試訳:カタコンベの修正主義者たち

――「地下に潜る」修正主義者たち――

F. フリーマン

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2007719

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Frederic Freeman, Going Underground: 'Catacomb Revisionists' and Revisionist Repressionを「カタコンベの修正主義者たち」と題して試訳したものである(文中のマークは当研究会による)。

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online http://www.codoh.com/newrevoices/nrffunder.html

[歴史的修正主義研究会による解題]

 近年、歴史的修正主義、ホロコースト修正主義の研究水準と研究蓄積のレベルは、ホロコースト正史派のそれをはるかに凌駕するに至っており、こと「大量ガス処刑」、「殺人ガス室」問題では、ホロコースト正史派は沈黙・遁走を余儀なくされている。しかし、その反面、とくにヨーロッパ諸国では、修正主義に対する政治的・司法的・物理的弾圧は厳しくなってきており、修正主義者たちは、自分の生活や家族を守るために「地下に潜る」ことを余儀なくされている(「カタコンベの修正主義者たち」)。

 

はじめに

 多くの人々にとって、「地下に潜る」という用語は、反体制的サブカルチャーのイメージと結びついている。「地下に潜る」集団や個々人を想定する場合、彼らの思考や思想が表の主流の社会では迫害されていることをイメージすることが多い。ドストエフスキイは、啓蒙主義的合理主義を厳しく攻撃するにあたって、この用語を利用して『地下生活者の手記』を書いた。また、奴隷たちが19世紀に、北部の「自由州」に逃亡するときに利用した地下ルート=「地下水道」を思い起こす人も多いであろう。

 一般の人々にとって、この「地下に潜る」というイメージは、2000年ほどもさかのぼって、古代ローマにおける初期キリスト教文化と結びついている。当時、キリスト教徒は肉体の再生を信じていたので、死者を地中に埋葬しようとしていた。これらの初期の地下墓地は「カタコンベ」として知られるようになった。ローマの法律は市内での埋葬を禁止していたので、キリスト教徒たちは地下墓地を市の境界のすぐ外側に作った。カタコンベは、埋葬地としても供養の地としても利用された[1]

 世間一般では、カタコンベはキリスト教徒がローマから迫害を受けていた時代を通じて、彼らの秘密の隠れ家となっていたとみなされている。しかし、今日では、このようなカタコンベのイメージに賛成している歴史家は数少ない[2]。だが、ヴァルター・リュフトルが「カタコンベの修正主義者たち」という用語を使っているのは、まさにこの世間一般のイメージからである[3]。彼はThe Revisionist編集局への手紙の中でこう述べている。

 

「ここには、私たちがどのようにして隠れ修正主義者を作り出すのか、もしくは、隠れ修正主義者はどのように登場するのかの実例があがっています。私は隠れ修正主義者のことを『カタコンベの修正主義者たち』と呼んでいます。彼もローマ時代の初期キリスト教徒と同じように、カタコンベの中に潜んでやっとのことで生き残っているからです[]。お信じにならないかもしれませんが、私はすでに数多くの人々をカタコンベの修正主義者に『改宗』させてきました。でも、こうした人々が『改宗』してから手に入れることができた知識を広めようとするとき、自分たちの家族や世間の中で難題に遭遇しています。多くの人々は『信じ込んでいることと事実』とを区別することができないからです。」[4]

 

 今日、ホロコースト正史に疑問を呈そうとする、それに反駁しようとする修正主義的歴史家たちは世界各地で迫害され、投獄されている。彼らは、この迫害のために筆を折ったり、口をつぐんだりしてはいないが、「地下に潜って」、「カタコンベの修正主義者」となっている。新たに修正主義に「改宗」した人々の多くは、中傷と迫害を恐れて、変名を使って執筆してきた。確固とした立場を固めていた修正主義者であっても、政府からのは迫害及び民間団体からの迫害をさせるために、変名という古くからの戦術を利用して、この歴史上の時代についての自分たちの見解を表明してきたのである。

 

初期の歴史

 ホロコースト修正主義には、その筆者が「筆名」を使うという長い顕著な歴史がある。Josef Ginsburg3つの初期の著作は、J.G. Burgという筆名を使っている。1962年のSchuld und Schicksal(負い目と運命)、1967年のSuendenboecke(いけにえの羊)、1968年のNS-Verbrechen(民族社会主義犯罪)がそれである。Ginsburgは戦時中にナチスによって移送された経験を持つユダヤ系の作家である。Ginsburgがこの筆名を使ったのは自分自身と家族を守るためであったろう[5]

 ホロコースト物語をあつかった修正主義的な英語の書物の中で、The Myth of the Six Million600万人という神話)はもっとも古いものの一つである。1969年にはじめて出版された。その著者はたんにanonymous(匿名)となっていた[6]。今日ではこの著者は、バークレイのカリフォルニア大学、サンフランシスコ州立大学その他の高等教育機関で教鞭を振るっていたDavid L. Hogganであることが知られている[7]Noontide Pressが彼の研究を匿名のままで出版しているのは、彼に対する学会からの懲罰を避けるためである[8]

 1974年、非常に影響力を持った小冊子Did Six Million Really Die?600万人が本当に死んだのか?)がリチャード・ハーウッドという筆名で執筆された。その後、この小冊子の著者はRichard Verrallであることが分かっている。のちに、David McCaldenDitlieb Feldererなど数名の筆者がこの「ハーウッド」なる筆名を使っている[9]。歴史評論研究所初代所長となるMcCaldenは、Lewis Brandonという筆名をしばしば使っている[10]Did Six Million Really Die?を出版した件についての1988年のツンデル裁判の中で、CODOH創設者・議長のBradley Smithは、「正真正銘の」歴史上の事件に対して少しでも疑問を呈すると、暴力をふるわれることがあるので、筆名を使うことは時として必要であるとしてしている[11]

 Ditlieb Feldererは初期の修正主義的著作Auschwitz Exit(アウシュヴィッツの出口)を出版するにあたって、Abraham Cohenという筆名を使った。Feldererは、本名を使うと共産主義諸国への入国を拒否されてしまうので、筆名を使って入国し当地での研究を行なおうとしたと述べている。Feldererの心配は当たったようである。1981年、彼はポーランド政府によって逮捕・投獄された[12]

 修正主義者がかなり昔から筆名を使っていたことは明らかである。筆名の使用は、政府による弾圧から群衆の暴力にまたがる深刻な脅威を回避するための論理的結論であった。自分自身、経歴、ひいては愛する人々を守るために、修正主義者はさまざまな筆名を使わざるをえなかったのである。修正主義に反対する人々の中には、筆名の使用が「知的不誠実」であると非難する人もいるが、そうではなく、迫害を避ける手段であった。

 

批判

 修正主義を中傷する人々は、修正主義者による筆名の使用をたびたび非難してきた。リップシュタットは『ホロコーストの否定』の中で、筆名の使用を例の調子で侮蔑している。彼女はリチャード・ハーウッドに目標を定め、彼がロンドン大学関係者であるとのオリジナルの主張を攻撃した。リップシュタットにとっては、ハーウッドの素性を「カモフラージュ」しようとしたのは、彼がイギリス国民戦線と関係があることを隠すためであったという[13]

 おそらく、修正主義者が筆名を使うことをもっとも厳しく批判しているのは、おもにインターネットで活動している反修正主義グループであるHolocaust History Projectのハリー・マザル(Harry Mazal)であろう。マザルのおもなターゲットはゲルマール・ルドルフであり、ルドルフがさまざまな筆名を使ってきたことを「事態を曖昧にして、混乱させようとする試み」と非難している。マザルはこう記している。

 

「ルドルフ氏は、その他の多くのホロコースト否定派と同じように、インターネット上ではnymsという用語で知られているさまざまな筆名を作り出した。大半の否定派はネット上の討論グループの中で、このような筆名を使って自分たちの素性を隠している。」[14]

 

 リップシュタットは修正主義者が筆名を使うのは邪悪な意図があると述べているが、マザルはそこまで言っているわけではないかもしれないが、nymsの使用は混乱をもたらし、素性を隠していると考えている。彼はまた、クロウェルを名指して、「『サミュエル・クロウェル』のような人々も、自分たちの日常活動の場所での難儀を避けるためにnymを使っている」と非難している[15]しかし、マザルは、修正主義者が日常活動の場所でなぜ「難儀」を被るのか、だれがその「難儀」をもたらしているのかについては口をつぐんでいる。しかも、多くの修正主義者はその修正主義的な活動のために、「難儀」を被るどころか、職を失っているのである[16]

 修正主義者の中には、変名や筆名の使用に批判的な人々もいる。筆名の使用には長い歴史があったにもかかわらず、自分の研究や見解を公開していたさまざまな修正主義者は、変名を使う修正主義者に不快感を表明することもあった。変名の使用は、彼らが「地下に潜む」修正主義者たちに与えようとしている信頼と信用を貶めてしまうというのである。マーク・ウェーバーは、『歴史評論』誌編集長であったとき、筆名による研究論文の掲載をしぶっていた。アーヴィングも、陰に隠れることを選択している修正主義者たちをずっと批判してきた。変名の使用を偽善的に非難し、ホロコーストに関する疑問を呈する人々への弾圧を奨励している反修正主義者からの批判よりも、修正主義のために闘ってすべてを失った、ひいては投獄されたアーヴィングのような人々からの批判の方がはるかに了解できる。

 

反修正主義法

 修正主義者の恐れる迫害は1960年代初頭から始まっていたが、迫害や政府の弾圧がひどいものになったのはおもに1980年代以降であった。修正主義的研究者が匿名で発表した小論がこの状況をこうまとめている。

 

1980年代までに、ヨーロッパとカナダのホロコースト正史派の研究者、ユダヤ人団体、政治家のあいだで、ホロコースト正史に対する異論を犯罪としようとする強力な運動が巻き起こった。合衆国だけが、憲法で言論の自由を保障していたために、このような検閲措置をとることを差し控えた。それ以外の西側諸国は、言論の自由という市民的権利を無視して、検閲措置、弾圧措置を採用するようになったが、それでも、定説ではないことを執筆したり、読んだりした咎で政府から迫害を受けるべきではないという知的自由という概念は守られていると考えられてきた。」[17]

 

1996年までに、ヨーロッパでこのような『反修正主義法』が存在しない国はデンマークだけになるであろう。しかし、あるヨーロッパ諸国の市民は、最初の国で訴追の対象とされていれば、どの国の市民であっても告訴することができるというヨーロッパ共同市場規約のために、このちょっとした修正主義の勝利は台無しになってしまった。1996年までに、カナダ、オーストラリア、南アフリカ、メキシコは、ホロコースト修正主義者を法的に迫害することであろう。」[18]

 

 ホロコースト修正主義を非合法とする国の数は年々増えている。フランスの抑圧的な「ゲイソ法」は1990713日に公布された。スイスは、反修正主義法を19949月に発効した。ドイツは1994年秋に同調し、「民族社会主義体制のもとで侵された犯罪を否定もしくは矮小化することを」刑事犯罪とみなした[19]。ベルギーは19953月に反ホロコースト否定法を採択した。その他の諸国もこれにならうであろう。ヨーロッパ諸国の政府が、各種のユダヤ人活動家団体の求めに応じて、「思想犯罪」取締法のようなたぐいの法律を公布したために、修正主義者たちはさらに地下に追いやられていった[20]。ちなみに、修正主義を非合法とする流れのために、1990年代以降、修正主義者たちはさらに広く変名を使わざるをえなくなった。

 

インターネット時代

 インターネット自体はかなり昔から存在していたが、広く普及するようになったのは1990年代であった。修正主義者も最初からそこに活動の場を見出していた。19918月、Dan Gannonが自分のBBS「禁じられたCPU」を開いた[21]1992年には、激しいホロコースト論争がGenie Prodigyシステム上のフォーラムで行われていた[22]。だが、もっとも重要な討論が行われはじめたのは、ニューズグループのalt.revisionism上であった。

 インターネットは修正主義者がさまざまな変名を利用する推進力となった。個人のフルネームよりも、メールのアドレスの方が広く利用されるようになっていった。同じように、alt.revisionismなどのニューズグループ上でもハンドルネームが作られ、個人の素性を隠すようになっていった。修正主義者も反修正主義者も、ニューズグループを渡り歩く個々人と同様に、自分たちの本名以外のIDを持つようになっていった。

 修正主義者が素性を明らかにしたこともあるが、その場合には、彼らの個人情報が分類・整理されて、ばらまかれるだけであった。いやがらせが増えれば増えるほど、人々はますます素性を隠すようになっていった。

 

ゲルマール・ルドルフ

 ゲルマール・ルドルフが修正主義の活動舞台に姿を現したのは、ヨーロッパが厳しい反修正主義法を公布し、インターネットが家庭に普及するようになった1992年のことである。ルドルフは変名の使用を芸術の高みにまで押し上げたといえるかもしれないが、そのために、誰にもまして攻撃の対象となった。

 ルドルフは化学の専門家であったために、ドイツの対修正主義者裁判の弁護側専門家証人として何度も召喚された。ウド・ヴァレンディ裁判(19922月)、Gerd Honsik裁判(19923月)、アーヴィング裁判(19925月)、Max Wahl裁判(19927月)などである。ルドルフは、これらの裁判の中で、判事たちが専門家証人の証言も含むほとんどすべての弁護側証拠を却下したことを知った。彼はこう述べている。

 

「あるケースでは、化学者(私)が却下されたのは毒物学者、歴史家ではないためであり、技術者(ロイヒター)が却下されたのは化学者、歴史家ではないためであり、歴史家(Haverbeck教授)が却下されたのは化学者、技術者ではないためであったことを知らなくてはならなかった。」[23]

 

 ルドルフは、ドイツの司法制度は腐敗しており、専門家証人は同時に、技術者、化学者、毒物学者、歴史家、さらには弁護士でなくてはならないと結論している。彼はこのようなことを念頭に置きながら、このような資格を持つ人物を作り上げることによって、ドイツで通用している不正を笑い飛ばそうとした。ルドルフは、彼の最初の修正主義的出版物となる小冊子Die Zeit lügt! を出版するにあたって、出版社のカール・フィリップと相談したのちに、4人の専門家に分けて、小冊子に登場させることにした。この小冊子は、199210月、資格を持つ技術者Hans Karl Westphal、弁護士Werner Kretschmer博士、歴史家Christian Konrad博士、化学者・薬物学者Rainer Scholtz博士という4人の人物の共著というかたちで出版された。今でも、ルドルフは、このような筆名を使い、それぞれに「学術的資格」を与えたという不誠実さの咎で非難されている[24]

 1992年春までに、ルドルフは、オットー・レーマーの弁護人の求めに応じて、アウシュヴィッツの「ガス室」に関する専門家報告を準備した。ルドルフは自分がマックス・プランク研究所から博士号を授与されるまでは、自分の研究の公表を差し控えていたが、レーマーが先走ってしまい、1993年初頭に、彼の研究を公表・配布してしまった[25]。ドイツの司法制度と正面衝突してしまったことを知ったルドルフは、さらに「地下に潜る」ことを選択し、さまざまな筆名をつかって執筆をつづけた。1994年初頭、Prof. Dr. Ernst Nolte: Auch Holocaust-Lügen haben kurze Beineが、Manfred Köhlerという変名で出版された。ルドルフの置かれていた法的状況はWilhelm Schlesigerという変名で書かれたDer Fall Rudolf試訳:ルドルフ事件(W. シュレジガー))のなかであつかわれている。

 新たに強化された反修正主義法が1994年秋に通過すると、ルドルフはドイツの法廷の前に引き出され、裁判は1994年末から1995年中ごろまで続いた。裁判が始まるころ、彼は新しい本を出版しようとした。そして、ドイツの法廷で自分が置かれている立場を考慮して、エルンスト・ガウスという新しい変名を使って新著『現代史の基礎』を出版することを決めた。裁判の過程で、ドイツの警察はルドルフの家を家宅捜索し、ほぼ完成しかかっていたもう一つの研究Auschwitz: Nackte Faktenを彼のコンピュータの中に発見した[26]。このAuschwitz: Nackte Faktenの中でも、ルドルフは今ではよく知られている筆名エルンスト・ガウスとマンフレド・ケーラーを使っている。

 ルドルフは精力的かつ首尾一貫した研究活動を続けたために、後の時期の研究の中で初期の研究を引用せざるをえなかった。このために、自分の素姓を隠すために筆名を使いつつ、その中で、別の自分の筆名に言及するという不都合な状況に置かれてしまった。そのよう状況をもたらしたのは修正主義的な出版物取締法であったにもかかわらず、ルドルフの反対者はこの状況を利用して彼を中傷した。すなわち、ルドルフの置かれていた過酷な法律制度に目をつぶっている人々は、ルドルフが「知的に不誠実」あり、ペテンを弄していると攻撃したのである。現在、ルドルフは合衆国政府によってドイツに送還され、専門家報告を出版した咎で処罰された刑期をつとめあげている。

 

現在の風土

 今日、修正主義者たちは、自分たちの研究活動に対してますます圧力が加えられる風土の中で暮らしている。反修正主義法は当初の目的を達成しただけではなく、今では、言論と表現の自由を抑圧し、ホロコーストについての的確な理解さえも妨げている。さらに、市民たちに脅しをかけて、その思考もコントロールしようとしている。ルドルフ、ツンデルなどの修正主義者はヨーロッパの獄中にいる。最近では、イギリスの歴史家アーヴィングが、1989年に行なったコメントの咎で、オーストリアで禁固400日の刑を宣告されている。

 修正主義者に対する取り扱いを批判する記事や声明を出す支持者も存在しているが、大半の人々はまったく沈黙を守ったままである。アムニスティ・インターナショナルのようないわゆる人権団体もホロコースト修正主義者を擁護したり、支援することを拒んでいる。

 ことが修正主義者のことにおよぶと、無関心を装ったり、沈黙を守ったりするどころか、あからさまに、言論の自由を攻撃する組織も存在する。イスラエルのサイモン・ヴィーゼンタール・センター支部長Efraim Zuroffは、アーヴィングが釈放されると、裁判所の姿勢は、「先週にテヘランで開かれたホロコースト否定派会議に対する、考えられる限り最悪の対応であり、このキチガイじみた妄想を支持する人々を勇気づけるにすぎない」と述べた[27]

 「すべての人々の正義と公平なあつかいを保証するために」闘っていると自称している反名誉棄損同盟は、最近の募金を募る手紙の中で、テヘランで開かれたホロコースト会議に触れ、ホロコースト「否定」が脅威というだけではなく、世界中の修正主義者を監視・追跡しなくてはならないと述べている。

 

「この会議は、憎悪がグローバルな規模の脅威となっていることを如実に示している。この脅威との戦いに勝利を収めるには、この脅威がいつどこに登場しても、それと闘わなくてはならない。これらの人種差別主義者たちを追跡・監視するために、もっと多くの支援を必要としている。彼らの憎悪に満ちた目的を暴露するために、あなた方の支援を必要としている。ますます危険となっているイランに関する問題を解決するにあたって世界の指導者たちを動揺させないようにするためにも、あなた方のできるかぎりの支援を必要としている。」[28]

 

 修正主義者を取り巻く環境は、ますます敵対的になっている。マスメディアは、修正主義者の考え方をまったく不正確に報道し、ホロコースト物語を事実に即したものとしようとしている人々に「ホロコースト否定派」という侮蔑的で間違った用語を適用してきた。イギリス首相ブレア、ドイツ首相メルケル、イスラエル首相オルマート、合衆国大統領ブッシュ、国連総長アナンなどの世界中の指導者たちがホロコースト修正主義者を非難してきた[29]

 

将来(および現在)のための勧告

 修正主義とは、蓄積されていく歴史的事実と照らし合わせながら、歴史記録をたえず正確なものにしていこうとする研究姿勢である[30]。圧倒的な反対に直面しても、仮借なく真実を追求していくことこそが、修正主義者が修正主義者たるゆえんである。ルドルフは、イスラエルの異論派ジャーナリストIsrael Shamirあての手紙の中で、自分(修正主義者の典型)のことをこう特徴づけている。

 

「強い意志と、必要であれば頑迷さを兼ね備えた異論派というのが私のパーソナリティです。…プレッシャーに直面すると、それを跳ね返そうとする逆のプレッシャーが私の中に湧き上がってくるのです。ですから、私の中には作用・反作用という単純な物理法則が貫徹しているわけです。疑いを抱き、研究・調査し、定説に反論・反駁し、定説に疑問を呈し、それに挑戦するのは、私の人間としての権利です。…疑い、調査することができるのが人間であり、この人間としての権利を私が行使したことで、私を罰しようとする人に対しては、それが誰であっても、不屈の抵抗を示すことでしょう。これが、一番強い動機です。私のことを従順な奴隷にしようとする人がいれば、誰であっても許しません。誰であってもです。」[31]

 

 ルドルフは、「プレッシャーに直面すると、それを跳ね返そうとする逆のプレッシャーが私の中に湧き上がってくるのです」と述べている。だから、修正主義者に対する圧力が非常に大きなものとなっている今日、彼らの決意は一層不屈にとなっている。修正主義者には、ほかの人々と同じように、疑い、研究し、定説に疑問を呈し、それに挑戦する権利がある。ホロコーストは、その他の歴史上の事件と同じように、まさに何が起こったのか、何が起こらなかったのかという真実を明らかにすべきある歴史学上の研究対象にすぎない。法律によって守られるべきものではない

 研究・出版・討論、とくにネット上の議論を進めなくてはならない。現在、自由に活動している著述家や思想家は、獄中の著述家と思想家を支援しなくてはならない。真実を求める闘いのために、喜んで自分たちの個人的名声や財産を提供しようとする人々もいれば、そのような姿勢を取らない人々もいる。どちらの立場も間違っていない。この闘いの中であまりにも多くのものを失ってしまうことを恐れている人々にとっては、「地下に潜る」ことは、受け入れることのできる戦略、ひいては価値のある戦略である。

 ヴァルター・リュフトルはその短い手紙の中で、ホロコースト修正主義に新しく「改宗」した人々が生き残ることができるは、「カタコンベ」の中だけかもしれないと書いている。当面のあいだ、修正主義者は、自分たちの研究を続け、投獄されている人々の自由を獲得する闘いの手段として、「カタコンベ」という地下に潜ることを余儀なくされるかもしれない。初期のキリスト教徒たちは迫害・投獄され、殉教したり、血塗られたコロセウムでローマ皇帝たちの慰みものになった。にもかかわらず、ローマはキリスト教を根絶することができなかった。自身も迫害を経験した使徒ヨハネは、その福音書の中に「真実はあなた方を自由にする」と記している[32]。修正主義者も真実によってのみ自由になるであろう。ホロコーストの真実が受け入れられ、理解されれば、ヨーロッパ諸国の反修正主義法は破棄されるであろう。この憎悪に満ちた法律は、人間が人間であろうとする能力を打ち砕こうとしてきたが、この法律を廃棄することは、新たな自由の時代、諸民族のあいだのより大きな理解の時代の先触れとなるであろう。このような時代を実現するという目標は、十分に闘う価値ある目標である。今のところ、この目標を実現する闘いのために、修正主義者たちは地下に潜んでいなくてはならないが、いずれは、この暗い「カタコンベ」の中から姿を現し、彼らの研究こそが、今日の社会の歴史研究の主流となることであろう。

 

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[1] Catacombs of Rome: http://en.wikipedia.org/wiki/Catacombs_of_Rome多くの人々はカタコンベを埋葬地として利用することをキリスト教徒の発明と考えているが、 当時のユダヤ教徒もカタコンベを埋葬地として利用した。

[2] Justio L. Gonzalez, 2. The Story of Christianity: The Early Church to the Present Day. Prince Press, Peabody Massachusetts, 2005, p.95. カタコンベがときに秘密の隠れ家として利用されたことは認められているが、それは、カタコンベが作られた主な理由でも、その主な機能でもない。

[3] Walter Lüftl, letter to the editor, The Revisionist [TR], 2 (3) (2004),  p. 353.  See also, Germar Rudolf, Lectures on the Holocaust. Theses & Dissertations Press, Chicago, Illinois, 2005, p. 130.

[4] Ibid.

[5] Arthur Butz, The Hoax of the Twentieth Century, Institute for Historical Review, Torrance, California, 1985,  pp. 11-12. Ginsburgは身を潜めようとしていたにもかかわらず、ミュンヘンのユダヤ人墓地にある妻の墓にお参りしたときに、ユダヤ人ギャングに殴られた。

[6] 今日では、The Myth of the Six Million の価値は、ホロコースト修正主義の史学史の観点からだけである。修正主義的研究は、この初期の著作以降、非常に急速に進展したことを理解しておかなくてはならない。すでに、1977年にアーサー・バッツはこの著作を厳しく批判し、その「多くの誤り」に触れている。The Hoax of the Twentieth Century, p. 12.参照

[7] David Hoggan 1948年に、ハーバード大学から歴史学の博士号を受けている。その後、いくつかの大学で教鞭をとった。マサチューセッツ工科大学、カリフォルニア大学(バークレイ)、イリノイ州のCarthage Lutheran College 、サンフランシスコ州立大学、ミュンヘン大学のアメリカ研究所などである。

[8] Hogganの草稿はウィリス・カルトのNoontide Pressによる非公認版として刊行された。この本が「匿名」になるにいたった正確な事情は明らかではない。Hogganの著作はThe Myth of the Six Million: An Examination of the Nazi Extermination Plotという表題でカルトのBarnes Review Bookstoreから、最近再刊された。カルトがこの本を「発見」・出版した補足的事情が掲載されているそうである。筆者はこの事情について読んでいないが、胡散臭いものであると考えている。参照: http://www.barnesreview.org/books20041.htm

[9] Barbara Kulaszka ed., Did Six Million Really Die? Report of the Evidence in the Canadian "False News" Trial of Ernst Zundel - 1988.  Samisdat Publishers Ltd., Toronto, 1992, p. 166.

[10] Ibid., p. 187..

[11] Ibid.

[12] Ibid. p. 166.

[13] Deborah Lipstadt, Denying the Holocaust, Penguin Books, New York, N.Y., p. 104.リップシュタットにとっては、ホロコースト「否定」とはその内に隠された悪意をもっており、筆名を使う場合には、そのような邪悪な動機を隠すためなのであった。

[14] Harry W. Mazal, "What's in a nym?": http://www.holocaust-history.org/denial/nym.shtml

[15] Ibid

[16] ヴィルヘルム・シュテークリヒとロイヒターの二つが典型的な事例である。シュテークリヒは、『アウシュヴィッツの神話』を執筆した咎で、1951年にゲッチンゲン大学から授与された博士号を剥奪された。ロイヒターは、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクの「処刑ガス室」に関する報告の件で、技術分野および刑務所施設では雇われなくなった。Is There Life after Persecution? at: http://www.ihr.org/jhr/v12/v12p429_Leuchter.html、参照

[17] Anonymous, "Ground Zero: The Criminalization of History."  This article appears in From the McCalden Files: Twenty Years of Revisionist Oppression, Committee for Open Debate on the Holocaust, Visalia, California, 1996, p.2.

[18] Ibid, pp. 2-3.

[19] Ernst Gauss (Germar Rudolf) ed., Dissecting the Holocaust: The Growing Critique of 'Truth' and 'Memory.'  Theses & Dissertations Press, Capshaw, Alabama, July 2000, p. 566.

[20] ユダヤ人問題研究所が世界ユダヤ人会議と協力して発表した19823月報告「ホロコーストの否定を法律上の犯罪とすること」は、ヨーロッパ全体で修正主義を犯罪するように呼び掛けている。1990年中ごろまでに、この報告にある提案は立法化されるか、もっと厳しい反修正主義法にとってかわられた。

[21] Dan Gannon, "My 'Invasion' of the Computer Networks," The Journal of Historical Review (JHR)15 (4), July / August 1995.

[22] "Revisionist Global Computer Outreach," (JHR)15 (4), July / August 1995.

[23] Germar Rudolf, The Rudolf Report: Expert Report on Chemical and Technical Aspects of the 'Gas Chambers' of Auschwitz.  Theses & Dissertations Press, Chicago, Illinois, 2003, p. 338.

[24] Ibid.

[25] Ibid.  For the entire story of the publication of The Rudolf Report and Rudolf's run in with the German legal system see The Rudolf Report, especially chapter 11, "Hunting Germar Rudolf."

[26] Ibid. p. 344.

[27] "Author to be released from prison," Baltimore Sun. December 21, 2006.  http://www.baltimoresun.com/news/nationworld/bal-te.hoot21dec21,0,3083828.story?track=rss

[28] 筆者が所持している、募金を募るメール。

[29] "Holocaust deniers meet, to outrage," The Star Ledger, December 13, 2006.

[30] Harry Elmer Barnes, "Revisionism and the Promotion of Peace," included in the anthology, Barnes Against the Blackout: Essays Against Interventionism. Institute for Historical Review, Costa Mesa, California, 1991. p. 273.

[31] Letter from Germar Rudolf to Israel Shamir.  Unpublished.

[32] John 8:32, New International Version.