試訳:ダッハウの「ガス室」文献資料解題
ロベール・フォーリソン
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2003年10月8日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Fred A. Leuchter
& Robert Faurisson, The Second Leuchter Reportから、フォーリソンの執筆したダッハウの「ガス室」文献資料解題についての箇所を試訳したものである。 online:
http://vho.org/GB/Journals/JHR/10/3/LeuchterFaurisson261-322.html |
・ [アメリカ合衆国議会調査団報告(1945年)]Document L-159: Document No. 47 of
the 79th Congress, 1st Session, Senate: Report (15 May 1945) of the Committee
Requested by Gen. Dwight D. Eisenhower [. . .] to the Congress of the
United States Relative to Atrocities and Other Conditions in Concentration
Camps in Germany, carried out by a Special Committee of Congress after
visiting the Concentration Camps at Buchenwald, Nordhausen, and Dachau (Exhibit
No. USA-222), IMT, [see NOTE 1] XXXVII, p. 621:
ダッハウ収容所の顕著な特徴は、囚人の処刑のためのガス室と、銃殺のための念入りな施設である。ガス室は、焼却棟の中の大きな部屋の中央にある。コンクリート作りである。その大きさは、約20×20フィート、天井は10フィートほどの高さである。部屋の両端の壁には、気密ドアがあり、そこを通って囚人は処刑室の中に入り、処刑後に死体は取り除かれる。室内へのガスの供給は、外側の壁にある2つのバルブによって調整され、バルブの下には、小さなガラスで覆われたのぞき穴があり、処刑人はそこから犠牲者が死んでいくのを見ることができる。パイプは天井にある穴の開いた真鍮の装備品につながっており、ガスはそこから室内に注入される。部屋は、一時に100名を処刑できるほどの大きさである。
・ [合衆国第7軍戦略事務局報告(1945年)]OSS
Section, United States 7th Army, Dachau
Concentration Camp, Foreword by Col. William W. Quinn, 1945, p. 33:
ガス室[複数形]:処刑されるためにだけダッハウに連れてこられる囚人は、大半がユダヤ人とロシア人であった。彼らは区画につれてこられ、ガス室の近くに整列させられる。そして、収容のためにダッハウに連れてこられる囚人と同様に、選り分けられた。その後、彼らは部屋に向かい、服を脱ぐように命じられた。これからシャワーを浴びるかのように、タオルと石鹸が各人に渡された。この選り分けのときを通じて、彼らが処刑されることを示唆するようなヒントは出されなかった。収容所に囚人が到着すると、同じような作業が行なわれるのが日常的だったからである。それから、彼らはガス室に入った。入り口には、大きな黒い文字で、Brause Bad(シャワー室)と書かれていた。天井から15個ほどのシャワー・ヘッドがぶら下がっており、そこから、ガスが放出された。1つの大きな部屋があり、その収容人員は200であった。5つの小さな部屋があり、その収容人員は50名であった。処刑には10分ほどかかった。ガス室から、ドアが焼却棟につながっており、この仕事のための選別された囚人が死体をそこに運んでいった。死体は、一時に2体か3体にまとめられて、5つの炉に置かれた。
・ [フランス軍Fribourg大尉報告(1945年)]French Military Mission with the Sixth Army Group, Chemical Warfare,
nr. 23/Z, Chambre à
gaz de
・ [アメリカ陸軍Martinot 大尉報告(1945年)]Captain P.M. Martinot,
23 May 1945. Report on the Conditions in the Prison Camps, dictated by
Capt. P.M. Martinot on 23 May 1945, p. 226. U.S.
National Archives at Suitland, Maryland, Record Group (RG) 153, 19-22 BK37,
U.S. War Department, War Crimes Office, Judge Advocate General's Office
(original text English):
私は目撃証人から、一時に500名のユダヤ人がガス室で大量絶滅され、その後焼却棟に運ばれたこと、この作業は、数千の移送集団すべてが収容所で処分されるまで、繰り返されたことを話された。アウシュヴィッツ収容所では、同じようなことが、何日間も昼夜兼行で稼動する6つの焼却棟を使って、はるかに大規模に行なわれた。証人: Wladislaus Malyszko。
・ [アメリカ陸軍化学戦局調査官Joseph H. Gilbert 報告(1945年)]Headquarters Third United States Army, Enemy Equipment Intelligence
Service Team Number 1, Chemical Warfare Service, 22 August 1945, Report by Sgt.
Joseph H. Gilbert to Major James F. Munn: Subject. Dachau
Gas Chamber (3 pages; enclosures), page 3:
上記の尋問、およびダッハウのガス室(使われたことはなかったにちがいない)の実況見分にもとづいて、ガス室は処刑目的用には失敗作であり、実験的な作業もそこでは行なわれなかったというのが、下記に署名している人物の見解である。連合国が、マラリア、空気圧力、冷水実験についてのはるかに信頼できる情報を囚人たちから入手しているという事実を考慮すると、もしもガスの実験が行なわれていたとすれば、同じように信頼できる情報を入手することができたというように考えるのが妥当であろう。
・ [ニュルンベルク裁判で上映されたフィルムのナレーション(1945年)]Document PS-2430: Nazi
Concentration and Prisoner-of-War Camps: A Documentary Motion Picture, film
shown at the Nuremberg Trial, 29 November 1945, IMT, XXX, p. 470:
ダッハウ――恐怖の工場。[ . . . ] 整然とぶら下がっているのは、殺人ガス室で窒息死させられた囚人の服である。彼らは、タオルと石鹸を渡され、これからシャワーを浴びるとの口実で、服を脱ぐように説得された。これがBrausebad、すなわちシャワー室である。シャワー室の中には、ガス口がある。天井には、偽のシャワー・ヘッドがある。技師室には吸気パイプと排出パイプがある。ガスの出入をコントロールするにはボタンを押す。圧力調整のための手動バルブ。シアン化合物の粉が、致死性ガスを放出するために使われる。死体はガス室から取り除かれて、焼却棟に運ばれる。
・ Philipp Rauscher,
Never Again/Jamais Plus,
ガス室は大量処刑のために作られた。そこでは、窒息性のガス、チクロンBが使われた。
・ [ニュルンベルク裁判資料、「バラッケX」の資料と図面]Document NO3859/64 and 3884/89
(original language: German): 28 pages of documents and plans (1942) for "Baracke X" (Staatsarchiv Nurnberg). これらの資料のうちどれ一つとして、ガス室が存在したと信じさせることができない。
・ [チェコ人囚人ブラハ博士の宣誓証言(1946年)]Document PS-3249 (original language:
German): testimony under oath of the Czech prisoner, Dr. Franz Blaha, MD, 9 January 1946, IMT,
XXXII, p. 62, also quoted in IMT, V, p. 173:
ガス、射殺、注射による多くの処刑が収容所で行なわれました。ガス室は1944年に完成しました。私はラッシャー博士に呼ばれて、最初の犠牲者を検死するように命じられました。室内にいた8、9名のうちまだ3人が生きていましたが、残りは死んでいるようでした。彼らの目は赤く、顔は膨張していました。その後、彼らは焼却棟に連れて行かれ、私は、金歯があるかどうかを調べなくてはなりませんでした。
2日後の1946年1月11日、ブラハ博士はニュルンベルク裁判で証言した。アメリカの検察官トーマス・ドッドが彼の証言を読み上げた。検事側も弁護側も、ガス室に関する説明を証人に求めなかった。そのようなことをしたとしても、ローレンス裁判長は、そのような説明要求を認めなかったであろう。さまざまな連合国「戦争犯罪」調査委員会がガス室の実在についての公式報告を提出していたので、その実在は「法廷に顕著の事実」(裁判憲章21条)となっており、無分別とみなされた尋問をすることは実際にも許されなかったからである。たとえば、ローゼンベルクの弁護人トーマス博士がブラハ博士に難しい質問をすると、ローレンス裁判長は彼を妨げて、「…裁判を迅速に行なうためです」と述べている(IMT, V, p. 194)。裁判憲章19条は、「法廷は、証拠に関する法技術的規則に拘束されない。法廷は、迅速かつ非法技術的手続を最大限に採用し、かつ、適用し、法廷において証明力があると認めるいかなる証拠をも許容するものである」 と述べている。
・ 1946年7月26日、イギリス首席検事Sir Hartley Shawcrossはニュルンベルク裁判で、アウシュヴィッツとトレブリンカでの「ガス室と焼却棟」だけではなく、ダッハウ、ブッヘンヴァルト、マウトハウゼン、マイダネク、オラニエンブルクでの「ガス室と焼却棟」にも触れている (IMT, XIX, p. 434)。Shawcross は1990年時点でまだ存命中で、ロンドンに暮らしており、イギリス上院議員である。
・ [アメリカ軍将校の従軍記(1946年)]Lieutenant Hugh C. Daly, 42nd
"Rainbow" Infantry Division/A Combat History of World War II,
Army and Navy Publishing Company, Baton Rouge, Louisiana, 1946:
囚人たちはガス室に押し込まれて、殺された [ . . . ]。数千の男性、女性、子供がこのようにしてダッハウで死んだ [ . .
. ]。ガスによる殺戮という仕事が続いた(p.99)。
105頁の写真のキャプションは次のように述べている。
ガスによって殺された死体が、焼却を待って「倉庫」に山積みされている。しかし、炉は石炭不足のために停止している。
・ [ドミニコ会修道士の著作(1947年)]M.G. Morelli
(Dominican priest), Terre de détresse, Bloud and Gay Publishers, 1947, p. 15 (original language:
French):
私は、恐る恐る、この犯罪ののぞき穴を見た。ナチの処刑人は、ここから、ガス処刑された哀れな人々を穏やかに眺めることができたのである。
73頁には、
ときどき、彼らは(病人ブロックの)中から不運な集団を選別して、ガス室に送った。
・ [フランス人僧正の著作]Msgr. Gabriel Piguet (Bishop of Clermont-Ferrand), Prison et déportation, Spes Publishing House, p. 77 (original language: French):
私は、800名のポーランド人僧侶のいるブロックZ8に短期間滞在した [ . . . ]。役に立たないと判断された何名かの老僧侶がガス室に送られた。
・ [ミューラー・ドキュメント(1948年)]"The Müller
Document." 1 October 1948 (original language: German). See R. Faurisson, "The Müller
Document," The Journal of Historical Review, Spring 1988, pp.
117-126.オーストリア人Emil Lachoutによると、連合国憲兵隊とそのオーストリア人補助部隊は、収容所調査委員会が書いた報告書のコピーを定期的に受け取っていた。
これらの報告は「戦争犯罪」の調査に利用されていた。1948年10月1日、司令官アントン・ミューラーと彼の副官Emil Lachout は、ウィーンから次のようなメモを関係部局に送っている。
憲兵隊局
回覧状No. 31/48.
ウィーン、1948年10月1日
10日発送
1. 連合国調査委員会は、以下の強制収容所では毒ガスによって殺された人々は一人もいないことを確証した。ベルゲン・ベルゼン、ブッヘンヴァルト、ダッハウ、フロッセンブルク、グロース・ローゼン、マウトハウゼンとその衛星収容所、ナチヴァイラー、ノイエンガムメ、ニーダーハーゲン(ヴェヴェルスブルク)、ラーフェンスブリュック、ザクセンハウゼン、シュトットホフ、テレジエンシュタート。
これらのケースでは、自白が拷問によって引き出され、証言が虚偽であることが証明できる。戦争犯罪についての調査と尋問を行なうにあたっては、このことを考慮しなくてはならない。強制収容所の囚人の中には尋問を受けて、これらの強制収容所で毒ガスによって人々、とくにユダヤ人が殺害されたと証言するものがいるが、彼らを尋問するにあたっては、上記の分析結果を念頭に置いておくべきである。もしも、彼らが自分たちの供述に固執するならば、彼らを偽証で告発することもありうる。
・ [ライトリンガー『最終解決』(1953年)]Gerald Reitlinger,
The Final Solution: The Attempt to Exterminate the Jews of Europe,
1939-1945. London, Jason Aronson, Inc., 1987 (the first edition appeared in
1953), p. 134:
かくして、事実上ほぼすべてのドイツの強制収容所が何らかのガス室を持つようになった。ただし、これが使用されたかどうかの証明は難しいが。たとえば、ダッハウのガス室は、アメリカ占領当局によって、物理的例証として維持されてきたが、その建設は妨害され、その使用は、ミュンヘンのゲシュタポが有罪とみなした、少数の実験的犠牲者、ユダヤ人、ロシア軍捕虜に限られていた。
・ [アメリカ人弁護士の書簡(1959年)]Stephen F. Pinter, Letter on
"German Atrocities" in Our Sunday Visitor, 14 June 1959, p.
15:
私は、合衆国陸軍省弁護士として、戦後17ヶ月間ダッハウにいたが、ダッハウにはガス室はなかったということができる。
・ [現代史研究所ブロシャートの書簡(1960年)]Martin Broszat,
Institute for Contemporary History in Munich, letter to Die Zeit, 19 August 1960, p. 16 (original language:
German):
ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヘンヴァルトでも、ユダヤ人その他の囚人はガス処刑されなかった。ダッハウのガス室は完成しておらず、「稼動しなかった」。
・ [『偽ガス室』(1962年)]Common Sense (New Jersey, USA), 1 June 1962, p. 2, republished from Combat,
収容所はガス室を備えていなくてはならなかった。しかし、存在していなかったので、シャワー室をそのように見せかけることが決定された。ストラウス大尉(合衆国陸軍)と彼の囚人がこの作業に取り掛かった。以前には、シャワー室には、約4フィートの高さに敷石が置かれていた。隣の乾燥室にあった同じような敷石が取り外されて、シャワー室の敷石の上に置かれ、新しい天井が、この敷石の2列目の上に、鉄の漏斗(ガス取り入れ口)をつけて、作られた。
・ [3つの写真のキャプション(1966年)]Nerin E. Gun, The
Day of the Americans,
129頁では、著者は、ダッハウでは「3166名がガス処刑された」と記している。
・ [Paul Berben 『ダッハウ1933−1945、公式の歴史』(1968年)]Paul
Berben, Dachau
1933-1945, The Official History, London, The Norfolk Press, 1975
(original language: French; first published 1968). 本のカバーが示しているように、これは収容所の「公式の歴史」である。329頁におよぶこの本には、13頁、201−202頁に、ごく少ない、混乱したガス室の記述があるだけである。ガス室は1942年初頭に、殺人目的で(?)ですでに設計されていたが、1945年4月、収容所が解放された時点では、まだガス室として機能していなかった。それは、「かなりの程度、その仕事を命じられた囚人チームがサボタージュを行なったためであったと思われる[強調は追加]」(フランス語版の13頁、この箇所は英語版にはない [London, The Norfolk Press,
1975], p. 8)。さらに混乱しているのは、この囚人チームは、1944年10月に、この場所に害虫駆除ガス室の建設を命じられていることである。「1944年10月、暖房プラント(Kesselhaus)"から選別された『建設修理作業班』は、ガス室にパイプを設置するように命じられた」[フランス語版の202頁、この箇所は英語版176頁からは削除されている]」。「1944−45年の冬、害虫駆除班は、SS主任医師の監督下で、ガスを使って、害虫のいる衣服の山を[この場所で]害虫駆除する作業に取り掛かった」[英訳、8−9頁]。
以上のことから1つの仮説を導き出し、いくつかの疑問点を挙げおきたい。
<仮説>
ロイヒターは、ダッハウのこの神秘的な部屋が人間をガス処刑するために使われたはずがないと明白な理由から断言している。この部屋は、当初はシャワー室(したがって、外側にBrausebadという標識がついている)であったが、のちに、1944年末からは、害虫駆除室となったのではないだろうか。暖房チームは、シャワー室を害虫駆除室に改築したのではないだろうか(外側のBrausebadという標識はそのまま残った)。害虫駆除はスチームによって行なわれたのではないだろうか。アウシュヴィッツでは、害虫駆除は(たとえば、チクロンBを使った)ガス室でも、スチーム室でも行なわれている。もちろんすべてが、衣服の害虫駆除のためであった。
<疑問点>
1.
部屋に入るドアにある、見学者むけのパネルには記載がある。1980年代初頭まで、英文のテキストは「『シャワー室』に偽装されたガス室は使われたことはなかった」というものであった。その後、おそらく1985年頃、このテキストは、「『シャワー室』に偽装されたガス室はガス室としては使われたことはなかった」と変った。なぜ、この部屋は使われたが、・・・それは衣服の害虫駆除のためであったと、見学者に率直に言わないのだろうか。
2.
この部屋のうしろには、大きな絶縁パイプ、ボイラーのそれのようなハンド・ホィール、その他の暖房装置のある区画がある。しかし、建物のこの部分は見学者の好奇心から隠されている。ニュルンベルク裁判で上映されたフィルムにはぼんやりと写っており、今日では、建物の後ろ側の窓を介して一部を見ることができるだけである。なぜ、見学者が建物のこの部分に普通にアクセスすることが拒まれているのか。絶縁と暖房の専門家にはこの施設全体が普通の建物であることがわかってしまうからではないのか。大きな絶縁パイプの出てくる部屋に入ることはなぜできないのか。
3.
Paul Berben
は、この神秘的な部屋の物語を、彼なりにスケッチしたときに使った資料について、そのすべてに触れていない。彼は、Karl
Nonnengesser という名の人物の証言一つだけを挙げているにすぎない。なぜなのか。
・ [『ユダヤ百科事典』のダッハウの項目(1971年)]Encyclopedia Judaica, Jerusalem, 1971, article on "Dachau":
ガス室[複数形]はダッハウに建設されたが、使われなかった。
・ [Earl F. Ziemke『ドイツ占領における合衆国陸軍、1944−1946年(1975年)]Earl F. Ziemke (ジョージア大学歴史学教授), The U.S. Army in the Occupation of Germany, 1944-1946,
Washington, D.C., Center of Military History, U.S. Army, 1975, p. 252. は、「ガス室」が機能したかのように記述している。
・ [Germaine Tillion『ラーフェンスブリュック』]Germaine Tillion, Ravensbrück,
New York, Doubleday, pp. 221-222 (original language: French). G. Tillion は、ダッハウにはガス室が存在し、使用されたと断言している。彼女は、ブロシャートが、Brausebadという標識がなかったとDie Zeit紙に書いたと批判しているが、ブロシャートはそのようなことは書いていない(上記参照)。彼女は、Fribourg 大尉の報告がガス室の実在と稼動を疑いもなく立証したかのように述べているが、Fribourg 大尉はそのようなことをまったく述べていない(上記参照)。
・ [ダッハウの死体を数えたアメリカ陸軍大尉のインタビュー記事(1978年)]Paul W. Valentine, "WWII Veteran
Recalls His Sad Duty at Dachau", Washington
Post, 21 April 1978, p. B3: an interview with "George R. Rodericks, a young U.S. Army captain in May 1945 when his
unit was assigned to count the bodies at Dachau [ . .
. ], a assistant adjutant general for the 7th Army in Germany [ . . . ],
commanded the 52nd Statistical Unit responsible for maintaining U.S. personnel
inventories."このG.R. Rodericksは統計家だそうだが、死体の数(倉庫に山積みされた20000体)とガス炉の数(50−60)について信じがたい数字をあげ、囚人がガス処刑された『シャワー施設』について触れている。」
・ [『600万人が死んだ』(1978年)]Arthur
Suzman and Denis Diamond, Six Million Did Die/The
Truth Shall Prevail, Johannesburg, publication of the Committee of Jewish
Representatives of South Africa, 1978, 2nd edition. 117頁に、1945年5月7日に収容所を訪れたC.S. Coetzeeと R.J.
Montgomeryの署名のあるダッハウ強制収容所の報告からの引用が掲載されている。
20×20フィートほどのガス室は、屋根に50ほどのシャワー、セメントの天井、セメントの床を持ち、普通の共同シャワー室の特徴をすべて兼ね備えている。しかし、普通の換気装置はなく、シャワー・ヘッドは毒ガスを放出する。ドアや小窓はゴムでライニングされており、ガラスの覆いのついたのぞき穴――作業員がその穴から、ガスの停止時期を判断できる――が適切な場所に付けられている。死の部屋からドアが焼却棟につながっている。われわれは、入念な制御装置とガス室につながるガス・パイプを検証した。焼却棟の背後には、銃殺される人々の処刑場があった。この場所がしばしば使われたことを示す多くの証拠があった。
122頁のキャプションにはこうある。
ダッハウのガス室の犠牲者は、焼却棟の天井に届くほど山積みされている。
資料L-159は127、129頁に引用されている。
・ [国際ダッハウ委員会『ダッハウ強制収容所、1933−1945年』(1978年)]International Dachau Committee, Konzentrationslager Dachau,
1933-1945, 1978, 5th edition (original language: German); p. 165:
シャワー室に偽装されたガス室は、稼動したことがなかった。絶滅予定の数千の囚人は、ガス処刑のために、他の収容所か、リンツ近くのハルトハイム城に送られた。
・ [フォーリソン『歴史の偽造者と私を非難する人々に対する弁護の記憶』(1980年)]Robert Faurisson,
Mémoire en defensé
contre ceux qui m'accusent de falsifier l'Histoire,
La Vieille Taupe, 1980 (original language: French). フォーリソンは、204−209頁で、ダッハウ博物館長Barbara
Distel、ブリュッセルにある国際ダッハウ委員会議長A.
Guerisse 博士と1977年、1978年にやり取りした書簡に触れて、彼らがダッハウに処刑ガス室が実在した証拠をわずかでも提出してくれと求められたときにおちいった困惑について触れている。
・ [フォーリソン『ピエール・ヴィダル・ナネへの回答』(1980年)]Robert Faurisson,
Réponse à Pierre
Vidal-Naquet, 2nd edition, Paris, La Vieille Taupe, 1980. 62頁で、フォーリソンは、Fernand Grenierの証言を分析している。それは、彼の本C’était ainsi (1940-1945), published by Editions Sociales,
7th edition, 1970に掲載されているものであるが、次のように述べている(p. 267)。
稼動停止することのない4つの焼却棟の隣に、天井にいくつかのシャワー・ヘッドを持つ部屋があった。去年[1944年]、8歳から14歳までの120名の子供たちにタオルと石鹸が与えられた。子供たちは喜んで部屋に入った。ドアが閉められた。窒息ガスがシャワーから出てきた。10分後、これらの無垢の子供たちは死に、焼却炉は彼らを1時間後には灰に変えてしまった。
・ [Réné Levesque 『回想』(1986年)]Réné Levesque, Memoirs, Toronto, McClelland & Stewart
Limited, 1986, pp. 192-193:
ドイツ人は、[ダッハウで]囚人たちを仕事につかせる前に、金歯も含む、所持品すべてを奪った。その後、ドイツ人は、とくに食糧の配給が乏しくなった昨年、彼らを死に追いやった。囚人たちは道のはずれで、2本のパイプによって貯蔵庫とつながっているみすぼらしい小屋、すなわち『浴室』(Baden)に送られた。この浴室が満杯となると、ガスが送られた。最後のうめき声が止むと、死体は隣の炉に運ばれていった。
このニュースがケベックに知らされたとき、しばらくのあいだ、人々はこれを信じることを拒んでいた。このような話は不審の目で受け取られ、理解されなかった。…私は、これが本当であること、ガス室は悪夢のような話であるけれども、実在したことを保証できる。
・ [ホロコースト百科事典のダッハウの項目(1990年)]Yad Vashem, Encyclopedia of the Holocaust,
New York, MacMillan, 1990, ダッハウ博物館長Barbara Distelが執筆した「ダッハウ」。
ダッハウでは、毒ガスを使った大量絶滅計画はなかった…。1942年、ダッハウにガス室が作られたが、使われたことはなかった。
ここで、29の文献資料を挙げておいたが、それはダッハウの「ガス室」についての文献目録のスケッチにすぎない。研究者であれば、ダッハウ博物館、合衆国やドイツの研究センターで文献にあたり、Martin Gottfried Weiss やOswald Pohl といった人々の予備審問や裁判記録を研究すべきであろう。また、ダッハウのガス室もしくはガス室[複数形]として提示されている写真も比較・検討できるであろう。このうち3つの写真がよく知られている。
注1.:ここでのニュルンベルク裁判記録とは、アメリカ版の記録・文書Trial of
Major War Criminals Before the International Military Tribunal (Nuremberg, 1945-1946; published 1947-1949)のことであり、イギリス版と混同してはならない。