの移送――についてであることがすぐにわかります。これに対して、ガス室でのユダヤ人の絶滅を叙述するにあたっては、目撃証言だけに依拠して、数頁を費やしているにすぎません。これは避けられないことでした。「ガス処刑」については、事実にもとづく証拠や文書資料が一つも存在しないからです。反修正主義的なフランス人歴史家Jacque Baynacは、2つの新聞記事のなかで、ガス室の証拠が存在しないことをおおやけに認めています。「目撃者の話は重要ではない。しっかりとした文書で確証されていなければ、さらに重要ではない」とBaynac は述べています(le Nouveau Quotidien, Lausanne, 2., and 3. September 1996)。

 数百万人の絶滅という怪物のような犯罪の証拠として、目撃証言だけが引用されたとしますと、ひどく疑いを抱かざるをえません。それは3つの理由からです。

1.       すべての法律家が理解しているように、目撃証言はあらゆる証拠の中でもっとも脆弱なものであり、事実にもとづく証拠のはるか下に位置します。簡単な事例を上げて見ましょう。一人の人物が交通事故を起こしました。アルコール・テストをしたところ、彼の血中アルコール濃度は1000分の2でした。公判では、二人の飲み仲間が出廷して、この人物は毎晩、お茶だけを飲んでいたと証言します。アルコール・テストと飲み仲間の証言と、法廷はどちらを信じるのでしょうか。

2.       ドイツ人は目撃証言にもとづいて訴追されてきましたが、ホロコースト正史派の歴史家もその多くを撤回しています。そのうち、もっとも有名なのが、ユダヤ人から作られた石鹸と、ダッハウやブッヘンヴァルトのような西側収容所でのガス室の話です。今日では、ホロコースト正史派の歴史家でさえも、殺されたユダヤ人の死体から石鹸が製造されたとされる石鹸工場の話がまったくのホラー話であることを認めています。また、ダッハウやブッヘンヴァルトその他の西側収容所ではガス処刑はなかったことについても意見が一致しています。ということは、ここでのガス処刑について証言した証人は嘘をついていたことになります。嘘をついていたに違いありません。だとすると、アウシュヴィッツやトレブリンカでのガス処刑についての目撃証言が、ダッハウやブッヘンヴァルトでのガス処刑、ユダヤ人の脂肪からの石鹸の製造についての証言よりも、信頼できる理由は何なのでしょうか。ラッシニエ以来、修正主義者は何回となくこの本質的な疑問点を問いただしてきましたが、ホロコースト正史派の歴史家はまったく答えてきませんでした。

3.       強制収容所での殺人ガス処刑について報告している証人は、大半がユダヤ人囚人です。彼らは自分たちの自由を奪った人物に対して憎しみを抱いていますので、客観的であるはずがありません。SS隊員もガス処刑について報告しているではないかとの指摘があります。たとえば、アウシュヴィッツ初代所長ヘスです。彼は、イギリス軍に逮捕されたのち、19464月に、194311月までに、アウシュヴィッツでは250万人がガス処刑され、50万人が病気と飢えで死亡したと証言しています。しかし今日では、所長ヘスの自白は、3日間の拷問ののちに引き出されたものであることが明らかになっています。この件については、イギリス人のバトラーが自分の本『死の軍隊』(Arrow Books Limited, London 1986)で詳しく述べています。また、今日では、ホロコースト正史も、アウシュヴィッツ収容所が存在していたすべての時期を通じて、この収容所に移送されたのは130万人であったと考えていますが、この数は、ヘスの自白によると、194311月までにアウシュヴィッツで死亡した数の半分以下なのです。

 

ホロコースト正史派の歴史家とは逆に、修正主義者は目撃者の話を批判的に検証してきました。私も、自著Auschwitz: Taetergestaendnisse und Augenzeugen des Holocaust Verlag Neue Visionen, Wurenlos/Switzerland)の中でそれを行ないました。その結果は明白でした。目撃者の話には数え切れないほどの、技術的、論理的に不合理な点があり、しかも、互いにまったく矛盾しているのです。その証拠能力はゼロです。

そんなに多くの証人が同じ物語を別個に発明できるはずがない、したがって、ガス室の話は真実の核心である、との指摘があります。しかし、この指摘は誤解にもとづいています。第一に、ガス室を詳しく証言している証人の数は非常に少なく、せいぜい10数名です。第二に、証人たちはたがいに別個に話を作り上げたのではありません。彼らの話は調整されていました。一人の証人が別の証人の話しをコピーしているのです。2つの例をあげておきましょう。アウシュヴィッツが解放されると、目撃者たちが次々とソ連・ポーランド委員会に出頭し、400万人がアウシュヴィッツで殺されたと陳述しました。この数字は当時の宣伝でした。もちろん、証人たちはこの数を調整しましたが、そうするように指示されていたのです。また、技術的に不可能な点が数多くあります。たとえば、多くの目撃者が、3体が1炉室で15分で焼却されたと述べています。1体が1炉室で1時間で焼却されたというのが正しいのです。

修正主義者は、目撃証言の分析のほかに、以下の2点を検証しています。

 

    ドイツ側資料は、民族社会主義者のユダヤ政策についてどのように述べているのか。

    「大量ガス処刑」と焼却は技術的に可能であったのか。

 

この2つの問題に対する回答は明らかです。戦時中の民族社会主義者のユダヤ人政策に関するドイツ側資料によれば、その政策はユダヤ人労働力の利用であり、だからこそ、大半のユダヤ人は労働収容所に移送されたのです。この他、民族社会主義者はユダヤ人をヨーロッパから再配置したがっていました。マダガスカルにユダヤ人居住地を作るというマダガスカル計画が、実践的には難しくなってから、東ヨーロッパに大規模なユダヤ人居住区を建設することが計画されました。資料によると、多くのユダヤ人が、占領された東部地区に移送されています。戦争がドイツに不利となったために、このような政策は最後まで実現されませんでした。

 第2の点:修正主義者は技術的・化学的分析にもとづいて、大量絶滅なるものは不可能であり、それゆえ、起こりえなかったと結論してきました。この点についてはあとでお話します。

 

4. アウシュヴィッツ:技術的調査

 以下では、いわゆるホロコーストの3つの主要な構成要素、すなわち、アウシュヴィッツ、トレブリンカ、東部戦線での処刑について手短にお話します。

 まず、アウシュヴィッツからお話します。ここは、ホロコースト正史も認めておりますように、おもにポーランド人政治犯のための通常の収容所として設立されました。しかし、その後、1942年から、ユダヤ人の絶滅収容所となり、膨大な数のユダヤ人がガス室で殺されたということになっています。ドイツ側の戦時中の資料は膨大に残っていますが、この主張を裏付けるものは一つもありません。

 モスクワのヴィボルグ通りにあるロシア軍事文書館には、ほぼ88000頁におよぶアウシュヴィッツ中央建設局の資料が保管されています。中央建設局は、殺人ガス室が存在したとされる焼却棟の建設に責任をおっていました。この資料のうち、どれ一つとして、たとえ一人のユダヤ人であってもガス処刑したとの証拠を提供していません。もし、提供していたとすれば、ソ連側は1945年に勝ち誇って、そのような資料を公表したことでしょう。しかし、資料はすぐに文書館の中に姿を消し、研究者がアクセスできるようになったのは1990年代以降のことです。

 アウシュヴィッツがユダヤ人の絶滅収容所であったとすれば、ユダヤ人はほとんど生き残っておらず、今日、図書館の棚を埋め尽くしているような大量の生存者の話なども存在しなかったことでしょう。エリー・ヴィーゼルは足の病気にかかっていましたが、労働不適格ゆえに殺されたのではなく、病院に送られて、治療を受けました。ロシア軍が収容所に接近してきたとき、健康な囚人は疎開しました。病気の囚人は、ロシア軍による解放を待って収容所にとどまるか、ドイツ人とともに西側に疎開するかを選択しました。ヴィーゼルは、この件について、自著『夜』(Editions de Minuit, Paris 1958)なかで記しています。また、彼と彼の父親は、ロシア軍を待たずに、ドイツ人と一緒に収容所を離れるという選択をしたことについても記しています。ところで、ヴィーゼルはこの本のなかではガス室についてはまったく言及していません。ドイツ人はユダヤ人を生きたまま燃やしたと述べているだけです。この話は、ホラー宣伝の初期のバージョンの一つですが、その後、ガス処刑にとって代わりました。

 「ガス室」に対する最初の技術的調査は、1988年にアメリカの処刑専門家フレッド・ロイヒターによって行なわれました。それは、修正主義者のエルンスト・ツンデルとロベール・フォーリソンの要請でした(An Engineering Report on the Alleged Execution Gas Chambers at Auschwitz, Birkenau and Majdanek, Poland, Samisdat Publishers, Toronto 1988)。合衆国で処刑ガス室を建設したことのあるロイヒターは、ドイツのガス室が、焼却棟の建築図面が呼んでいるところのもの、すなわち、焼却前の死体を保管する普通の死体安置室であり、部屋が気密状態ではないので、チクロンBを使った殺人ガス処刑が収容所に破局的な事態をもたらすであろうという結論に達しました。ロイヒター報告には誤りもありますが、5年後に、ドイツ人化学者ゲルマール・ルドルフがもっと詳しい研究を行なって、ロイヒター報告の結論を確証しました(R. Kammerer, A. Solms, Das Rudolf Gutachten, Cromwell Press, London 1993)。

 ルドルフの立証は2点にもとづいています。

 目撃証言によると、大量殺戮が行なわれたのはアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟Uの死体安置室においてであり、その方法は、殺虫剤のチクロンBの丸薬を天井の4つの穴から投入することによってでした。しかし、死体安置室の天井は今日その大部分が保存されていますが、そのような穴は存在しません。天井の構造を調査してみると、このような穴は存在していないのです。ですから、目撃証言の語るように、毒を投下することができないのです。

 もしも、チクロンBをこの部屋で使えば、壁のモルタルに鉄シアン化合物を残し、それは数十年たっても検出されるはずです。囚人の衣服からチフスの媒介者であるシラミを駆除したアウシュヴィッツの害虫駆除室の壁には、今日でも、大量の青いしみが残っており、この壁を化学分析してみると、高い濃度のシアン化合物が検出されました。一方、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟Uの「ガス室」にはそのような青いしみはなく、化学的分析をしても、さしたるシアン化合物の残余物は存在しませんでした。ここから唯一可能な結論は、この部屋では殺人ガス処刑は行なわれなかったということです。

 ルドルフの建築構造的、技術的、化学的分析も重要ですが、イタリア人修正主義者カルロ・マットーニョによる焼却棟とその処理能力の調査も重要です。マットーニョは、資料が十分に存在する焼却棟の稼働時間、およびやはり資料の存在する(1944年をのぞいて)焼却棟への石炭供給を検証しました。焼却の必要な石炭の量と焼却棟炉の処理能力が分かっていますので、焼却棟で焼却できる最大量は簡単に計算することができます。それは164000体でした(Carlo Mattogno and Franco Deana: The Crematory Ovens of Auschwitz-Birkenau, in: Ernst Gauss, Dissecting the Holocaust)。

 かなりの部分が保存されているアウシュヴィッツの死者記録、および戦時中のドイツ側資料を念頭に置けば、収容所での死者の数は130000から150000人のあいだです。その大半は疫病の流行によるものです。とくに、チフスはアウシュヴィッツの破局的な死亡率の高さの主因でした。

 今日のホロコースト正史によれば、大量殺戮は殺虫剤チクロンBを使って行なわれたものです。この話が登場したのは1944年末のことにすぎません。1942年に広まったレジスタンス側の報告では、虐殺は浴室での電気によるものでした。この話は今では登場していません。ソ連のポレヴォイはアウシュヴィッツでガス室を発見しましたが、その発見場所は、不幸なことに、のちの話に登場するビルケナウの西側区画ではなく、東側区画でした。

 

5. トレブリンカ

 絶滅収容所であると同時に労働収容所であったとみなされているアウシュヴィッツとは異なって、トレブリンカは純粋に絶滅収容所であったとみなされています。収容所の維持に必要とされた一握りの「労働ユダヤ人」を除いて、すべてのユダヤ人は、健康状態に関係なく、登録なしで、すぐに殺されたという話になっています。赤軍が東ポーランドを占領すると、ソ連委員会は報告書を公表し、300万人がトレブリンカでは殺されたと述べています。『ホロコースト百科事典』はかなり低い数字87万人をあげています。

 最近、イタリア人研究者マットーニョと私はトレブリンカについての本を著しました。『トレブリンカ:絶滅収容所か通過収容所か』という題です(Castle Hill Publisher, Hastings/England)。私たちの本は、この収容所についての最初の包括的な研究です。

 ホロコースト正史によると、トレブリンカでの殺戮はディーゼル・エンジンの排気ガスを使って行なわれました。この話はまったく信用できません。ガソリン・エンジンは7%以上の一酸化炭素を出しますが、ディーゼル・エンジンは1%ほどですので、ディーゼルの排気ガスで人を殺すのは非常に難しいのです。ドイツ人が排気ガスで大量殺戮をしようと考えたとしても、ディーゼル・エンジンは最後の選択肢となることでしょう。ディーゼルの排気ガスは悪臭がするので、毒性が高いと信じ込んだ、技術的に素人の人物が、ディーゼル・エンジンの物語を発明したにちがいありません。

 トレブリンカが開設されたのは1942723日です。同日、ワルシャワからトレブリンカ収容所へのユダヤ人の大量移送が始まっています。19421115日、ワルシャワ・ゲットーのレジスタンスは長文の報告書を公表し、100万以上のユダヤ人がトレブリンカで殺された(何と120000名)と述べています。しかし、ガス室の名前は凶器としてはまったく登場していません。その代わりに、蒸気スチーム室が登場しており、その様子が詳しく描かれています。トレブリンカについては、目撃証人は、少なくとも11の異なった殺戮方法について言及していますが、好奇心を満足させるためにも、それをあげておきましょう。

 

1.           毒燃料の排気ガス

2.           可動式ガス室、大量埋葬地に沿って動き、そこに直接死体を投げ入れる

3.           犠牲者が歩いて埋葬地にいけるようにする遅効性のガス。犠牲者は埋葬地に着いて気を失い、そこに倒れこむ

4.           消石灰

5.           電気(電流)

6.           機関銃による射殺

7.           塩素ガス

8.           温水スチーム

9.           部屋から空気をくみ出すことによる窒息

10.       チクロンB

11.       ディーゼル排気ガス

 

 最後の手段が1946年には一般的に受け入れられました。しかし、ポーランド政府は194512月にはまだ、数百の人々がトレブリンカで熱いスチームによって窒息死されたというニュルンベルク裁判関連報告書を提出しています(ニュルンベルク資料3311-PS

 目撃証言によると、当初、死体は巨大な大量埋葬地に埋められていたが、その後、ドイツの敗色が濃くなったときに、ほとんど燃料を使わずに、戸外で焼却されたということです。したがって、トレブリンカ全体は、これらの埋葬地とともに存在していたことになります。20008月、私はオーストリアの技術者リヒャルト・クレーゲとともにトレブリンカとベルゼクで数日間を過ごしました。ベルゼクも、60000人のユダヤ人が(戦時中の話では電気によって、戦後の話ではディーゼル・エンジンによって)殺されたとされている「絶滅収容所」です。クレーゲは、大量埋葬地だけではなく鉱物資源の探査にも使われる地上レーダー装置を使って、これらの収容所の区画を調査しました。この装置は地下の地質構造の乱れも探査します。数百名の埋葬地が存在したにちがいないと思われるベルゼクのある地点をのぞいて、トレブリンカにもベルゼクにも、巨大な埋葬地があったと思われる場所、地下の地質構造の乱れもありませんでした。クレーゲは自分の研究を公表していますが、それは、トレブリンカとベルゼクの神話の終焉を意味することでしょう。

 絶滅収容所ではなかったとすれば、トレブリンカは何だったのでしょうか。答えは明らかです。通過収容所だったのです。ユダヤ人歴史家のアダム・ルトコフススキとタチヤナ・ベレンシュタインも、多くのユダヤ人がトレブリンカを経由して、ルブリン地方のマイダネクその他の労働収容所に移送された事実を認めています。1968年、Bulletin of the Jewish Historical Committee in Warsawは、Samuel Zylbersztainという名のユダヤ人の目撃証言を掲載しています。彼はトレブリンカに短期間滞在したのちにマイダネクに移送されました。彼の証言の題は「10の収容所の囚人の回想」となっていますので、トレブリンカ「絶滅収容所」、マイダネク「絶滅収容所」以外に、8つの普通の収容所に収容され、生き残ってきました。彼こそ、ドイツ人がユダヤ人を絶滅しなかったことの生きた事例です。

 トレブリンカが占領ソ連地区への通過収容所としても機能したということを証明するのは簡単ではありませんが、少なくとも、一つの決定的な証拠があります。トレブリンカ開設の8日後の1942731日、白ロシア総督ヴィルヘルム・クーベは、ワルシャワの1000名のポーランド系ユダヤ人がミンスクに移送されることに、電報で抗議しています。この当時、ワルシャワから移送されるユダヤ人すべてがトレブリンカに移送されており、このユダヤ人たちはトレブリンカ経由で移送されていたにちがいないからです。この一つの移送だけでも、トレブリンカが純粋な絶滅収容所であったという説を根拠のないものとするには十分です。もちろん、文書資料が不十分なために、多くの疑問点が残っています。

 

6. 東部戦線での射殺

 すでに申し上げましたように、ドイツ軍が東部戦線で多くのユダヤ人を射殺したことには疑問の余地がありません。そのおもな理由は、ユダヤ人がパルチザンの中でかなり高い割合を占めており、全体としてボリシェヴィキ・シンパであるとみなされていたことです。

 ホロコースト正史では、東部で殺されたユダヤ人の数を150万ほどとしており、犠牲者の大半は特別行動部隊によって殺されたということになっています。修正主義者はこのテーマについてあまり扱ってきませんでした。ただし、歴史家ウド・ヴァレンディ――彼はドイツで2年間投獄されていました――は、すでに1980年代初頭に、公式の犠牲者数に反対していましたが。東部戦線の特別行動部隊と処刑についての包括的な研究が現在準備されていますが、その出版までには数年かかることでしょう。

 東部戦線での犠牲者の数に対する疑問の中心は、証拠の欠如にあります。ソ連がカチンで4000名のポーランド軍将校を殺害したのち、ドイツは犠牲者の大量埋葬地を発見し、その身元を確認しました。同様に、共産主義者がヴィンニツァ近郊で殺害した8000名以上のウクライナ人の身元も、1943年に確認されています。これに対して、ソ連側は、カチンやヴィンニツァでのドイツ側の検証に匹敵するような、埋葬地と犠牲者を一つも提示してきませんでした。

 東部戦線でのドイツが行なったとされる、もっとも悪名高いユダヤ人虐殺はバービー・ヤール事件です。1941929日、少なくとも33000名のユダヤ人がここで射殺されたというのです。続く月々、10000名がこれに付け加えられたという話です。そして、ドイツは犯罪の痕跡を消し去るために、2年後、すべての死体を掘り起こし、焼却したというのです。この作業は19439月に完了したということになっています。しかし、合衆国空軍は1943926日にバービー・ヤール地区周辺を撮影していますが、そこには大量焼却の痕跡も、ひいては何らかの作業の痕跡も写ってはいません。植物分布や地形も変化していません(John Ball, "Air Photo Evidence" in E. Gauss, Dissecting the Holocaust)。したがって、バービー・ヤールの話がホラー宣伝であることが確証されます。バービー・ヤールの話は、東部戦線でのドイツ軍の虐殺を宣伝するためにもっとも広く利用されていましたので、その他の大量殺戮の話は、捏造されているか、少なくともひどく誇張されているということができます。

 

7. 見えない象

 1980年、イギリスのユダヤ人歴史家ワルター・ラカーは『恐るべき秘密』(Wiedenfeld and Nicolson, London)と題する大衆書を出版しました。彼は、アウシュヴィッツが弧絶した収容所ではなかったこと、アウシュヴィッツでの出来事は長期にわたって秘密ではありえなかったことを立証しています。すぐれた相互連絡網を持っていた連合国側は、数週間以内にすべてを発見しなくてはなりませんでした。しかし、ユダヤ人組織やレジスタンス運動が広めていたヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅物語にはまったく反応していません。1944年、連合国側は、アウシュヴィッツへのハンガリー系ユダヤ人の大量移送の時期に、ハンガリーとアウシュヴィッツを結ぶ唯一の鉄道幹線を爆撃することを控えています。終戦まで、ガス室という単語に触れた連合国側指導者は誰もいませんでした。したがって、連合国側はホロコーストを中止させようとはしなかったことになり、道徳的な責任をみずからに課すことになってしまいました。

 ラカーに続いて、マルティン・ギルバート、デイヴィッド・ヴァイマン(David Wyman)、リチャード・ブライトマンなどが同じテーマに取り組みました。連合国政府だけではなく、バチカン、国際赤十字も、アウシュヴィッツその他の収容所での事件を知らなかったはずはないのに、不可解な理由から、ユダヤ人の絶滅については、最後まで口にしませんでした。

 次のような話が出発点となります。

 

1.       アウシュヴィッツその他強制収容所での出来事は、長期にわたって秘密にしておくことはできなかった。

2.       それゆえ、連合国、バチカン、赤十字はアウシュヴィッツその他の収容所での出来事を正確に知っていたはずである。

3.       連合国、バチカン、赤十字は終戦まで、ガス室でのユダヤ人の絶滅についてはまったく口にしなかった。

 

ラカー、ギルバート、ヴァイマン、ブライトマンは、連合国、バチカン、赤十字も史上最大の大虐殺に責任があると結論しています。しかし、私には、アメリカの修正主義者バッツによる次のような結論の方が論理的に思われます。「私は自分の地下室に象がいるのを見たことがない。もしも、自分の地下室に象がいたとすれば、たしかにそれを見たことでしょう。だから、私の地下室には象はいなかったのです。」

 言い換えれば、連合国、バチカン、赤十字がユダヤ人の絶滅について口にしなかったのは、ガス室も絶滅もなかったからなのです。いずれにせよ、ホロコーストの「震源地」であるポーランドのユダヤ人指導者は、彼らが広めたホラー物語を信じてはいませんでした。ヒルバーグは彼の標準的な著作『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の中で、不本意ながら、その証拠をあげています。彼は、ウッジのユダヤ人ゲットーのユダヤ人が、19448月――「大量絶滅」が始まったとされている2年以上もあと――に、自分たちの意志で、抵抗もせずに、アウシュヴィッツへの列車に乗り込んでいく様子を描いています。彼らが、自分たちをそこで待っているのはガス室であることを知っていた、そのことを恐れていたとすれば、そのような振る舞いをしなかったことでしょう。ガス室、蒸気室、電気処刑施設というホラー物語はたえず広められていましたが、ポーランド系ユダヤ人にとって、それは戦争宣伝にすぎなかったのです。

 今日、蒸気室、電気処刑施設は忘れ去られていますが、ガス室は、歴史書の中で「歴史的に確定された事実」となっています。病気で82歳の高齢のスイス人Amaudruzは、戦争宣伝という偽造を信じるのを拒否した咎で投獄されています。「民主主義制度」がこのような弾圧措置をとらなくてはならない理由は十分にお分かりのことと思います。ホロコーストが虚偽であることが暴露されれば、イスラエル国家が消滅するだけではなく、西側の制度すべてが信頼を失ってしまうがゆえに、修正主義者を弾圧しようとしているのです。既存の政治家やジャーナリストの言葉を誰一人信用しなくなってしまうからです。

 

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