試訳:ワルシャワ・ゲットー「反乱」

――ユダヤ人反乱かドイツの警察作戦か――

ロベール・フォーリソン

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2004806

本試訳は当研究会が、研究目的で、Robert Faurisson, The Warsaw Ghetto ‘Uprising’Jewish Insurrection or German Police Operation? , Journal of Historical Review, March-April 1994 (Vol. 14, No. 2)を試訳したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

onlinehttp://www.ihr.org/jhr/v14/v14n2p2_Faurisson.html

 

 毎年、419日頃になると、マス・メディアと政治家たちは、彼らの呼ぶところのワルシャワ・ゲットー「反乱」、「暴動」を祝している[1]。ジャーナリズムのあいだでは、この事件は、ますます象徴的な英雄叙事詩となっている。19934月にニューヨークで開かれたホロコースト記念式で、アメリカの副大統領ゴアは、「ワルシャワ・ゲットーの物語は、われわれの時代の聖書なのだ」と演説している[2]。事実、この物語は、部分的にしか歴史的事実にもとづいていない伝説なのである。

 「暴動はまったく起こらなかった。」[3] こう記しているのは、ゲットーの武装ユダヤ人集団の一つの指導者であったマレク・エデルマンである。彼は、「われわれはこの日を選択さえもしなかった。ドイツ人がこの日を設定して、残ったユダヤ人を捜索するためにゲットーに入ったのである」とも付け加えている。また、エデルマンは、武器を手にしたユダヤ人の数は220名を越えてはいないとも述べている。(ユダヤ人ゲットー戦士の数についてのその他の見積もりは、数百から2000名にまでまたがっているが、ゲットー住民のごく少数部分が戦闘に参加したにすぎない。[4]

 ゲットーのユダヤ人武装集団の別の指導者Yitzhak Zuckermanも、エデルマン説を確証している。Zuckermanは、ユダヤ人戦士の「戦争目的」を次のように定義している。「われわれには、反乱ではなく、防衛を組織することが問題だった。反乱では、イニシアティヴは、反乱側にある。われわれは自衛だけを目指していた。イニシアティヴはまったくドイツ側にあった。」[5]

 だから、自由の獲得や移送に抵抗する全ユダヤ人共同体の反乱ではなかったのである。むしろ、一握りのユダヤ人青年の対応であった。すなわち、彼らは、ドイツ軍が自分たちの聖域に侵入していると考えて、最初はこれと戦い、3日目には、逃亡しようとして失敗し、その次に、包囲されて、武装抵抗を中止したのである[6]

 この事件は、ワルシャワのユダヤ人の「反乱」とか「暴動」と呼ぶよりも、ドイツの警察作戦と呼ぶ方が正確なのであろう。それとは逆に、1944810月、「ボル」コモロフスキ将軍の率いるポーランド国内軍の反乱は、本物の反乱であった。ソ連はドイツがこの反乱を鎮圧することを許してしまったが、この英雄的な反乱については、マス・メディアは多くを語らない。実際には、ポーランド人は勇敢に戦った。ドイツ側は、ポーランド側が降服するにあたって軍人としての名誉を与え、テロリスト反乱分子としてではなく、ジュネーブ条約にもとづく戦争捕虜として扱ったほどであった。

 194345月にワルシャワ・ゲットーで起こった事件を理解するには、ドイツが警察作戦を始めた理由を知っておくことが重要である。ワルシャワ市内の「ユダヤ人居住区」すなわち「ゲットー」には、36000名の公式に登録された住民と、概数ではあるが、20000名以上の非合法住民が暮らしていた[7]。この意味で、ゲットーは「市の中の市」であり、これを管理していたのは、ドイツ占領当局と協力する「ユダヤ人会議」とユダヤ人警察であった。彼らは、ユダヤ人「テロリスト」とも戦っていた。数千名のユダヤ人労働者がゲットーの作業場、工場に勤務し、ドイツの戦争遂行に必要な物資を生産していた。

 1942821日、ソ連が始めてワルシャワの中心部を空爆した。すると、ドイツの命令で、住民を保護するために、ゲットーも含む市内の各所に防空壕が建設された。ドイツ側は、この防空壕のための、セメントその他の必要資材をユダヤ人に提供した。ワルシャワ・ゲットー反乱伝説は、この防空壕のことを「トーチカ」とか「掩蔽壕」に変えてしまった[8]。この「地下室の防空壕・退避壕のネットワーク」は非常に広まったので、ある高名なホロコースト史家によると、「ついには、ゲットーのユダヤ人それぞれが、ゲットー中心部に作られた防空壕の一つに自分の場所を持つことができるようになった」[9]

 せいぜい220名の小さなユダヤ人武装グループの活動は活発であった。もっとも重要な組織は「ユダヤ人戦闘団」であり、その大半が20代の若者であった。その「戦闘指令書」には、ユダヤ人警察、ユダヤ人会議、労働保護局(作業場・工場の保護局)に対する「テロ活動」が明記されている。「ユダヤ人戦闘団」命令は、「中央本部は、敵に対するサボタージュとテロルという中心的活動計画を作成している」と明言していた[10]

 だから、これらの「戦士」もしくは「テロリスト」は、ユダヤ人ゲットー警察、ユダヤ人会議の役人、作業場の警備員を動揺させるために「サボタージュとテロル」を行使した[11]。「テロリスト」はまた、ゲットーで繁栄していた産業と商業からも利益を得ており、商人その他の住民を脅迫や中傷で威嚇し、ひいては、彼らを自宅で勝手に捕まえたりした。彼らは、ワルシャワに駐屯する兵士から武器を購入した。こうした兵士たちの部隊は、後方地帯に駐屯する部隊の例にもれず、寄せ集めの集団であり、訓練も受けておらず、士気も低かったからである。ゲットー「テロリスト」は、ドイツ軍やユダヤ人協力者に対して攻撃を仕かけ、そのメンバーを殺害した。

 ゲットーの治安は日増しに悪くなっていった。このために、ポーランド人住民はゲットーの存在に反対するようになっていき、ドイツ側はドイツ側で、ゲットーが、戦争経済の重要拠点、東部戦線への兵員輸送の要としての重要なワルシャワの役割に対する脅威となることを恐れていた。だから、ヒムラーは、ユダヤ人住民を、作業場・工場とともにルブリン地区に再定住させ、ゲットーを破壊して、公園と置き換える決定を下したのである。当初、ドイツ側は、自発的にこの再定住を受け入れるようにユダヤ人を説得しようとした。しかし、「テロリスト」は、このような移送によって、自分たちの財政的基盤および移動の自由が奪われることを懸念して、移送を認め威容としなかった。彼らは、移送反対に全力を傾け、その結果、1943419日、ヒムラーの命令で、ユダヤ人を強制的に疎開させる警察作戦が始められたのである。

 その日の朝午前6時、SS大佐フェルディナンド・フォン・ザムメルン-フランケネッグ指揮下の部隊が、(フランス戦役で捕獲した)1台のキャタピラ車両と2台の装甲車をともなって、ゲットーに入った。当初、「テロリスト」もしくはゲリラは激しく抵抗し、16名のドイツ人SS隊員、6名のウクライナ人(いわゆる「回虫」)、2名のポーランド人警察官が負傷した。1名のポーランド人警察官が殺された[12]

 損失を最小限にすることを願っていたヒムラーは怒った。その朝、彼は、フォン・ザムメルン-フランケネッグを解任し、シュトループSS将軍に交代させた。シュトループは、損失を最小限にするために作戦をゆっくりと進めることを命じた。すなわち、朝には、部隊がゲットーに入るにあたっては、建物からユダヤ人を追い出し、煙幕(毒ガスではない)を使って防空壕にひそんでいるユダヤ人を追い出し、建物が空となれば、それを破壊する。そして、夜には、部隊は、夜半にゲットーからの逃亡を防ぐために、ゲットーを封鎖するというように。

 小競り合いが1943419日から516日まで続いた。だから、作戦終了には28日を要した。3日目、多くのユダヤ人武装戦士が逃亡をはかったが、その大半が射殺されるか、捕まった。いくつかの話はこれとは違うことを述べているが、ドイツ軍司令部はゲットーの破壊のために空軍の支援を要請していない。作戦期間中に空爆はなかった。

 ユダヤ人の死者の数はわかっていない[13]。しばしば、56065名という数字が引用されるが、それは逮捕されたユダヤ人の数である。彼らの大部分が移送された、その多くはトレブリンカの通過収容所へ、そこからマイダネク(ルブリン)に連れて行かれた[14]。ドイツ側の死亡者は16名であった(1名のポーランド人警察官も含まれている)。

 もちろん、ゲットーでユダヤ人が勇敢に抵抗したこと、全体の事件が悲劇的であったこと、ドイツ軍混成部隊とゲットー各所に散らばったユダヤ人ゲリラ集団との銃撃戦の中で民間人が死亡したことには、疑いの余地はない。ただし、大げさな宣伝とは逆に、実際に生じたことは、ある作家が最近書いているところの「黙示録的な」反乱のようなもの[15]ではなかった。とくに、この28日間には、地球上の戦場、英米空軍の空爆にさらされたヨーロッパの都市で、民間人、軍人合わせて数万人が死亡していることを考えると、そのようなものではなかった[16]

 

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[1] ホロコースト百科事典(ニューヨーク、1990年)の項目「ワルシャワ・ゲットー反乱」で、イスラエル・ガットマンは、「ワルシャワ・ゲットー反乱は、占領下のヨーロッパにおける都市住民による反乱の最初の事例である。そのユニークな特徴は、武装した戦士が、壕や掩蔽壕から出てきたユダヤ人大衆とともに参加した全面蜂起であったという事実からもわかる」と記している。(Vol. 4, p. 1631).

[2] S. Birnbaum, JTA dispatch, Jewish Bulletin of Northern California (San Francisco), April 23, 1993, p. 9.

[3] Libération (Paris), April 18, 1988, p. 27.;オーストリアのニュース・マガジンProfil, April 19, 1993, p. 86の中で、エデルマンは「われわれ200名の戦士たち」と述べている。

[4] イスラエルのホロコースト史家イェフダ・バウアーは、2つの戦闘団に組織された合計750名のゲットー戦士が存在したと述べている。See: Y. Bauer, A History of the Holocaust (New York: 1982), p. 262.
ユダヤ系のホロコースト専門家イスラエル・ガットマンは、「ゲットーのユダヤ人戦闘組織の総兵力は700から750であった」と述べている。See: Encyclopedia of the Holocaust (New York, 1990), Vol. 4, p. 1628.
ホロコースト史家ヒルバーグも、ユダヤ人ゲットー戦士の「総兵力」を「約750名」としている。See: R. Hilberg, The Destruction of the European Jews (Holmes & Meier, 1985), p. 512.
ポーランド氏の専門家Richard Lukasは、ユダヤ人ゲットー戦士を1000から2000のあいだと見積もっており、戦闘員の割合はゲットー住民の35%にすぎなかったと述べている。See: Richard C. Lukas, The Forgotten Holocaust: The Poles Under German Occupation, 1939-1944 (Lexington, Ky.: 1986), pp. 172, 178, 267 (n. 106).
ユダヤ系歴史家Ber Mark は、1000名の「組織された」ユダヤ人戦士がいて、その他多くの人々が戦闘では手を貸したと述べている。See: Ber Mark, Uprising in the Warsaw Ghetto (New York: Schocken, 1975) p. 15, and, Ber Mark, 'The Warsaw Ghetto Uprising,' in: Yuri Suhl, ed., They Fought Back (1967), p. 93.

[5] N. Weill, 'L’Insurrection du ghetto de Varsovie,' Le Monde (Paris), April 18-19, 1993, p. 2.; Zuckerman (1915-1981), whose name is sometimes spelled 'Cukierman,' was also known by his nom de guerre, 'Antek.' His memoir was published in 1993 under the title A Surplus of Memory: Chronicle of the Warsaw Ghetto Uprising (Univ. of Calif. Press).

[6] もともと200名であった戦士集団のうち、19435810日、エデルマンも含む40名がゲットーからの逃亡に成功した。See: M. Edelman interview in Profil (Vienna), April 19, 1993, p. 86.

[7] ワルシャワ・ゲットーは壁で取り囲まれていたにもかかわらず、外部に「開かれて」いた。この意味では、「ゲットー」と呼ぶよりも、「居住地区」「区画」と呼ぶほうが正確であろう。

[8] See: Leon Poliakov, Harvest of Hate (New York: 1979), p. 230.

[9] Israel Gutman, 'Warsaw Ghetto Uprising,' Encyclopedia of the Holocaust (New York: 1990), p. 1628.

[10] Cited by Adam Rutkowski in an article reprinted in a special issue of the French periodical, Le Monde Juif, April-August 1993, p. 162.; The 'Jewish Combat Organization' (JCO) or 'Jewish Fighting Organization,' was known in Polish as the 'Zydowska Organizacja Bojowa' (ZOB).;
Details about the methods employed by the JCO are provided by Yisrael Gutman in his book, The Jews of Warsaw, 1939-1943: Ghetto, Underground, Revolt (1982), pp. 344-349.
これらの方法は、マフィアの方法とほとんど変らなかった。ドイツ側は、強力な反対行動に直面していることを知っていた。ドイツ側は、ドイツの戦争遂行に協力している工場や作業場とともに、ルブリン地区に移住するようユダヤ人側を説得していた。19433月、ユダヤ人戦闘団と、ユダヤ人の再定住の責任者であったヴァルター・テベンスとのあいだに、奇妙な「ビラ戦争」が勃発した。ユダヤ人戦闘団のビラは、死の収容所への移送を拒否するようにユダヤ人住民に呼びかけていた。ドイツ側は、このビラをそのまま残して、その横に、ユダヤ人戦闘団の主張を逐次反駁する、テベンスの署名入りのビラを貼った。ガットマンは「テベンスはこれらの移送についての真実を述べていた。それは死の収容所ではなく、事実、[ルブリン地区で]工場を統合するための建物であった。しかし、この当時は、ユダヤ人側の抵抗と疑念の方が強かったので、ドイツ側の賢い戦術も、ユダヤ人側の戦術に勝つことはできなかった」と認めている(pp. 334335)。ドイツ側は、説得戦術が無力であると悟ったのちにはじめて、警察作戦にうったえることを決意した。

[11] On these points, as well as many others, see, notably:
The Jews of Warsaw, 1939-1943: Ghetto, Underground, Revolt, by Yisrael Gutman, translated from the Hebrew by Ina Friedman (Bloomington: Indiana University Press, 1982, 487+xxii pages), and, Il y a 50 ans: le soulèvement du ghetto de Varsovie ('Fifty Years Ago: The Warsaw Ghetto Uprising'), special edition of Le Monde Juif, April-August 1993, 336 pages.
The latter work includes a reprint of an article by Adam Rutkowski, published in 1969 under the title 'Quelques documents sur la révolte du ghetto de Varsovie' ('Some Documents on the Warsaw Ghetto Revolt'), pp. 160-169. On page 162 appear the 'general directives for combat of the Jewish Combat Organization.'

[12] The 'Stroop Report,' dated May 16, 1943, is entitled 'Es gibt keinen jüdischen Wohnbezirk in Warschau mehr!' ('The Jewish Residential District in Warsaw Is No More!'). Text published as Nuremberg document PS-1061 (USA-275) in: International Military Tribunal, Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal ('blue series'), Vol. 26, pp. 628-694, followed by a selection of 18 photographs (of 52). A purported facsimile edition of the German original of this report, including Stroop’s telex reports, along with an English-language translation, has been published in the US as: The Stroop Report: The Jewish Quarter in Warsaw Is No More! (New York: Pantheon Books, 1979), Translated from the German and annotated by Sybil Milton, Introduction by Andrzej Wirth.

[13] 1943524日のテレックス報告の中で、シュトループ将軍は、「全部で56065名の捕虜にしたユダヤ人のうち、約7000名はかつてのユダヤ人居住区そのものにおける大規模行動の過程で絶滅された。T II[トレブリンカU収容所を指している]への輸送によって、6929名のユダヤ人が絶滅されたので、全体で13929名のユダヤ人が絶滅されたのである。56065名という数に加えて、5000から6000名のユダヤ人が、爆破や火災によって絶滅させられた。」See: The Stroop Report (New York: 1979), [pages not numbered].
ホロコースト百科事典の項目「ワルシャワ・ゲットー反乱」(p.1630)の中で、ガットマンは、「516日、シュトループは、戦闘が終了し、『われわれは合計56065名のユダヤ人を捕らえた、すなわち、決定的に絶滅した』と報告している」と述べている。ここでシュトループの言葉とされているものは正確ではない。彼が516日の報告に書いているのは、「逮捕されたもしくは絶滅されたと確証されているユダヤ人の合計は56065名である」ということである。

[14] 「人々がゲットーから連れ出されると――50000から60000名であった――、彼らは鉄道駅に連れて行かれた。保安警察がこれらの人々を監視し、ルブリンまでの移送に責任を追っていた。」From an affidavit of Jürgen Stroop, which was quoted as document 3841-PS (USA-804) by American prosecutor Col. Amen at the Nuremberg Tribunal on April 12, 1946. Text published in: International Military Tribunal, Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal ('blue series'), Vol. 11, pp. 354-355.

[15] 「ワルシャワ・ゲットー住民の熾烈な、賞賛に値する、黙示録的な反乱は、絶望的な行動であると同時に、英雄的な行動であった。」See: D. Desthomas, La Montagne, April 17, 1993, p. 12.

[16] 「ワルシャワ・ゲットー反乱」を過大評価する傾向は、世界のマス・メディアに定期的に登場する。最近、ブラジルの出版物でのこのテーマについての過大評価と捏造を、実際の事実と比較する研究が、ブラジルの修正主義的出版物に掲載されている。See: S.E. Castan, 'Documento: A Verdadeira História do Levante do Gueto de Varsóvia,' Boletim-EP (Esclarcimento ao Pais), June 1993, pp. 7-14. Address: Boletim-EP, Caixa Postal 11.011, Ag. Menino Deus, 90880-970 Porto Alegre, RS, Brazil.