試訳:第二次大戦中のドイツの強制収容所における殺人ガス処刑についての目撃証言

ユルゲン・グラーフ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:200397

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Jürgen Graf, Eye Witness Testimony of Homocidal Gassings in German Concentration Camps During World War II,  Edited by Russ Granataを試訳したものである。

 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

(onlinehttp://www.russgranata.com/testimony-eng.html)


1.
 いくつかの基本的注釈

 

 第二次大戦中にユダヤ人が迫害を受けたことについて異論を呈するものは誰もいない。この迫害は実際に起こり、残酷なものであった。しかし、修正主義的な研究者は、ユダヤ人の組織的な絶滅を目的とした民族社会主義の計画が存在したこと、ユダヤ人囚人の殺戮のためのガス室を持った絶滅収容所が存在したこと、迫害の結果、600万のユダヤ人の生命が失われたことに対して異論を唱えている。修正主義者は、東部戦線でユダヤ人が射殺されたことには異論を唱えていない。彼らが問題としているのは、公式の文献に登場する犠牲者の数についてだけである。

 修正主義者にとって、1941年から1945年のあいだに起こったことは、歴史のなかに記録されているその他多くの虐殺事件と原則的に異なることのない虐殺事件である。人々が差別され、奴隷労働に使う目的で移送され、その結果、多くの人々が栄養失調、病気、過労によって死亡してしまうようなことは、過去においても珍しくなかった。ほとんどの戦争では、民間人が射殺され、民間人に対する犯罪行為が行なわれてきた。したがって、修正主義者は、公式の歴史家とは逆に、「ホロコースト」が独自の現象であったとはみなしていない。

 一つのことだけは明白である。もしも公式の歴史叙述が正しいとすれば、犯罪の独自性を認めなくてはならないが、それは犠牲者の数によるものではなく、使用された方法によるものであろう。共産主義の犠牲者の方が民族社会主義の犠牲者よりもはるかに多いことを誰も否定できないからである。それゆえ、殺人ガス室が実在したかどうかという問題は非常に重要である。殺人ガス室が実在しなければ、ドイツは組織的な大量殺戮を実行する手段を持たないので、「ホロコースト」と一般的に呼ばれている事件もありえないことになるであろう。

 

2. 修正主義に対するもっとも一般的な反論

 

 一見すると、「ホロコースト」を批判的に考察してこなかった人にとっては、修正主義者の説は馬鹿げたものに見えるかもしれない。西半球で育った人々は誰もが子供のときから、ユダヤ人の絶滅、ガス室、600万人の話を耳にしてきており、それを疑うことは、第二次世界大戦が起こらなかったと述べるに等しいからである。われわれの著作を読んだことのない人々と議論すると、おおむね以下のような3つの一般的な反論が修正主義者によせられる。

 反論1:数百万のユダヤ人はどこに消え去ってしまったのか。例えば、第二次世界大戦前には、約300万のユダヤ人がポーランドで暮らしていた、戦後には、数万、多くて数十万のユダヤ人が暮らしているだけである、このことは、250万から300万のユダヤ人がドイツ人によって殺されたことを証明しているというのである。

 反論21945年春に、アメリカ軍が多くの強制収容所を解放したとき、死体の山、歩く案山子を発見した。誰もがこの写真を知っている。それらはすべてハリウッドの偽物であるのか、というのである。

 反論3:多数の目撃証人が、ガス室での大量殺戮について物語っている。彼ら全員が嘘つきなのであろうか。多くの人々がまったく別個に、同じ話をすることはありえない。さらに、初代アウシュヴィッツ強制収容所長ルドルフ・ヘスのような著名な殺人者が数多く、自分たちは大量殺戮に関与したと自白している。これらの自白はすべて拷問によって引き出されたものなのであろうか、というのである。

 ここでは、この3つの反論のうち、目撃証言について扱おうと思うが、最初に、前二者の反論を手短に考察しておこう。

 消え去ったユダヤ人が殺されたのではないとすれば、彼らはどうなったのかという問題からはじめよう。別の研究者がこの問題を詳しく扱っているので、容易に反論できる。私の議論はフランス人研究者Jean-Marie Boisdefeuの研究(1)によっている。

 

「アルジェリアの植民地時代、約100万のフランス人がそこで暮らしていた。民族解放戦線が権力の座についたとき、その数は約10万に減ってしまった。このことは、民族解放戦線の兵士が90万のフランス人を殺したことを意味しているであろうか。そうではあるまい。大半のフランス人入植者は独立以前に自分たちの意志でフランスに帰国していたのである。それゆえ、ポーランド系ユダヤ人が消え去ったことは、彼らすべてが殺されたことの証明とはならない。その多くが、おそらく大半がまだ生存していて、ポーランドではなく、別の国で生活しているのではないだろうか。」

 

 Jean-Marie Boisdefeuの指摘のように、ポーランドでの人口学的変化は、はるかに劇的であった。大半のユダヤ人は1939年までポーランドの東半部に生活していたが、そこはソ連によって併合された。そのかわりに、ポーランドは、戦前にはユダヤ人がほとんど暮らしていなかったドイツ領を獲得した。

19781124日のState Times(Baton Rouge, Louisiana)の記事は、複雑な人口学的研究よりもはるかに活き活きと事態を説明している。

 

「スタインベルク家は、かつてはポーランドの小さなユダヤ人村で繁栄していた。ヒトラーの死の収容所の前のことであった。今日、200名以上の生存者や祖先が、感謝祭の日に始まった特別な4日間の祝祭を分かちあうために、集まっている。カナダ、フランス、イギリス、アルゼンチン、コロンビア、イスラエル、少なくとも13のアメリカの町から、親戚たちが木曜日にやってきた。シカゴからやってきたイリス・クラスノフはこう語っている。『信じられないことです。3ヶ月から85歳までの5世代がここにいます。みんな歓声をあげながら、すばらしい時間を過ごしています。まったく、第二次大戦の難民がふたたび集まったようなものです』。」[STATE-TIMES, Baton Rouge, Louisiana, 24 Nov. 1978 p.8-A]

 

 修正主義に対する二番目の反論、すなわち、解放された収容所で発見された死体や歩く案山子の写真についての問題に移ろう。これらの写真は、ハリウッドで製作された偽造ではない。不幸なことに、本物である。しかし、正史派、修正派も含めてすべての歴史家は、この写真の死体が殺された犠牲者の死体ではなく、疫病と栄養失調の犠牲者の死体であることを認めている。1944年末、ドイツの崩壊のために、強制収容所の状況はきわめて悪化していた。交通手段が空襲によって破壊されたので食糧不足が起こり、まだ機能していた西部地区の収容所は、東部地区の収容所からの移送者によって、ひどく過密となっていた。疫病が広がり、物資の不足のために、それを抑えることができなかったために、たとえば、ダッハウでは、19451月初頭から4月末までのあいだで、少なくとも15384名が死亡した。これはなんと、それまでの5年間の戦時中の死亡者よりも多かった。1940年初頭から1944年末までの死亡者は12455名であった(2)。したがって、上記の写真は、「ホロコースト」正史派の歴史家によると、1944年秋に中止されたガス室での「ホロコースト」とはまったく関係がない。しかし、これらの写真は依然として「ホロコースト」を証明する証拠として提示されており、栄養失調、チフス、赤痢の犠牲者の写真を展示することで、あつかましくも、アウシュヴィッツやトレブリンカには殺人ガス室が実在したことが「立証」されているとなっている。

 

3. 「ホロコースト」正史文献のなかでの目撃証言の価値

 

 ヒルバーグの著作『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(3)は、『ホロコースト』についての包括的な研究書とみなされている。ヨーロッパ・ユダヤ人への迫害、すなわち、ドイツとその同盟国による反ユダヤ主義的政策が、3巻本の数百頁にわたって、典拠資料に関する脚注をつけたうえで記述されている。しかし、この本の題は『ヨーロッパ・ユダヤ人の迫害』ではなく、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』となっている。これは誤解を招く題である。この浩瀚な著作が、「ホロコースト」の中心、すなわち、絶滅収容所でのユダヤ人の絶滅を扱っている箇所は、きわめて少ないからである。ヒルバーグがドイツ語版のなかで「絶滅」を扱っているのは、わずか19頁にすぎない。「絶滅収容所の疎開」を扱った11頁を加えても、30頁となるだけであり、2%強がユダヤ人の絶滅にあてられているにすぎない(4)。この30頁と脚注を注意深く読めば、ヒルバーグの記述は文書資料ではなくもっぱら目撃者の話にもとづいていることがわかる。いったいなぜなのか。殺人ガス室の建設と稼動についての文書資料、ユダヤ人の肉体的絶滅についてのドイツの計画に関する文書資料がまったくないからである。

 フランス人研究者プレサックが1994年に出版した『アウシュヴィッツの焼却棟』(5)は、修正主義を反駁するものとして西側世界では高く評価された。プレサックは序文のなかで、「信頼できない目撃証言」ではなく文書資料に依拠すると約束している(6)。しかし、驚くべきことに、プレサックは、ガス処刑を記述する典拠資料としては目撃証言に依拠しているのである。

 1996年、フランス人ジャック・バイナクは、「ホロコースト」正史派の研究者のなかで始めて、民族社会主義者の戦時中の収容所に殺人ガス室が実在したことを示す科学的証拠が存在しないことをはじめて認めた。彼は次のように記している(7)

 

「学術的な歴史家にとって、目撃証言は本当の歴史を描いているわけではない。それは歴史の対象なのである。一つの目撃証言は重要ではないし、多くの目撃証言も重要ではない。どれ一つとして文書資料にもとづいていないからである。学術的歴史学の前提条件は、誇張なく言えば、文書がなければ、証拠もないということでなくてはならない。」

 

4. 証拠の3つのタイプ

 

 修正主義に反対する歴史家バイナクが1996年に認めていることを言い換えれば、次のようになる。

 

「ドイツ国民に対する大量殺戮という悪意ある告発は、半世紀以上続いているが、それは目撃証言だけにもとづいている。われわれ修正主義者は目撃証言に満足していない。われわれの方法は、他の歴史的事件の調査と同様に、犯罪捜査で使われている方法をつかって第二次大戦中のユダヤ人の運命を調査することである。このことは、証拠の重要性には順番があることを意味している。法医学的証拠が第一であり、文書資料的証拠がそれに続き、目撃者の話は最後である(8)。」

 

 簡単な事例を挙げて説明しておこう。一人の男がナイフで殺され、血痕と指紋のついた凶器=ナイフが死体のそばで発見された。一人の目撃者が犯人はX氏であると証言した。警察は、捜査の最初の段階で、犠牲者の血液型がナイフについている血液型と同一であるかどうか、このナイフによって刺されたのかどうか、ナイフの握り手の指紋が容疑者の指紋であるかどうかを調査させた。この調査結果が目撃者の話とは逆であった場合、調査結果の方が重視される。たとえば、もしナイフの握り手の指紋がX氏の指紋ではないとすれば、そしてもし、捜査官が、被害者の傷は右利きの人物によって作られたものであり、X氏が左利きであることを確認したとすれば、捜査官は、目撃者が間違っている(おそらく、X氏が真犯人と似ていたためであろう)あるいは、二人は仲が悪いので、意図的に嘘をついているか、殺人者と告発することで彼に危害を加えたがっていると結論することであろう。

 法律家にとって、目撃証言が信用できないものであるとみなす十分な理由がある。第一に、目撃者は自分が経験したことと、事件のあとで読んだり、聞いたりしたこととを混同してしまうので、人間の記憶は不完全である。第二に、共感や反感といった感情が作用することがある。法的には、不公平な証人と公平な証人とを区別しなくてはならない。たとえば、公平な証人が自動車事故について証言したとすれば、警察は、自動車に乗っていた人々の証言よりも、彼の証言を信用することであろう。

 文書証拠は法医学的証拠と目撃証言の中間に位置する。「ホロコースト」の話題とは関係のない二つの事例をとりあげて、理由を明らかにしておこう。最初の事例は、文書に対する客観的証拠資料の優位性を示している。

 考古学者が、今日では何もない更地の上に町があったことを示す文書を発見したとしてみよう。発掘が始められたが、何も出てこない。数千年が経過したとしても、痕跡ぐらいはあるはずであるから、文書が間違っているに違いない。町の痕跡はまったくないので、客観的な証拠が文書に優先する。文書は歴史的現実を記録しているのではなく、話を記録しているのである。文書自体は本物であるかもしれないが、その中身が不完全であることがある。

 第二の事例は、目撃証言に対する文書証拠の優位性を示している。ある人物が、特定の時間に、町で犯罪を犯したと告発されているとする。彼は、その時間に町にいたことを否定し、二人が山登りに出かけていて、誰にもあわなかったと証言する証人を提示した。しかし、警察は犯罪が行なわれた町で、犯罪の日付と容疑者の署名のあるホテルの勘定書きを発見した。この場合、文書証拠のおかげで、目撃者は嘘つきということになる。目撃者は自分の友人を守るためか、金のために嘘をついていると推定できる。

 この単純な事例は、目撃証言が信用できないものであることを示している。化学的な屠殺場での大量殺戮という告発は、もっぱら目撃証言に依拠しているがゆえに、とりわけ、証人は公平ではなく、収容されていた時期に苦難を経験し、自分を収容した人々に対して客観的とはなり得ないユダヤ人強制収容所の囚人であるがゆえに、彼らの告発に対して疑問を抱くのは当然であろう。

 

5. 目撃証言対法医学的証拠および文書証拠

 

 これまで述べてきた方法は、警察が通常の非政治的犯罪を解決するために使っている方法である。「ホロコースト」というような大規模で巨大な犯罪を扱うにあたっては、戦勝国はその権力を行使して、収容所解放直後から、犯罪の証拠を保全したと推定しなくてはならない。どのようにして凶器が使われたのか、どのようなガスが使われたのか、どのような施設が使われたのか、専門的な分析を行なうことが非常に重要であった。

 ソ連軍はアウシュヴィッツとマイダネク収容所をほとんど無傷で捕獲した。ガス室として使われたとされる建物は、一部は現存しており、一部は廃墟となっている。目撃証言によると、両収容所では、青酸を含んだ殺虫剤チクロンBが大量殺戮に使われた(マイダネクでは、ボンベからの少量の一酸化炭素が使われたこともある)。

 化学者、技術者、建築家は、目撃者が述べているようなやり方と時間で大量殺戮が可能かどうかを確証するために、厳格な科学的ガイドラインにしたがって、施設をすぐに検証すべきであった。さらに、殺人ガス室とされている建物は、殺人目的で使うことができるかどうか検証されるべきであった。次に、焼却棟は、いわれているところの数の死体を処理できるかどうか検証されるべきであった。そして、壕での大量焼却の痕跡があるかどうか検証されるべきであった。

 しかし、このようなことはまったくなされなかった。確かに、ソ連委員会は、マイダネクの解放直後(19447月)、いくつかの物事を検証し、報告書を書いた(9)。しかし、ソ連の科学者のやり方には欠陥があり、ごまかしが含まれているので(10)、この報告書は「ホロコースト」正史の文献にさえも引用されていない。たとえば、チクロンBの缶が存在することが殺人ガス処刑の証拠とみなされている。この殺虫剤はチフスを広めるシラミの駆除のために、ほぼすべての強制収容所や前線で使用されていたことが知られていたにもかかわらず。チクロンBは国外にも販売された。たとえば、1943年、12トンのチクロンBがフィンランド軍に売られているが、フィンランド軍のなかで、それがユダヤ人の絶滅のために使われたと主張するものは誰もいない(11)。したがって、たんにチクロンBの缶の存在だけでは、殺人ガス処刑が行なわれたことの証拠とはならないのである。家の中に斧があることが、そこで犯罪が行なわれたことを意味していないのと同様である。

 これ以外にも、戦勝国はガス室での殺人について法医学的な証拠を提出しようとはしなかった。ニュルンベルクでも、西ドイツでのナチス裁判でも、凶器を扱った専門家の見解はまったく提出されなかった。

 修正主義者は、ドイツに対する告発者が怠ってきたことを埋め合わせてきた。最初に、修正主義者はアウシュヴィッツとマイダネクの「ガス室」の青写真を研究し、ガス処刑が行なわれたとされている部屋が、実際には、死体を保管する安置室もしくは地下室であったこと、マイダネクの「ガス室」は殺人目的ではなく、衣服の害虫駆除のために建設されたことを発見した。ついで、修正主義者は、このような部屋を、チクロンBを使った大量殺戮のために改造することが技術的に可能かどうか確証しようとした。そして、技術的・化学的理由からそれが不可能であるとの結論に達した(12)。もしもこのような結論が間違っているとすれば、修正主義に反対する研究者には、それを訂正し、自分たちの分析を提出する機会がいつでも十分にあったはずである。しかし、今日まで、そのようなことは行なわれていない。なぜなのであろうか。

 要点を整理しておこう。ドイツ側の青写真を検証すれば、目撃者が殺人ガス室とみなした施設が、そのような目的のために計画・建築されたのではないことがわかるであろう。さらに、技術的・化学的分析をすれば、チクロンBを使って、この施設で大量殺戮を実行することが不可能であることがわかるであろう。文書的証拠と法医学的証拠は、目撃証言と矛盾しているのである。

 「ホロコースト」を題材として、二つの事例を挙げておこう。一つは、目撃証言が、法医学的証拠によって、もう一つは、文書的証拠によって反駁されているものである。

 「ホロコースト」正史によると、19445月中旬から7月初頭のあいだに、18万から40万のハンガリー系ユダヤ人――犠牲者の数は典拠資料によって異なる――が、アウシュヴィッツ・ビルケナウのガス室で殺されたという(13)。焼却棟だけではこれほどの死体を処理できないことを誰もが認めているので、目撃者によると、大量の死体が戸外の壕で焼却されたという。この時期、連合国の偵察機が何回もアウシュヴィッツ・ビルケナウを撮影している。もっとも重要な写真は1944531日のものである。この日には、15000名のハンガリー系ユダヤ人がビルケナウに到着し、そのまえの2週間に18万人が到着していた、すなわち、1日平均13000名が到着したということになっている。しかし、531日の写真には、大量殺戮、大量焼却の痕跡はまったく写っていない(14)。壕や泥の山、焼却棟や「ガス室」の前の人の列、目撃証人の述べているような空を暗くする煙の痕跡はまったく写っていない。その他の写真を検討しても、同じことが言える。したがって、目撃証言は虚偽であり、アウシュヴィッツ・ビルケナウでのハンガリー系ユダヤ人の大量殺戮は起こらなかったことになる。(修正主義者の見解では、アウシュヴィッツは大半のハンガリー系ユダヤ人にとっては通過収容所であり、文書資料も部分的にではあるが、この説を確証している)。

 第二の事例では、目撃証言が文書資料によって反駁されている。目撃証人によると、小さな子供たちは労働不適格者であるがゆえに、アウシュヴィッツで殺されたことになっている。しかし、20004月初頭、マットーニョと私は、モスクワの文書館で、あるリストを発見した。それは、アウシュヴィッツ解放直後に、ソ連側の要請で、4名のユダヤ人囚人医師が作成したものであった。それは、ドイツ人が労働不適格者とみなして入院措置を取るべきであると考えた1000名以上のユダヤ人囚人の名簿である。そこには、生後数ヶ月から15歳までの97名のユダヤ人少年と83名のユダヤ人少女が含まれていた(15)。目撃証言が信用できるとすれば、これらの子供たちは、無駄飯食いとして殺され、入院措置の対象とはならなかったであろう。

 

6. 実際に「数千の目撃者」がいるのか

 

 人並みの知性をもっている人物であれば、修正主義者の議論を知れば、目撃証言よりも文書的証拠、法医学的証拠のほうが重要であることに疑問を抱かないであろうが、それでも、「数千の目撃者」が嘘をつくことはありえないと主張するかもしれない。犠牲者の数は水増しされているかもしれないが、ガス室物語は基本的に真実に違いないというのである。この主張には根本的な欠陥がある。「数千の目撃者」などいないのである。目撃証人の名に値するのは、起こったことを目撃し、事態を公平に述べることができる人だけである。今年の4月、スイスの修正主義者Gaston-Armand Amaudruzに対する裁判がローザンヌで開かれた。このとき、二人のユダヤ人囚人、トーマンとクラインが出廷した。前者は共同原告で、後者は検事側証人であった(16)。マスコミは彼らがガス室の目撃者であると報道した。しかし、実際には、二人ともガス処刑を目撃していなかった。彼らは、多くの人々がガス室に入っていき、そこから出てこなかったのを目撃したにすぎない。(トーマンとクラインは焼却棟の煙突から炎が出てくるのを目撃したとも述べているが、専門家が述べているように、そのようなことはありえない)。Amaudruz裁判での二人のユダヤ人のケースは、多くの「ガス室」目撃者の典型である。彼らは、他人から聞いたこと、自分で読んだことを伝えているにすぎない。実際にガス処刑の様子を述べている目撃者の数は、多くても10数である。何十年にわたる「ホロコースト」文献を読めば、同じ名前が登場している。ヘス、ブロード、ヴルバ、ミューラー、タウバー、ドラゴン、ニーシュリ、ベンデル、ゲルシュタイン、ヴィエルニクその他である。これらの目撃証言の信憑性を、わたしが自分の著作『アウシュヴィッツ:ホロコーストの実行者の自白と証言』(17)で行なったように、検証してみたければ、この検証作業はごく簡単である。いくつかの話に関心を向けてみればよいだけなのだから。「ホロコースト」全体は、これらの証言の信憑性にかかっている。

 

7. 目撃者の話は一致しているか

 

 修正主義の反対者は、修正主義者が目撃証言の小さな矛盾を大げさに取り上げて、人類史のなかのもっともおそろしい犯罪を否定しようとしていると主張している。目撃証言は重要な点では一致しており、小さな矛盾はたいしたことはないというのである。この問題を検討するにあたって、イタリアの反修正主義者Valentina Pisanty18)を引用しておこう。

 

「この虐殺事件を信じないのは、犯人が『ロッシを殺すつもりだ』と叫んでいるのを耳にし、ロッシが消え去り、10数名の人が犯罪を目撃していても、殺人が行なわれたとは信じようとしないのと同じである。裁判でいえば、二人の証人が殺人者のネクタイの色について異なった証言を行なうか、あるいは、この殺人は1735分に行なわれたと一人が証言し、もう一人が1740分に行なわれたと証言した場合、犯罪は行なわれなかった、ロッシ氏はモリディヴ諸島のビーチで散歩をしているというようなものである。」

 

 実際には、目撃証言は、Pisanty氏が考えている以上に、はるかに矛盾している。たとえば、60万のユダヤ人が殺されたとされているベルゼクでは、目撃証人は少なくとも8種類の異なった殺害方法を挙げている。ユダヤ人は、地下の貯水槽の金属板の上で、電気で殺された。ユダヤ人は、列車に閉じ込められ、熱せられた石灰を浴びせられて、骨から肉をゆっくりと引き剥がされた。ユダヤ人は小屋の中で、ディーゼル・エンジンの排気ガスで殺された、というように(19)。イタリアの修正主義者マットーニョはPisanty氏の例を次のように皮肉っている(20)。

 

「修正主義に対する裁判では、判事はいつも審理手順を侵犯し、検事側証人は異なった話を証言している。ある証人はロッシ氏が蒸気室で殺されたと証言する。次の証人は彼が塩素で窒息したと証言する。さらに、次の証人は、正体不明の『黒い物質』が凶器であったと証言する。また、次の証人は、ロッシ氏が金属板の上で電気処刑されたと証言する。この証言が次の証人の怒りをかきたて、ロッシ氏が、水の半分入ったシャフトを降りていったのを目撃したと証言する。次の証人は、ロッシ氏が一酸化炭素で殺されたときに、立ち会っていたと証言する。さらに次の証人は、ロッシ氏の部屋から空気がくみ出されていったために、彼は死亡したと証言する。そして、判事は、すべての証人は、ロッシ氏が殺されたという一つの点で一致していると述べて、自分の判決を正当化する。」

 

 以上のような状況であるうえに、さらに、ロッシ氏の死体が発見されていないことを忘れるべきではない。収容所で殺されたとされる数百万の犠牲者の死体は発見されていないのである。痕跡もなく、灰もなく、骨のかけらもなく、歯もないのである。

 戦争の初期には、アウシュヴィッツでの殺戮手段については、たがいに矛盾した話が語られていた。しかし、ポーランドのレジスタンスが戦争宣伝として広めた話のなかには、チクロンBは登場していなかった。証人たちが凶器としてあげたのは、毒ガス、電気浴室、空気圧縮ハンマーであった(21)。アウシュヴィッツ収容所が解放された6日後の194522日、ユダヤ系の記者ボリス・ポレヴォイは、アウシュヴィッツでは数百の囚人がコンベア・ベルトの上で同時に電気処刑されたと『プラウダ』紙に書いた。また、『プラウダ』はアウシュヴィッツでガス室を発見したが、それは、ビルケナウの西側ではなく、東側という間違った地点においてであった。まもなく、電気式コンベア・ベルトと東側のガス室は歴史のごみための中に永遠に消え去っていき、その後の報告書では、まったく新しい話が登場してきた。

 すなわち、ビルケナウでは、焼却棟および二つの農家の中で、殺虫剤のチクロンBを使った大量殺戮が行なわれたというのである。

 

8. 目撃証言はどのように調整されたのか

 

 19452月以降、証言は、多くの点でまだ矛盾を抱えていたが、アウシュヴィッツではチクロンBが凶器であったという点では一致するようになった。しかし、これらの証言を詳しく見てみれば、そこには技術的・科学的にありえないことが多く含まれており、そのために、信憑性がないことにすぐに気がつくであろう。一つの例を取り上げよう。死体の焼却時間が非現実的なほど短いのである。今日の近代的な焼却技術では、1燃焼室の焼却炉で1体を焼却するには1時間ほどかかる。同じことがアウシュヴィッツ・ビルケナウにもあてはまる(22)。ところが、アウシュヴィッツの証人は、はるかに短い時間を述べている。たとえば、Dov Paisikovicは、なんと1体の焼却には4分ほどしかかからなかったと述べている(23)。初代のアウシュヴィッツ所長であったルドルフ・ヘスは、ポーランドでの獄中で作成された回想録のなかで、1燃焼室炉は3体を20分ほどで焼却したと記している(24)。3kgの木材を燃やすには1kgの木材を燃やす時間の3倍必要である。これと同様に、3体を焼却するには、1体を焼却する時間の3倍必要である。とすると、ヘスの述べている時間は実際に必要な時間の9分の1ということになる。にもかかわらず、証人たちは長年にわたってこの話を繰り返してきた。たとえば、1979年に出版されたフィリップ・ミューラーの本は、3体が20分で焼却されたと述べている(25)。「ホロコースト」正史派は、多くの証人がまったく別個に同じ物語を思いつくことなどありえないと述べてきたが、その点では、彼らは正しい。ただし、証人たちはまったく別個にこの物語に到達したわけではないのである。

 収容所の解放直後から、囚人たちの証言はソ連によって調整された。1945214日から38日まで、ソ連の委員会はアウシュヴィッツで犯されたすべての虐殺事件を記録した。その報告書のなかで、委員会は、少なくとも400万人がアウシュヴィッツで殺されたと主張している(26)。アウシュヴィッツ博物館は、1990年代初頭まで、この馬鹿げた数字を支持していた。博物館は今日では150万人と語っているが、それでも10倍ほど多すぎる。1945年からの目撃証言を読んでみると、400万という数字がいつも登場する。ソ連の委員会は、初期の証人にどのような数字を挙げるべきかを指示し、その他の証人はこの数字をコピーしたのである。

 このことを考慮すると、目撃証言のなかに、たとえば、きわめて短い焼却時間、ガス処刑時間というようなありえない事柄が数多く登場することも理解できる。アウシュヴィッツで400万人が殺され、その死体があとかたもなく焼却されてしまったとすれば、ガス室と焼却棟は記録的なスピードでフル操業していなくてはならないからである。

 

9. ユダヤ人証人は、反対尋問を受けるといつも破綻してしまう

 

 フランス人研究者フォーリソンは、目撃証言についてのこの重要な点をはじめて指摘した人物である。通常の裁判でならば、弁護側は証人に対して反対尋問を行なう。証人が嘘をついていれば、論点が明らかとなる。しかし、ユダヤ人「ガス室目撃証人」がインタビューを受けるときには、このような反対尋問は行なわれなかった。これらの嘘つきたちは、あえて誰も批判的な質問をしようとはしなかったので、法廷から法廷に移動し、会合から会合に移動して、自分たちの作り話を広めることができた(27)。1945年以降、ユダヤ人証人の証言の信憑性に疑問を呈することは禁止されてきた。そのようなことを行なうのは、奇跡的な方法で、ガス室を逃れた人々をふたたび迫害することになるからであるというのである。

 1946年、ブルーノ・テシュ博士とカール・ヴァインバッヒャーに対するイギリスの法廷で、弁護人オットー・ツィッペル博士は、何名かのユダヤ人証人に対していくつかの批判的な質問をしている。おそらく、そのようなことをした弁護士は彼がはじめてだったであろう。テシュとヴァインバッヒャーはチクロンBを生産したドイツ害虫駆除協会の代表であった。この同じ殺虫剤が、チフスを広めるシラミを駆除することで、アウシュヴィッツでは数万の囚人の命を救っていた。法廷では、検事側証人のルーマニア系ユダヤ人ベンデルが、アウシュヴィッツでは400万人がチクロンBで殺された、焼却棟Wでは、1000名が長さ10m、幅4m、高さ1.6mの部屋に押し込められ、ガス処刑されたと証言した。ツィッペル博士が、1000名を64㎥の部屋に押し込めることが可能かどうか尋ねると、ベンデルは「ドイツ的な方法によって成し遂げられた」と答えた。ツィッペルがさらに、「10名を1㎥のなかに押し込めることができると本当に信じているのですか」と追求すると、ベンデルは「アウシュヴィッツでガス処刑された400万人がその証拠です」と答えた(28)。このようにして、「反対尋問」は終わった。400万人の殺害に関与したと告発されていたテシュ博士とヴァインバッヒャーは、ベンデルの証言にもとづいて有罪となり、絞首刑となった。

 ほぼ40年後の1985年、カナダのトロントで開かれた修正主義者ツンデルに対する裁判のなかで、ユダヤ人「ガス室」目撃証人は、弁護側の呵責のない反対尋問にさらされた。この証人は有名なルドルフ・ヴルバ博士である。彼はスロヴァキア系ユダヤ人で、1944年にアウシュヴィッツを逃亡し、仲間のユダヤ人アルフレッド・ヴェツラーとともに、収容所についての報告を書いた。それは、戦争難民局報告の一部として、194411月にニューヨークで発表された。1964年に刊行された『私は許すことはできない』のなかで、19431月に、SS全国指導者ヒムラーの訪問がどのように祝われたか、アウシュヴィッツ・ビルケナウの最初の焼却棟が3000名のユダヤ人をガス処刑することで始まったかを記している(29)(ヴルバは、ビルケナウの最初の焼却棟が稼動し始めたのは19431月ではなく3月であったこと、ヒムラーがアウシュヴィッツを最後に訪問したのは19427月であったという事実を気にかけていない)。以下が、ツンデル裁判での、弁護士クリスティとヴルバとのやり取りである(30)。

 

クリスティ:彼が19431月にやってきたのを目撃したのですか、それとも・・・

ヴルバ:19439月ですか1月ですか。

クリスティ:あなたの本には、19431月とありますが。

ヴルバ:いいえ、彼を目撃したのは19437月です、その後1943年…

クリスティ:しかし、ここには19431月とありますが。

ヴルバ:間違いにちがいありません。

クリスティ:間違いですって。

ヴルバ:はい。

クリスティ:フム、フム。でも、そのとき、彼がやってきたのを目撃したのですね。

ヴルバ:最初のときは、今のあなたと同じように、彼は私に近寄ってきたので、やってきたのを目撃しました。

クリスティ:フム、フム。

ヴルバ:二番目は、車に乗っているところを目撃しました。最初のときと同じです。おそらく彼だったかもしれませんが、彼の代理であったかもしれません。それは重大ではありません。

クリスティ:しかし、ヒムラーがのぞき穴からガス室をのぞいていたのを実際に目撃したと証言していますね。

ヴルバ:いいえ、ヒムラーがガス室をのぞきこんでいたときに立ち会っていたとは主張したことはありません。現場に立ち会っていて、すべてを話してくれた多くの人々から何回も聞いたことをまとめたにすぎません。

クリスティ:しかし、あなたの本では、あなたがすべてを見たと書いているではありませんか。伝聞を書いたとは言っていません。

ヴルバ:この場合、私は伝聞を書いたのです。

 

 ヴルバは最後に、自分がこの本を書いたときには、「詩的修辞法」を使ったことを認めた。

 

10. 「犯人の自白」

 

よく知られているように、無防備な囚人には何でも認めさせることができる。中世ヨーロッパの魔女狩りでは、多くの女性たちが、箒に乗って空を飛び、悪魔と性交したことを認めた。戦後、ドイツ人から拷問を使って自白を引き出すことは一般的であった。初代アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスはそのような事例の一つである。彼は、自分が責任者であった194311月までに、アウシュヴィッツで250万人が殺され、さらに、50万人が栄養失調と病気で死んだことを、イギリス軍の獄中で認めた(31)。この数は、1940年から1945年までにアウシュヴィッツに移送されてきた人々の数の2倍である。さらに、ヘスは19416月にトレブリンカ収容所を訪問したと述べているが、実際には、トレブリンカ収容所が設立されたのは、13ヵ月後の19427月なのである。作家Rupert Butler1983年に出版した『死の部隊』(32)のなかで、イギリス人がヘスから自白をどのように手に入れたのか記している。何と3日間にわたって拷問したのである。その他のケースでは、もっと狡猾な戦術が使われた。釈放や減刑のみかえりに、被告は犯罪を認めたのである。古典的な事例は、アウシュヴィッツに勤務したことがあって、イギリス軍に逮捕されたSS隊員ペリー・ブロードである。彼は英語を話せたので、通訳を務め、そのあとで報告書を書いて、アウシュヴィッツでは、前代未聞の規模で大量殺戮が行なわれたと述べた(33)。ドイツ人とくにSS隊員は法の保護の外に置かれていた。したがって、イギリス人はブロードを銃殺するか、絞首刑にするか、終身刑にするはずである。しかし、このような処罰は科されなかった。何と、ブロードは釈放されたのである。

ドイツで開かれたナチス裁判でもまったく同様であった。大量殺戮なるものが実際に起こったのかどうか誰も検証しようとはせず、個々人の有罪だけが確定された。被告は大量殺戮を否定すれば、「改悛していない嘘つき」とみなされてしまい、絶望的な状況におかれてしまう。だから、被告たちはガス室でのユダヤ人の大量殺戮を否定せず、自分個人の罪だけを否定したのである。証人に矛盾を指摘されると、命令に従っただけだと主張したのである(34)

このようにして、「目撃証言」と「犯人の自白」が登場し、ガス室での数百万の殺戮の証拠として利用されたのである。もしも、このような大量殺戮が実際に起こったとすれば、自白や証言に頼る必要はないであろう。アメリカ人が1945年に原子爆弾を日本に投下したことを証明するのに、自白も目撃証言も必要ないのである。

「ホロコースト」正史の構図にある、もっと奇怪な矛盾点を指摘しておきたい。「ホロコースト」正史派の歴史家たちは、ユダヤ人の絶滅に関する文書資料が存在しない理由、「絶滅収容所」には大量埋葬地が存在しない理由を尋ねられると、ドイツ人は証拠を抹殺しようとしたと答える。ドイツ人は何も書き残さなかったし、残った資料を破棄した。ドイツ人はガス処刑された犠牲者の死体を焼却し、灰や骨の断片をばら撒いてしまった。だから、大量殺戮については、「無数の目撃者」の話からだけ、その実情を知ることができる、というのである。しかし、高名な「歴史家たち」は、ドイツ人がこのような「無数の目撃者」を処分してしまわなかった理由を説明することができない。強制収容所から生きたまま解放されたユダヤ人一人一人が、ユダヤ人全員の絶滅がドイツ人の意図ではなかったことの証拠である。今年の2月、私は少なくとも10の収容所を生き残ったポーランド系ユダヤ人サムエル・ジルベルシュタインの話を発見した。彼は、トレブリンカ「絶滅」収容所、マイダネク「絶滅」収容所、そして8つの「一般」収容所を生き残ったという(35)。ユダヤ人たちは、これらの目撃証人の話が「ホロコースト」が起こった証拠であると信じさせようとしているが、実際には、彼ら自身が、反対のことを立証している証拠なのである。

 

11. ユダヤ人大学教授が目撃証言の価値についてコメントしている

 

 近年、「ホロコースト」宣伝は西側世界のなかで、広範囲に行なわれている。大多数の人々は、「ホロコースト」正史を新聞で読み、ラジオで聞き、テレビで見ているので、この話を信じきっている。しかし、この話題にはうんざりもしている。近年、シオニストたちは、自分たちの民族の実際の苦難、想像上の苦難を、パレスチナ人の抑圧や、アラブ人の土地の不法占拠の口実だけではなく、多くの国々から金銭を引き出すために利用しており、そのことに、多くの人々がうんざりしている。イギリスの歴史家アーヴィングは、西側世界で反ユダヤ主義が台頭している理由を次のように明確に述べている(36)。

 

「彼らの中に、憎悪を広めてしまうようなものがあるのであろうか。彼らはこれについて考えたほうがよい。今日、彼らは憎まれているが、それは彼らがたえず広めている『ホロコースト宣伝』のためでもある。新聞を開いたり、テレビを見たりすれば、どこでもホロコーストにぶつかる。ホロコースト、ホロコースト、ホロコースト、どこでもホロコーストである。ホロコーストは、西側文化のすべてのメディアを『ハイジャック』してしまった。世界はそのことにうんざりしている。人々は我慢できなくなっており、ユダヤ人に対する暴力行為にうったえようとしている。もしも、ユダヤ人が『ホロコースト宣伝』をやめなければ、本当のホロコーストに出会うかもしれない。」

 

 ユダヤ人の指導者は自分たちの貪欲な政策を「ガス室」と「600万人」で正当化しているが、知的なユダヤ人は、この政策によって反ユダヤ主義が台頭し、かつてないほどの規模でポグロムが起こってしまうことを自覚している。このために、両親が戦時中にドイツの強制収容所に収容されていた経験を持つユダヤ人大学教授ノーマン・フィンケルシュタインは、ホロコースト産業に対する怜悧な攻撃を始めた。彼は次のように書いている(37)。

 

「私は、自分の両親の苦難について一つでも質問した友人(あるいは友人の親)がいたことを覚えていない。それは礼儀から出た沈黙ではない。無関心である。ホロコースト産業はすでに根を下ろしていたが、このことを考えると、その後の苦痛の噴出には懐疑的にならざるをえない。…父の終生の友人の一人は、アウシュヴィッツで父の同僚であり、原則的に戦後のドイツの補償を拒否した買収されない左翼の理想主義者であった。その後、彼はイスラエルのホロコースト博物館ヤド・ヴァシェムの館長となった。父はためらいながらも、本当に失望して、この男でさえも、権力と利益のために信念を譲り渡し、ホロコースト産業に毒されてしまったことを認めた。ホロコースト宣伝はますます馬鹿げたかたちをとるようになったので、私の母は、(皮肉をこめながら)、『歴史とは駄法螺である』というヘンリー・フォードの文章を引用するのを好んでいた。『ホロコーストの生存者』、強制収容所の囚人、抵抗運動の英雄たちの話は、私の家庭では、皮肉や嘲笑の対象であった。私の両親は、私がナチスの虐殺事件の偽造や利用に憤慨するようになっていったことをしばしば不思議に思っていた。これに対する明確な回答は、このことがイスラエルの犯罪的な政策とこの政策へのアメリカの支持を正当化するために利用されてきたというものである。さらに、個人的な動機もある。私の家族の迫害の記憶を大事にしているのである。ホロコースト産業の今日のキャンペーンは、『貧しいホロコーストの犠牲者』の名において、ヨーロッパから金を引き出すことであるが、それは、殉教者の道徳的立場をモンテ・カルロのカジノの立場におとしめてきた。」

 

 おそらく、フィンケルシュタイン教授は、このような非難の言葉を書いているときに、自分がホロコースト正史の根本を危うくしているとは気づいていなかったであろう。彼の両親は強制収容所の状況を直接知っていたが、その彼らにとって、いわゆる生存者の話は、フィンケルシュタインの言葉を借りれば、「皮肉や嘲笑の対象」、「ますます馬鹿げたかたちをとるようになった」ホロコーストの繰り返しであった。

 ガス室でのユダヤ人の絶滅に関する法医学的証拠、文書的証拠はまったく存在しない。残されているのは、目撃証言だけであり、それがホロコーストという屋根を支えている柱となっている。そして、フィンケルシュタインは、目撃証言を嘲笑することによって、この柱を打ち砕いているのである。

 神秘的なことに、この屋根は支柱なしで、空中に漂っている。なんという奇跡であろうか。第二次世界大戦中のユダヤ人の状況に関する正史の物語を受け入れれば、この奇跡を信じることができる。しかし、その奇跡を信じているあいだは、ホロコースト正史の物語が真実であるとすれば、化学的・物理的基準はそこでは作用しないのである。

 

 

歴史修正主義研究会ホーム

 

1. Jean-Marie Boisdefeu, La controverse sur l'extermination des Juifs par les Allemands. Volume II: Réalités de la "Solution Finale", Vrij Historisch Onderzoek, Berchem 1996, p. 107.
2. Johann Neuhäusler, Wie war das im KZ Dachau?, Kuratorium für Sühnemal KZ Dachau, Munich 1981, p. 27.
3. Raul Hilberg, Die Vernichtung der europaischen Juden [The Destruction of the European Jews], Fischer Taschenbuch Verlag, Frankfurt 1997, 3 volumes.
4. Regarding the chapter dealing with the "extermination operations" and the "extermination center," in Die Vernichtung der europäischen Juden [The Destruction of the European Jews] (see previous notes) appearing on pages 1027-1057.
5. Jean-Claude Pressac, Les crématoires d'Auschwitz, CNRS, Paris 1994.
6. ibid., p. 2.
7. Le Nouveau Quotidien, Lausanne, 3. September 1996.
8.
証拠のヒエラルヒーについは、Manfred Köhler, Professor Dr. Ernst Nolte: Auch Holocaust-Lügen haben kurze Beine!, Cromwell Press, London 1994, and also Manfred Köhler, "Der Wert von Aussagen und Geständnissen zum Holocaust", in Ernst Gauss (Editor), Grundlagen zur Zeitgeschichte, Grabert Verlag, Tübingen 199, [and Dissectiong the Holocaust, Theses & Dissertations Press, 2000.]参照。
9.
マイダネクに関するソ連の見解はモスクワ文書館にある(Gossudarstvenni Archiv Rossiskoj Federatsii, 7021-107-9).
10. Compare Jürgen Graf und Carlo Mattogno, KL Majdanek. Eine historische und technische Studie, Castle Hill Publisher, Hastings 1998.
11. William B. Lindsay, "Zyklon B, Auschwitz and the Trial of Dr. Bruno Tesch", in: Journal of Historical Review, Vol. 4, No. 3, autumn 1983, p. 261 ff.
12.
アウシュヴィッツの「ガス室」に関するもっとも厳格な検証はルドルフ報告である (Cromwell Press, London 1993; expanded and updated edition from Castle Hill Publisher, Hastings, 2000). マイダネクのガス室に関しては、compare chapter 6 by Graf/Mattogno, KL Majdanek, see prior notation.
13. Compare with Jürgen Graf, "Was geschah mit den nach Auschwitz deportierten, jedoch dort nicht registrierten Juden?" in Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung, Hastings, Nr. 2/2000.  ["What Happened to the Jews who were Deported to Auschwitz but were not Registered There?"
http://www.russgranata.com/Orange-eng.html ]
14. John Ball, Air Photo Evidence, Ball Ressource Services, Delta/B.C. (Canada) 1992.
15. Gossudarstvenni Archiv Rossiskoj Federatsii, 7021-108-23.
16.
この裁判に関しては、see the pamphlet Der Amaudruz-Prozess. Eine Justizfarce, Vérité et Justice, C.P. 355, 1618 Châtel-St. Denis, Switzerland 2000.
17. Published 1994 by Neue Visionen, Würenlos/Switzerland.
18. Valentina Pisanty, L'irritante questione delle camere a gas. Logica del negazionismo, Bompiani, Milan 1998, p. 191.
19.
これに関しては、see, for example Carlo Mattogno, Il mito dello sterminio ebraico, Sentinella d'Italia, Monfalcone 1985, or Jürgen Graf, Der Holocaust auf dem Prüfstand, Gideon Burg Verlag, Basel 1993.
20. Carlo Mattogno, L'irritante problema delle camere a gas, ovvero: Da Cappuccetto Rosso ad ...Auschwitz. Risposta a Valentina Pisanty, Graphos, Genoa 1998, p. 164.
21. Enrique Aynat, Estudios sobre el "Holocausto", Gráficas Hurtado, Burjassot/Valencia 1994.
22.
詳しくはsee Carlo Mattogno and Franco Deana, "Die Krematoriumsöfen von Auschwitz-Birkenau," more in: Ernst Gauss (Editor), Grundlagen zur Zeitgeschichte, Grabert Verlag, Tübingen 1994, as well as the detailed Carlo Mattogno, I forni crematori di Auschwitz.Studio storico-tecnico con la collaborazione del Dott. Ing. Franco Deana, Edizioni di Ar, Padua, expected during 2001.
23. Léon Poliakov, Auschwitz, René Julliard, Paris 1964, p. 159 ff.
24. Martin Broszat (Editor), Kommandant in Auschwitz. Autobiographische Aufzeichnungen des Rudolf Höss, dtv., Frankfurt 1981, p. 171.
25. Published by Verlag Steinhausen, Frankfurt a.M., p. complete page
26. Gosudarstvenni Archiv Rossiskoj Federatsi, 7021-108-15, p. 16.
27. Robert Faurisson, "Die Zeugen der Gaskammern von Auschwitz", in: Ernst Gauss (Editor), Grundlagen zur Zeitgeschichte, Grabert Verlag, Tübingen 1994, p. 99 ff.
28. Nuremberg Document NI-11953.
29. Rudolf Vrba, I cannot forgive, Bantam, Toronto 1964, p. 10 ff.
30. The transcript of the first Zündel-Trial, Toronto 1985, p. 1244 ff. I thank Prof. R. Faurisson for the friendly sending of this transcript to me.
31. Nuremberg Document NO 3868-PS.
32. Rupert Butler, Legions of Death, Arrow Books, 1983, p. 235 ff.
33. Pery Broads Erinnerungen [reminiscences] are reproduced in the book Auschwitz in den Augen der SS, Kattowitz 1981.
34.
ナチス裁判に関しては、see/compare especially Wilhelm Stäglich, Der Auschwitz Mythos, Grabert Verlag, Tübingen 1979, as well as Manfred Köhler in E. Gauss (Editor), Grundlagen zur Zeitgeschichte (compare note 8).
35. Samuel Zylbersztain, "Pamietnik Wieznia dziesieciu obozów," in: Biuletyn Zydowskiego Instytutu Historycznego, Nr. 68, Warsaw 1968.
36. Journal of Historical Review, Vol. 19, Nr. 1, January/February 2000, p. 51.
37. The Guardian, 12 June 2000.