試訳:『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』
もしくは
プレサック(1989)によると
アウシュヴィッツ・ビルケナウの間に合わせのガス室とでたらめのガス処刑
ロベール・フォーリソン
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2003年7月11日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Robert Faurisson, Auschwitz: Technique
& Operation of the Gas Chambers Or, Improvised Gas Chambers & Casual
Gassings at Auschwitz & Birkenau, According to
J.-C. Pressac (1989)を試訳したものである。 online:
http://vho.org/aaargh/engl/FaurisArch/RF9103xx1.html |
第一部
アウシュヴィッツとビルケナウの殺人ガス室に関するプレサックの浩瀚な研究書が登場したのは、2年前であった。もしも、これがガス室と称されるものが存在したことに対して、わずかでも証拠を提出したのであれば、世界中のマス・メディアはこの知らせに何回も反応したことであろう。しかし、大騒ぎの変わりに、沈黙があった。この沈黙の理由は、プレサックが、予想された証拠を提示するどころか、修正主義者が自分たちの研究から、ガス室は神話に過ぎないという結論を出していたことが正しいということを、その意図に反して証明してしまったという事実にある。後述するように、プレサックの本は、絶滅論者には疫病神であり、修正主義者には思いがけない贈り物である。
1978年以来、ヒトラーのガス室の実在性を、部分的あるいは全面的に証明したと称する数え切れないほどの著作、資料、フィルムが登場してきた。「ホロコースト」に関する会議から「ショアー」に関するシンポジウムにまで一巡した教授たち、研究者たちは、このテーマでは、最後の言葉を聞くことであろうと約束した。しかし、すべてが語られ、行なわれたとき、このような予想を現実とするようなことは、何も生み出されなかった。何も。いまだかつて。
にもかかわらず、これらの著作、資料、フィルム、および会議やシンポジウムの開催には、あたかも、何か新しいことが生み出されたかのように、陽炎のようなマス・メディアの喧騒や知的興奮が付きまとった。熱病はすぐに鎮まったが、少なくとも数日間は、幻影が作り出された。
この種のことは、プレサックの本には何も起こらなかった。今度は、沈黙が広がっていた。たった一人のジャーナリストだけが、この本に注目した。リチャード・バーンスタインである。彼の記事は1989年12月18日の『ニューヨーク・タイムズ』(Cセクション、11、14頁)に登場した。この記事の題、およびプレサックの本からとった写真は、記者の混乱を示唆している。見出しは、「新著はホロコーストに関する修正主義者の見解を反駁したといわれている」であった。
写真は、中央にのぞき穴があり、金属枠を持った木製のドアを撮ったものであった。ドアには、ドイツ語とロシア語の単語が書かれている。『タイムズ』のキャプションにはこうある。
「『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』からのガス室の写真。収容所が解放された後にドアに書かれた警告には『注意、危険、入るな』とある。」
このジャーナリストは正直であったので、ドアの文字が戦後に書かれたものであることを強調しているが、この写真が、殺菌駆除ガス室に関する章のなかでプレサック自身によって提示されている(50頁)ことを読者に伝えていない。本当のことを言えば、この不運なジャーナリストは、これ以上のものを発見できなかったに違いない。この退屈な本に掲載されている数百の写真や資料の中に、ひとつのガス室でも存在したことを証明することができるようなたった一つのものを発見することはできないからである。
同日発行された別の版の『ニューヨーク・タイムズ』では、同じ記事(Bセクション、1、4頁)が、別の題「アウシュヴィッツ:疑問を抱く者は恐怖を検証する」で登場している。
今度、バーンスタインが選んだのは、焼却棟の青写真の写真とシャワーをあびたのちに靴を運ぶ囚人の写真であった。最初の写真は、プレサックの本の141頁からとられたものであり、この青写真は、殺人ガス室のない焼却棟に関係するものであった。二番目の写真は、80頁からとられたものであり、ここでは、裸の人々は、手に靴を持って、シャワー室から「乾燥室:清潔な側」に向かっている囚人であるという。二つの部屋はともに、シャワーと殺菌駆除のための大きな施設の中にあった。
この記事の内容は、記者がプレサックに抱いている用心深さを示している点で興味深い。この三つの写真のどれひとつとして、ガス室での絶滅という説を立証していないのである。
フランスでは、溺れる者は藁をもつかむという空気の中で、プレサックの本はあちこちで評判となった。この点で、ヴィダル・ナケのケースは悲劇的なケースである。この教授は、最近、修正主義者に回答を出すことができる人物として、二人の人物を持ち上げていた。メイアーとプレサックのことである。ヴィダル・ナケは、メイアーのことを「エリート大学で教鞭をとっている」ユダヤ系アメリカ人と、プレサックのことを「化学の分野で研鑽を積み、化学的なことを実際に行なっている郊外の薬剤師」のフランス人と呼んでいる(Arno Mayer, La "Solution
finale" dans l'histoire,
Preface by Pierre Vidal-Naquet, La Découverte, 1990, p. viii)。彼の同僚であり友人のメイアーは、彼に意地の悪いことを言ってのけている。
「ガス室の研究資料は、まれであり、信頼できない」(English original text: Why Did the Heavens Not Darken?: The
"Final Solution" in History,
これを受けて、ヴィダル・ナケは次のように書いている。
「プレサックの本が登場した後では、メイアーのように、アウシュヴィッツのガス室に関しては『まれで、信頼できない資料』というように、述べることは、もはや誰にもできないであろう。」(French edition, p. ix)
しかし、ヴィダル・ナケは、プレサックも意図に反して彼を愚弄していることを無視している(43頁、注2)。[焼却棟WとXの「サーカスのような行動」と題する章の二番目のパラグラフ]
メイアーもプレサックも、アウシュヴィッツとビルケナウに殺人ガス室が存在することをわずかでも証明するようなものを発見できなかった。
われわれから隠されている著者と本
プレサックは薬剤師である。彼は、パリ郊外のLa Ville de Bois(Essonne)で仕事をしている。1979−1980年、彼は最初、修正主義者のもとで働くことを申し出たが、結局、修正主義者は彼を解雇した。1981−1982年ごろ、彼はLe
Monde Juifの編集長ヴェレールに付きまとったが、ヴェレールも最後には彼を見放した。そして、プレサックはクラルスフェルト兄弟のもとで働くことを申し出た。彼らは今日でもプレサックを使っているが、それも奇妙なやり方でである。セルジュとビート・クラルスフェルトは、オリジナルのフランス語版では彼の本を出版せず、英語版をアメリカで出版した。この本を、奥付にある住所The Beate Klarsfeld
Foundation, 515 Madison Avenue, New York, NY 10002から手に入れることはできない。この奇妙な本は、数少ない聖なる場所に封印されており、それを手に取ることができるのは、一握りの選ばれた者だけであるかのようであった。1990年1月、私は偶然にそのコピーを手に入れた。
1990年10月、私は、ワシントンに旅行したときに、国際的研究の聖域である国会図書館と国立文書館を訪れ、単純な興味から、この本を請求した。が、不可能であった。たしかに、カタログには載っているのに、書架にはないのである。そのことを説明できる者はいなかった。
プレサックは、ラジオや会議で話をしたいという燃えるような願望を持っていた。そのプレサックが登場すると、彼の関係者は、彼の話を短くしようとするか、彼をまったく黙らせたままにしようとしていた。だから、最近でも、プレサックは、フランス・ユダヤ人学生連合とフランス・ユダヤ研究所代表者会議がリヨンで主宰した反修正主義シンポジウムでの発言を禁止されている。ジャーナリストは、「出席していた[プレサック]は昨日自分の仕事を提示することができなかった。彼はそのことを悪く受け取っていた」と書いている" (Lyon Matin, April 24, 1990, p. 7)。
プレサックの友人たちには、彼の役割をささやかなものに限定しておく十分な理由がある。彼らは、プレサックが口を開けば、自分がおそれる最悪のことが起こるかもしれないことを知っているのである。すなわち、不幸な薬剤師が自分を表現するのに大きな困難を抱えていること、彼がおそろしいほど混乱した説を唱えていること、彼がへまをやらかしていることを全世界が知るようになるからである。
修正主義者への思いがけない贈り物
私は、次のような理由で、プレサックの本を少々検討しておこうと考えている。
1)この本は、かなり馬鹿げており、その土壌の上で、歴史家が無視できないような歴史的・文学的な奇妙さを作り出している。自分のデータを料理するやり方、自分の数字を処理するやり方、自分の批判者の目に砂をばら撒くやり方、証拠なしに主張を作り出すやり方、こうしたものと結びついたプレサックの精神的脆弱さは、それ自体が、エキセントリックな性格の観察者の対象である。
2)プレサックが擁護している説は、ユダヤ人絶滅論が落ち込んでしまった崩壊状態を表している。わが薬剤師によれば、ニュルンベルクの判事やアウシュヴィッツ国立博物館当局は、ドイツ人はアウシュヴィッツに大きなガス室、ガス処刑のための工場を意図的に建設し、それは数年間間断なく作動したと主張してきたが、今ではそのようなことを主張できるものは誰もいない。プレサックにとっては、ドイツ人は、なんでもない普通の部屋をいじくって、殺人ガス室に改造し(二つの大きな焼却棟の場合)、間に合わせのエピソード的なガス処刑を行なったのである(その他の二つの焼却棟の場合)。私が彼から何回も聞いたことのある表現を使えば、アウシュヴィッツとビルケナウでは、かなりの「間に合わせ」と「でたらめな」ガス処刑があったというのである。この用語はプレサックの本全体を要約している。
3)この浩瀚な本は、大山鳴動してねずみ一匹を産み出す山のようなものである。そして、ねずみとは修正主義者のことである。実際に、プレサックを読んで引き出す結論は、修正主義派は正しかったし、今も正しいということである。
4)絶滅論者は、はじめて、修正主義者が提起している論争の舞台、すなわち、科学的・技術的討論という舞台で議論することに賛同しているだから、絶滅論者がこの舞台では無能であることを明らかにするチャンスを逃すべきではない。
ごまかしの表題
プレサックは、自分の本にごまかしの表題を選んだ。彼は、殺人ガス室や、まして、ガス室の「技術」と「作動」に、たった一章も割いていない。彼は、これらの部屋が存在したと主張し続けているが、まったくこれを明示していない。さまざまな頁をめくってみても、そこには、殺人ガス室問題はまったく存在しないか、殺人ガス室問題は別の事柄と混ぜ合わせられている。ついには、プレサックによると、この問題は、「証拠」の問題ではなく、ガス室の「糸口」とか「痕跡」の問題となってしまう。チクロンB、害虫駆除施設、中央サウナ(ビルケナウのシャワー・殺菌駆除装置の大きな集合体)、焼却棟、証言、修正主義者、アウシュヴィッツの町、プレサックの個人生活に、章が割かれている。蛇口、鉛管工事、換気、階段、煉瓦工事、暖房、かなり個人的な新事実が詳しく取り上げられているが、それは混乱しており、すべてが混沌としており、文体は手に負えないようなスタイルである。しかし、殺人と称されるガス室については、たった一章もないだけではなく、独立したテーマとしても扱われていないのである。
プレサックはわれわれをまったくだまそうとしている。もっと、正確に言えば、シャワー室、殺菌駆除ガス室、死体安置室を殺人ガス室に見せかけようとしている。
三文文士の方法:殺菌駆除ガス室か殺人ガス室か
プレサックは、自分の本の全体的な構成をまったく尊重していない。いたるところ無秩序である。不必要な繰り返しに満ちている。技術的な議論はばらばらになっている。本の題名からすると、「凶器」について、資料的な裏づけをなされた、技術的な扱いがなされていると予想されがちである。
プレサックによれば、アウシュヴィッツとビルケナウには非常に多くの殺菌駆除ガス室があり(550頁)、これらの部屋を人間を殺すために使うことは、物理的な理由から不可能であるのだとすれば、殺人ガス室と殺菌駆除ガス室とをどのように区別するのであろうか。
プレサックによれば、ある資料では(28頁)、GASKAMMER(ガス室)、GASTUR GASDICHTE TUR(ガスドア、ガス気密ドア)、RAHMEN(枠)、SPION(のぞき穴)という単語はすべて、殺菌駆除室に備えられていたものであるとしたら、別の資料に登場したGASDICHTE TURという単語だけが、殺人ガス処刑の証拠を提供しているのであろうか。
プレサックは、ドイツ側資料が殺菌駆除ガス室のことだけを語っているところに、殺人ガス室を発見したのではないだろうか。
われわれは、基準も、最低の方向性も与えられていないので、さまざまなものが入り混じったプレサックの思考の迷路をさまよいながら、まったく無秩序なこの本の冒頭から、疑問、不明確さ、最悪の誤りへと導かれてしまう。
私は、プレサックがこれらの本質的な疑問に回答することを好奇心を持ちながら、待っていた。彼は回答しなかっただけではなく、自分自身の困惑を告白した。後述するように、彼は、自分自身を混沌状態から抜け出させるために、哀れむべき技術的説明を作り出した。彼は次のように書いている。
「チクロンBを使った殺人ガス室と害虫駆除ガス室は、同じ原則にしたがって、設置され、装備されたので、それらには、[アウシュヴィッツ]の同じ作業場で作られた同一のガス気密ドアが設置されていた。この当時、二つのタイプのガス室をどのように区別したらよいか判っていなかったので、混乱は…避けられなかった。…唯一の相違はガス気密ドアの中にあった。すなわち、殺人ガス室のドアの内部には、のぞき穴を保護する半球形のグリッドがある。」
プレサックは49頁、とくに50頁でこのテーマに戻り、自分が、アウシュヴィッツに悪名高い殺人ガス室が存在した技術的証拠、物質的証拠を持っているかのようなふりをしている。この明白な証拠は、質の悪い二つの写真にもとづいている。左側には、のぞき穴を持つガス気密ドアの外側が写っており、右側には、半球形のグリッドで保護されたのぞき穴を持つ同じドアの内側が写っている。殺人ガス室のドアと殺菌駆除ガス室のドアを区別するのは、このグリッドであるという。すなわち、このグリッドのおかげで、犠牲者は、SSが除いているガラスを壊すことができなかったというのである。50頁では、プレサックはそんなに断定的ではなく、この保護グリッドのおかげで、「殺人目的で使われたと結論するのが合理的であろう」と述べている。しかし、彼は、200頁ほどあとに二つの写真をふたたび掲載しているが、別のキャプションをつけている。今度は、もっと大胆に、率直に述べている。すなわち、この写真は(明らかに)「殺人ガス室のガス気密ドア(内部に検査のぞき穴を保護する半球形のグリッドを見ることができる)」(232頁)であるというのである。ここには、プレサックの特徴がよく出ている。すなわち、彼は、自分の考えをまとめることができず、際限なく同じ話を繰り返し、同じテーマでの仮説からすぐに断定に移ってしまうという性向を持っている。読者の混乱は、さらに数百頁進むと、次のようなキャプションを持った木製のドアの写真を見て、いっそう混乱してしまう。
「焼却棟Xの西半部の廃墟に発見された、ほぼ完全に残っているガス気密ドア…このドアは、殺人ガス処刑に使われたものであるけれども、このドアにはのぞき穴はない。」(425頁)
しかし、プレサックは、このドアがガス処刑に使われた(ママ)ことをどのように知ったのであろうか。
プレサック流の混乱は、この本の最後のほうに掲載されているシュトットホフ・ダンツィヒの小さな煉瓦の建物の写真についてのキャプションで頂点に立っている。
「…この部屋は、もともとは害虫駆除のために使われていたが、のちには、殺人ガス室として使われた。このように、二つの役割が混ざり合って果たされていることは、殺菌駆除ガス室と殺人ガス室と区別することの難しさ、あるいは、区別するのを意識的拒否したことによって30年以上にもわたって作り出されてきた混乱の典型的な事例である。」(541頁)
結局、読者は、プレサックにとっては、いったい何が、アウシュヴィッツのガス室の、あるいは収容所のガス室のドアの物理的特徴であるか、理解できない。なぜなら、実際にはまったく犯罪目的ではない部屋やドアを、殺人ガス室と分類することができるのはプレサックだけであるのだから。
しかし、プレサックは格子に非常に関心を抱いているが、殺菌駆除ガス室の専門家に相談して、例えば、次のような質問をしてみるべきである。この格子は、部屋の温度を測る装置の端を保護したのか、ガスの濃度を化学的に調べる円筒を保護したのか、と。(The Leuchter Report [David Clark, P.O.
Box 726, Decatur, Alabama 35602], 1989, p. 16, column C, and J. C. Pressac himself, "Les Carences
et Incoherences du Rapport Leuchter," Jour J, La lettre
telegraphique juive,
December 1988, p. viiiを参照。ここでは、マイダネクの殺菌駆除ガス室の「温度計」に触れられている。)。
殺菌駆除ガス室と殺人ガス室とのあいだの混乱は、アウシュヴィッツを出発して、ベルリン市の南にあるデッサウの工場にチクロンBを受け取りに行くトラックの仕事にも続いている。プレサックは、「移動許可」を引用している(188頁)。修正主義者はこれについては熟知している。私は、「ヴィダル・ナケへの回答」(La
Vieille Taupe, 2nd ed., 1982, p. 40)の中に、1942年7月22日の電報のテキストを掲載した。それは、グリュックス将軍が署名し、アウシュヴィッツ強制収容所あてのものである。
「この電報は、アウシュヴィッツからデッサウまで、5トン・トラックが、発生した疫病を抑えるために、収容所をガス処理するためのガスを受け取りに、往復することを許可している」
ドイツ語の単語は、Gas für Vergasung(ガス処理のためのガス)である。この資料、あるいは、同じ型の二つの資料では、この単語は、殺菌駆除にためのガスを問題としている(1942年7月22日、29日および1943年1月7日)。一方、1942年8月26日、10月2日、同じような別の二つの資料は、「特別措置のための資材」、「ユダヤ人の移送のための資材」について述べている。プレサックはここに証拠を見出している。すなわち、二回とも、これが意味していることは、ユダヤ人殺害のためのガスであるというのである。全体の文脈(同じような三つのその他のテキスト)が明らかにしているように、「特別措置」という単語はここでは、ユダヤ人の移送をさしている(Réponse à
Vidal-Naquet, op. cit., p. 24)。アウシュヴィッツは、検疫期間ののちに、大量の移送者を別の収容所に再配分する中継地点となっており、アウシュヴィッツへの到着者が増えれば増えるほど、チクロンBがますます必要とされたのである。
絶滅論者の歴史およびプレサックによる6つのガス処刑の場所
これら6つの場所とは、焼却棟T(旧焼却棟とも呼ばれる、アウシュヴィッツ中央収容所にあり、多くの見学者が訪れる――オリジナルとして展示されている――)、ビルケナウのブンカー1と2(この場所は定かではない)、焼却棟UとV(廃墟となっており、調査可能)、焼却棟WとX(痕跡だけが残っている)。
プレサックによると、焼却棟T犯罪的意図を持って計画され、焼却棟での殺人ガス処刑は、「確定された事実」である。しかし、彼が提示しているのは、いかなる議論や資料にも支えられていない主張にすぎない。この建物に38頁(123−160頁)を割いているが、証拠ではなく、ガス処刑の証言を提示することで満足している。これらの証言については、後述するが、まったく満足のいかないものである。彼は、修正主義者に従って、収容所の解放後に、ポーランド人が、見学者に殺人ガス室の存在を納得させるために、この焼却棟を改築したことを述べている。このトリックは多かった。例えば、ポーランド人は、屋根を「roofing felt」でカバーした(133頁)。このトリックの中で最大のものは、犠牲者がガス室に入るドアである。実際には、このドアは、もっとのちに、ドイツ人が、焼却棟を防空シェルターに改造したときに、そこにアクセスするために、作ったものであった。この事実を発見したのは修正主義者であり、プレサックもそれを繰り返している(147頁)。簡単に言えば、プレサックにとって、今日見学者が訪れている場所は、「アウシュヴィッツの殺人ガス室の紛れもないシンボル」(133頁)とみなされるべきであり、想像上の作品なのである。シンボルは現実ではなく、「紛れもないシンボル」はいっそう現実から程遠いからである。
プレサックは、この部分の結論で、奇術的なトリックを行なっている。ロイヒター報告を、この場所での殺人ガス処刑の現実性に関する物的証拠――唯一の証拠――としているのである。プレサックは、ロイヒターが、煉瓦とセメントから7つのサンプルを採取し、分析してみると、うち6つがシアンの存在を示していたと述べ、次のように太字体で書いている。
「ほとんどすべて(7つのうち6つ)がポジティブであったことは、焼却棟Uの『死体安置室』では青酸が使われたこと、したがって、殺人ガス室として使われたことを証明している。」
プレサックは以下のことを述べていない。すなわち、ロイヒターは
反対の結論に達していること。ロイヒターは、そこにはガス室は存在しなかったし、存在し得なかったと結論しているのである。
自分の発見を物理的検証にもとづかせていること。
この発見を、アメリカの研究所に依頼した化学分析で補強していること。この分析は、いわゆるガス室での鉄化シアン化合物は、殺菌駆除ガス室(収容所博物館当局もそのように認めている)のサンプルと比較すると、ゼロに近いか極微量であることを明らかにしている。後者の鉄化シアン化合物の量は1kgあたり1050rであり、いわゆる殺人ガス室で発見された量の少なくとも133倍である。
ロイヒター報告とプレサックの使い方については、またのちに立ち戻ることにする(注1 See Appendix 1 below (to be published with
Part II of this article in the Summer 1991 issue of The Journal of
Historical Review))。プレサックは、報告と化学的分析を、自分に都合のよい風に利用しているのである。ヴェレールも同じことをやっている(see "A propos du 'rapport Leuchter' et les [sic] chambres a
gaz d'Auschwitz," Le
Monde Juif, April-June 1989, p. 45-53)。「非常に有能で良心的な専門家[ロイヒター]が化学的分析を行なったが、彼の問題の理解は最小である」(同上書、48頁)というのである。ヴィダル・ナケも軽信しやすいという特質を生かして、1990年9月24日、パリのアンリ四世リセーの学生集会の前で、ロイヒター報告について次のように述べている。
「これは、何も証明していないグロテスクな資料である。ヴェレールとプレサックも、そのように考えられると述べてきている。」
付け加えておかなくてはならないことは、プレサックは、ロイヒターは修正主義者に「依頼された」と述べて、これらが自分たち自身ゲームで打ちのめされてきた、アメリカ人技師は「沈黙しているパートナー」をだましていると示唆していることである。しかし、実際にロイヒターが明らかにしたことは、修正主義者が正しいということであった。さらに、彼は、それまでドイツの殺人ガス室の実在を信じていた人物として、まったく独立した精神の持ち主として行動したのである。
プレサックは、ポーランド人が現場をかなり変えてしまったことを認めているのだから、われわれに提示している図版――私が1976年に発見し、1980年に公表した、この件に関してプレサックは私に負っている――にしたがって、まったく変更前の、オリジナルな状態のもとで、いわゆるガス室の中のガス処刑を研究しなくてはならない。しかし、そのようなことはしてこなかった。炉室のすぐそばで、SSの病院から20マイルはなれたところでの大規模なガス処刑は壊滅的な結果をもたらしてしまうという明白な事実を認めなくてはならなくなるからである。
とくに、チフスによって死亡した死体が山積みされている保管所の内部は、チクロンBを使って殺菌駆除されたに違いない。このために、そこからは、極微量の鉄化シアン化合物が検出されたのである。
ライトリンガーも、ヒルバーグも、ヴィダル・ナケも、そこにガス室があったとは信じていないようである。オルガ・ヴォルムサー・ミゴットは、学位論文の中で、アウシュヴィッツTはまったく(殺人)ガス室を持っていなかったと述べているように(Le Système concentrationnaire
nazi (1933-1945), PUF, 1968, p. 157)。
したがって、プレサックは「焼却棟Tの殺人ガス室」を信じている最後の人物であろう。
ブンカー1に関しては、プレサックは、その最後の分析で、その物理的な場所でさえ知られていないことを認めている(163頁)。さらに、物理的な痕跡やオリジナル図面もないと付け加えている(165頁)。このブンカーの隣にあったとされ、耐え難い悪臭を放っていたという大量埋葬地に関しては、彼は、それが「目撃者」の想像の産物であり、問題の悪臭は下水処理場からのものであると考えている(51頁、161頁)。
ブンカー2に関しては、もっと証拠がない。プレサックは、この家の痕跡を発見したと信じているが、彼が提示しているのは、彼自身が信用できないとみなしている「証言」だけである。これらの証言には図版が添えられている。さらに、ソ連の委員会によるあいまいな地域図がある(171−182頁)。
アウシュヴィッツでの殺人ガス処刑の歴史の多くが、ドイツ人はこれら三つの場所(焼却棟T、ブンカー1、ブンカー2)で大量ガス処刑を実行したという確信の上に組み立てられていることを考えると、プレサックが確立した事実的なバランスは、哀れなものである。この確信は、今日ではまったく証拠にもとづいていないことが明らかであるが、歴史書や法廷に侵入してきた。多くのドイツ人が、焼却棟T、ブンカー1、ブンカー2でのガス処刑の咎で有罪となっている。
焼却棟Uは、殺人ガス室なしで設計されたという(200頁)。プレサックの説が定説と異なっているのはこの点である。彼によると、ドイツ人は、普通の、半地下死体安置室(死体安置室1)を殺人ガス室に改造したという。ドイツ人は、換気システムを改善することもせずに、やっつけ仕事を行なった。換気システムは、汚染された空気を底から排出するという死体安置室のシステムのままであった。これは、青酸ガス室の換気システムとは矛盾してしまう。ここでは、暖かい空気とガスが、汚染された空気を上部で排出しなくてはならないからである。
焼却棟Uは殺人ガス室として機能し始め、[1943年]3月31日に公式に稼動する前に、3月15日に稼動し始め、1944年11月27日まで、「合計、約40万人を絶滅し、そのうちの大半が、ユダヤ人女性、幼児、老人であった」(183頁)という。
プレサックは、このような話を補強する証拠をまったく提示していない。彼は、「アウシュヴィッツ・ビルケナウでのユダヤ人の『産業的』絶滅が計画されたのは、1942年6月から8月のあいだであり、実際に実行されたのは、4つの焼却棟が稼動し始めた1943年3月から6月のあいだであった」(184頁)と述べている。これらの日付は、ドイツ人がチフスの流行を恐れて、焼却棟の建設を決定し、のちに完成させた日付であるが、どうして、プレサックは、これに付け加えて、これらの日付がガス処刑の決定の日付と一致していると断定できるのであろうか。誰がそれを決定したのか、それはいつのことであるのか、どのようにしてであるのか、どのような許可、指示、資金があったのか、このような事業のために誰が徴用されたのか、この巨大な殺人装置を動かすには何が必要であったのか、プレサックは明らかにしていない。彼は、焼却棟を犯罪目的に改造する決定の日付を特定する資料は存在していないと述べている(同上書)。
プレサックによると、焼却棟Vも、殺人ガス室なしで設計されたという(200頁)。ドイツ人は、焼却棟Uと同様に、「自己流の」やっつけ仕事を行なったという。焼却棟Vは1943年6月25日に稼動し始め、1944年11月27日までに、「約35万を殺害した」(183頁)という。
焼却棟WとXは、殺人ガス室付で設計されたという(384頁)。Wは1943年3月22日に、Xは4月4日に稼動し始めたが(378頁)、ほとんど使われなかったという。「二ヵ月後、焼却棟Wは完全に停止した。焼却棟Xが稼動し始めたのは、もっとのちのことであったが、ほとんど使われなかった。」(384、420頁)。ガス処刑の手順は「ばかげたほど非論理的であり」(379頁)、ガス処刑を実行するSS隊員にとっては、「サーカス」のようなものであった(386頁、下記43−46頁)。
思い起こしておかなくてはならないことは、1982年には、プレサックは、焼却棟WとXが、殺人ガス室なしで設計されたと主張していたことである。ドイツ人は普通の部屋を殺人ガス室に改造したというのである("Les 'Krematorien' IV et V de Birkenau et leurs chambres a gaz, construction et fonctionnement," Le Monde juif,
July-September 1982, p. 91-131)。彼は、なぜ、この説を翻して、まったく正反対の説を採用するようになったのか説明していない。要約すると、われわれのガイドを信じるとすると、殺人ガス室付きの焼却棟、殺人ガス室なしの焼却棟について整理すると、稼動開始の日付にしたがえば、次のような話となる。
焼却棟T:殺人ガス室付きで計画
焼却棟W:殺人ガス室付きで計画(1982年の説ではなしで)
焼却棟U:殺人ガス室なしで計画
焼却棟X:殺人ガス室付きで計画(1982年の説ではなしで)
焼却棟V:殺人ガス室なしで計画
このような気まぐれや支離滅裂さは、論理も年代別整理のへったくれもない。
プレサックにとっては、チクロンBは人を殺すためには、ほとんど使われなかった。
プレサックによると、チクロンBの95%以上が、殺虫のため――殺すのに多くの時間が必要――に使われ、5%以下が、殺すのが簡単な人間の殺害のために使われた(15頁)。彼は、どのようにしてこの数字にたどり着いたのかを説明していない。これは、絶滅論者の主張とはかなり隔たっている。とくに、ヒルバーグは次のように書いている。
「アウシュヴィッツに対する配給のほぼすべてが、人々のガス処刑のために使われた。燻蒸消毒に使われたのはごく少量であった。」(The Destruction of the European Jews,
New York, Holmes and Meier, Revised and Definitive Edition, 1985, p. 890)
絶滅論者が、この本を読まずに飛び越えてしまう代わりに、たまたまそれを開いて、読み始めたならば、彼らはまったく困惑してしまうであろう。
彼は青いしみの欠如を説明できない。
わが薬剤師によると、ドイツ人が殺人目的でチクロンBを使って、百万の人々をガス処刑したとしても(焼却棟Uで75万、焼却棟Vで25万、475頁)、ほんの少量が必要なだけであり、殺虫にははるかに多くの量が必要であったという。プレサックがこのことを信じ続けているのは、そうすることが、仰天するような物理的・化学的変則性を説明できる唯一の方法だからである。すなわち、アウシュヴィッツ・ビルケナウで、チクロンBを使って、産業的な規模で、人間を殺害したとされる場所には、青いしみがまったくなく、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、その他の収容所の殺菌駆除ガス室の壁には、今日でも、大きな青いしみが残っているのということ。殺菌駆除ガス室のこれらの青いしみは、青酸(プロシアン)が存在したことに起因する。この酸は壁に残って、煉瓦の中の鉄と結びついて、鉄化シアン化合物を生み出すのである。
プレサックは(555頁)で、殺人ガス処刑の場合には、青酸は拡散して、天井、床、壁にしみこむ前に、直接犠牲者の口の中に入ってしまうと述べている。ガスは犠牲者の死体にも残らず、部屋中に拡散してしまったに違いないというのである。
チクロンB(1920年代の初期から使用されており、今日でも、商標を変えて、使用されている)は、その製造元によると、「ガスが表面に固着する強い能力を持っているために、難儀で長い換気」を必要とする厄介な代物である(資料NI−9098)。プレサックは、彼自身の説によると、焼却棟Uの死体安置室1(210u以下)だけで、40万人が532日間でガス処刑され(上記36頁)、これは、人間のガス処刑がフルスピードで、間断なく行なわれたことを意味していることを忘れている。彼は、青酸が皮膚を介して吸収されることを知っている(25頁)。だから、害虫よりもはるかに広い皮膚の表面を持ち、青酸に浸透された多くの死体は、致死性のガスの放出源となる。さらに、これまで語られてきたような方法で、これらの死体を扱うことは不可能である。今日のアメリカの刑務所でも、たった一人のガス処刑された死体を青酸ガス室から運び出すには、医者と二名のアシスタントが必要であり、しかも、細心の注意が必要なのである。
彼は、ドイツの「コード化された言語」が神話であることを認めている。
彼は、伝統的な歴史家たちの建物に巨大な亀裂を開けている。とくに、プレサックはヴェレールの建物に亀裂を開けている。すなわち、ヴェレールによると、ドイツ人は自分たちの犯罪を覆い隠すために、秘密の言葉、「コード」を使ったというが、プレサックはこの説を否定しているのである。彼は、これが「神話」であると二回述べている(247、556頁)。プレサックは、このような虐殺の秘密を隠しおおせるものではないことをよく知っている。彼は、修正主義者に従って、アウシュヴィッツとビルケナウの収容所が、いうならば、透明であったことを証明する資料を提示している。何千もの民間人従業員が毎日囚人たちと交じり合っていた(313、315、348頁…)ドイツやポーランド各地の多くの民間会社が、焼却棟、殺菌駆除ガス室、ガス気密ドアの注文を受けた。建設局だけで、数百の従業員を雇っていた。ある写真には、事務所にいる技師、設計士、図面工が写っており(347頁)、そこには、プレサックも知ってのとおり、焼却棟の図面が掲示されている。連合国が撮影した航空写真には、アウシュヴィッツでも、トレブリンカと同じように、収容所のフェンスのすぐそばの畑を耕している農民が写っている。一方、ドイツ人はアウシュヴィッツの工業施設を熱心に隠そうとしていた(無駄であったが)。したがって、次に様なパラドクスが持ち上がる。アウシュヴィッツでは、ドイツ人は、焼却棟にある「死の工場」ではなく、その他の工場(兵器、人口石油、人口ゴムなど)を隠そうと努力したということになる。
根拠のない話と操作
この本には、根拠のない話と操作があふれている。1943年9月3日、アウシュヴィッツのブロック11の地下で、チクロンBが850名を殺害するために、初めて使用されたというが、プレサックは、これまで立証されていない主張を、どのような証拠を使って証明するのであろうか(132頁)。彼は、そのすぐ後に(?)、ロシア軍の囚人が焼却棟Tの死体安置室でガス処刑されたと述べている。彼は、ひとかけらの証拠も提示していない。彼は、アウシュヴィッツ所長ヘスの「自白」によると、囚人の数は900であったと述べているが、その後で、「実際には500−700名であった」と筆をすべらせている。このやり方がプレサック流である。彼は、部屋の面積からして、900という数字が不可能であることを認めて、それを「訂正し」、そして、自分の低い数字が仮説であることを明らかにする代わりに、彼は、「実際には500−700名であった」と断言するのである。こうしたやり方は50以上もあげることができる。まず、信じがたい証言を紹介し、それを信用できるものに変更し、オリジナルなテキストが仮説にもとづいて作り変えられたことを知らせずに、変更結果を確定された事実としてしまうのである。
プレサックは、単語、数、日付を変えてしまい、読者にこの変更の正当化を伝えることもあるが、それ以外の場合には、暗闇の中に放り出してしまう。18頁はこのやり方の事例である。ここで、プレサックは、分子の重さなど、青酸(HCN、チクロンBの主要構成要素)のさまざまな特質からはじめている。そして突然、彼は、15の特質のリストの中に、「ビルケナウの殺人ガス処刑で使われた濃度は、1㎥あたり12g、致死濃度の40倍であった」という文章をまぎれこませる。そうすることによって、プレサックは、本の冒頭から、ビルケナウの殺人ガス処刑が、問題としているガスの分子の重さと同じような化学的事実であると理解させようとしている。彼は、ビルケナウで人間を殺すために使われたチクロンの量が、ほぼ1g近くで、科学的に確定されたものであると信じ込ませようとしている。
悪知恵と冷静さを混ぜ合わせた技術は、プレサックの本では、いたるところにある標準的なやり方である。227頁には驚くべき主張がなされている。プレサックは、その根拠をまったく提供せずに、焼却棟Uは完成前に、1943年3月31日に収容所管理局に引き渡される前に、ユダヤ人をガス処刑するために使われたと述べている。彼は、約6900名のユダヤ人が12日間でガス処刑されたことを自明の事実としている。そして、彼は、正確な数と日付も特定している。日曜日の夕方、クラクフ・ゲットーからの1500名のユダヤ人、3月20日、サロニカからの2200名のユダヤ人、3月24日、サロニカからの2000名強のユダヤ人、翌日、1200名以上のユダヤ人。この日付の典拠としてあげられているのは、ポーランドの共産主義者が編纂した『アウシュヴィッツ・カレンダー』だけである。もしも、これらのユダヤ人がこの日付に収容所に到着したとすると、プレサックは、どのような典拠にもとづいて、彼らがガス処刑されたと述べているのであろうか。ここでのドイツに対する告発は、非常に重要であるので、きわめて明確な証拠の束が必要であろう。
プレサックは、「ガス処刑を公式に終わらせた」「1944年11月26日のヒムラーの、ビルケナウの焼却棟UとVの破壊命令」を再三言及している(115、313、464、501、533頁など)。しかし、わが自動筆記者は、主だったユダヤ人研究者が(日付については多少のバリエーションがあるものの)述べてきたことを、まったく検証せずに、繰り返しているだけである。この命令は存在しなかった。しかし、なぜ、この命令が発明されなくてはならなかったのか。第一に、収容所が解放されたときには、犯罪の痕跡がまったくなかったことを説明するためである。さらに、ガス処刑命令が存在しないことと話をあわせるためである。
プレサックは、どのような根拠で、ヒムラーが、1942年7月17日のブンカー2でのガス処刑に立ち会ったと述べているのであろうか(187頁)。どうして、彼は、「ドイツ赤十字会長」グラヴィツ博士が、自分の目で、(文脈によると、ガス室の中での)ユダヤ人の絶滅を目撃したと非難できるのであろうか(206頁)。
まずはじめに、16頁に断片的にあるような、アウシュヴィッツでの殺人ガス処刑の手順を、プレサックはどこから持ってきたのであろうか。彼の記述は驚くべきものである。
読者が『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』という題の本に期待することは、前代未聞の異常な化学的屠殺場の技術と作動に関する深い研究であり、百万の犠牲者がガス処刑された手順の完全な記述であろう。しかし、プレサックはこのテーマを避けている。彼が提供しているのは、あいまいで、断片的なほのめかしであり、読者には、それが「証言」や資料にもとづいているのか、まったく推測の産物なのか判断できない。彼がガス処刑の手順という中心テーマに戻ったことは、本の中では、まったくない。確かに、彼は、焼却棟WとXについての文章の中で、手順について触れているが、この二つの場所でのガス処刑の手順は、馬鹿げており、彼が「サーカスのような動き」(386頁)と呼んでいるようなものである。
前述したように、プレサックは、ブンカー1について(外観、構成、場所でさえも)知らないことを認めている。だとしたら、「1942年5月、ユダヤ人の到着グループに対する大規模なガス処刑が、ビルケナウのブンカー1と2で始められた」(98頁)とどうして書くことができるのだろうか。
チクロンBが焼却棟Tの屋根の開口部から投入されているとき、隣接の病院にいたSS隊員は、「窓の外を見ることを禁止されていた」ので、この作業を見ることを避けていた(145頁)、とどうして書くことができるのだろうか。
靴の山が、どうして、殺人ガス室が実在した証明となるのであろうか(420頁)。188頁(2列目)の冒頭にまつりあげられている悪行を、誰がどのようにして実行できたのであろうか。ここで、プレサックは、「収容所のおそろしい衛生状態」のために膨大な量のチクロンBが必要となり、SSは、こうした状況を隠すために、ユダヤ人の絶滅のためにとして、チクロンBを注文した、この注文は、「実際のディーテールについては知らされずに」、絶滅の「一般的知識」を持っているだけの上司に伝えられた、と述べている。
焼却棟WとX「サーカスのような動作」
プレサックが誠実であったとすれば、焼却棟WとXに関する部分を1982年当時の彼の解釈から始めたことであろう。当時、彼は、Le Monde Juif (op. cit.)の中で、これら二つの焼却棟は、普通の焼却棟として、犯罪目的を持たずに計画されたと主張していた。その後、ドイツ人は、やっつけ仕事を行なって、そこの部屋を殺人ガス室に改造したというのである。1985年にもまだ、プレサックはこの説に固執していた(Colloque de l'Ecole des Hautes Etudes en sciences sociales
[Francois Furet and Raymond Aron],
L'Allemagne nazie
et le génocide juif, Gallimard/Le Seuil, 1985, p.
539-584)。
しかし、プレサックは本書では、読者に明白に説明せずに180度転換した(379、448頁)。プレサックはいつも混乱しているので、プレサックが前の説(これらの焼却棟は犯罪目的を持たずに計画された)を支持していた理由、この説とは正反対の新しい説(これらの焼却棟は犯罪目的を持って計画された)を採用した理由が、読者にはまったくわからない。(注2 わが薬剤師は、へまをすることになれている。このことを明らかにするために、558頁を参照することをすすめる。ここで、彼は、誰も自分の最初の説(焼却棟WとXは犯罪目的を持たずに計画された)を信用しようとはしなかったが、幸運にも、一人の人物が彼のもとにやってきて、1982年のソルボンヌでのシンポジウムで自説を発表することを許してくれた、この人物は、彼の発見を「明快で、重要である」と判断してくれたと回想している。プレサックが今日では正反対の立場をとっているこの説を支持してくれたのは、ほかならぬ、ヴィダル・ナケであった。)
プレサックの困惑は大きい。焼却棟WとXは、その設計・建設が具合悪かったので、すぐに停止してしまった(384、420頁)。だから、プレサックが、これら二つの焼却棟WとXの歴史を悪魔に送ったとしても幸せではないかもしれない。彼は、1944年5月末、ビルケナウの男性収容所で生活していた特別労務班員の大半が、「彼らの宿舎に改造された焼却棟Wに」移されたと書いている(389頁)。
ホロコースト文献では、自分たちと同宗派の人々がガス処刑され、焼却されたことに絶望し、焼却棟Wに放火したユダヤ人特別労務班の反乱は英雄の歴史の一頁である。プレサックは、この話の「信憑性」に疑いを投げかけており、焼却棟Wが当時宿舎にすぎなかったこと、この反乱は、あまりにも多くのことを見すぎてしまった、自分たちの終わりが近づいていると感じていた囚人の絶望的行為であったと述べている(390頁)。
すぐにわかるように、焼却棟WとXの内部配置は、殺人ガス処刑という行動を笑いものにするようなものであった。
これら二つの焼却棟を取り上げよう。第一に、脱衣室がなかったので、犠牲者は、死体が山積みとなっている死体安置室に連れて行かれたという。ここで、犠牲者は死体を眼前にしながら、服を脱いだ。そして次に、前室、廊下へと向かった。そして、医師の事務室を、ついで石炭貯蔵室を通った。次に、廊下の終わりに、廊下から火をくべられるストーブを備えた二つの「殺人ガス室」に分けられた。そして、建物の外にいたSS隊員が屋根のシャッターからチクロンBの丸薬を投入した。高さがあるために、梯子を使わなくてはならなかった。彼は、梯子を設置して、シャッターまで登らなくてはならなかった。片方の手でシャッターを開け、もう片方の手でチクロンBの缶を開けなくてはならなかった。速やかに、シャッターを閉め、次のシャッターに向かった。次のシャッターでは、もっと速やかに同じ動作をしなくてはならなかった。HCNは空気よりも軽いので、たとえ、SS隊員がガスマスクをつけていたとしても、最初の丸薬からの放出がこの仕事をもっと危険にしてしまうからである。
作業の最後には、彼は、これらの部屋を注意深く換気しなくてはならなかった。シャッターは小さく、換気装置はなかったので、この仕事をどのように行なったのかわからない。ドアは開けられたままであろう。前室、医師の事務所などもそうであろう。死体を二つのガス室から引き出さなくてはならなかった。長い廊下を引きずっていき、3つの続くドアを通って、死体安置室に至る。そこには、次の犠牲者たちが待っている。
プレサックは、Le Monde juif
(op. cit., p. 126)の1982年の研究の中で、「このやっつけ仕事は呆然とするようなものである」と書いて、次のような結論を下している。
「だから、明らかに、焼却棟WとXは犯罪施設として計画されたのではなく、そのようなものに改造されたのである[強調はプレサック]」。
彼は、「1980年」の自分の感情にはあいまいにしか触れていない。当時、この作業は「馬鹿げたほど非論理的である」(379頁)ことを発見したと述べている。
9年後、わが薬剤師は、「馬鹿げたほど非論理的な」この作業を説明できるようになったのであろうか。それとも、ドイツ人は、論理的で、明白で、わかりやすい手順に変更したことを発見したのであろうか。まったくそうではあるまい。
プレサックは、SSが自分たちの手順が「非合理的で、馬鹿げたものになった」(386頁)という事実に気づいていたことからはじめている。SSはチクロンBを6つの開口部(プレサックは、ホールが三番目のガス室となったのだから、2つではなく3つのガス室があったと考えている)から投入しなくてはならなかった。このSS隊員は、ガスマスクをつけながら、少なくとも18回、梯子を上り下りしなくてならなかったという。
わがガイドによると、このようなガス処刑が2、3回行なわれたのちに、建設局は自然換気が危険であり、毒の投入方法が「サーカスのような行為」に似ていることを発見した。
換気のためにドアが設置されたので、西風がガスを危険な方向に送ってしまうことがなくなり、北風と南風だけが部屋を換気することになったという。
ガスの投入手順(「サーカスのような行為」)は同じままであったが、シャッターは10p広げられた。プレサックは、きわめて深刻な調子で、次のように書いている。
「しかし、投入方法は同じままであったが、収容所管理局は、ちょっとした肉体運動がガス処刑に責任を負う看護兵によい世界を与えると考えていた。」
ここでも、いたるところと同様に、わが薬剤師は驚くべきほどの冷静さをあらわしているが、読者にはまったく証拠を提示していない。例えば、彼は、収容所当局が(どの?いつ?)、「サーカスのような行為」を馬鹿げたことと考え、「ちょっとした肉体運動が[ユダヤ人の]ガス処刑に責任を負う看護兵によい世界を与える」と考えたとどこで見たのであろうか。
プレサックの本の中にいつも登場するのは、SSが示している愚かさである。彼は、このSSの愚かさというものを、殺人ガス処刑の物語のなかの変則的なこと、馬鹿げたこと、不適切なことの多くを説明するのに利用している。奇妙なことに、彼は、[愚かさ]の原因が、SS隊員の行動をそのように描いている人々にあるとは疑っていない。すべての作業はこの愚かさと交じり合わされているが、それはSSの愚かさなのであろうか、それとも、プレサック自身の愚かさなのであろうか。
最後に、プレサックは、驚くべきことに、焼却棟WとXは確実に殺人ガス室を持っていたと結論する前に、それらがたんにシャワー室、害虫駆除室であるとは疑っていない。私の書庫には、焼却棟WとXの図面があるが、そこには手書きで、彼が殺人ガス室と呼んでいる場所に、「シャワー1」、「シャワー2」という単語が記載されている。彼が第三のガス室と呼んでいるところには、「廊下」とある。
ひとつの証拠、たった一つの証拠の代わりに…39の犯罪の痕跡
証拠に関する章では、プレサックはすぐに降伏している。彼は自分の失敗を知っている。彼は次のように認めている。
「新しく発見された図面や書簡によって、実態を明確に説明することができるようになったあかつきには、修正主義者は敗走するであろう。」(67頁)
彼がディーテールに関して筆をすべらしてしまった、この一節は、プレサックの本全体に適用しうる。プレサックは、修正主義者が間違っていることを証明するような「ドイツ側の特別資料」をいつの日か発見することを期待しているが、今のところ何も発見していない。
彼は、私が1979年に挑戦を始めたことを覚えている。私が求めていたのは、たった一つのガス室が実在した一つの証拠、たった一つの証拠であった。彼はこの挑戦に耐えることができていない。第8章の題「一つの証拠…たった一つの証拠:39の犯罪的痕跡」(429頁)がそのことを雄弁に物語っている。
私としては、「一つの証拠…たった一つの証拠:39の犯罪的証拠」という題を期待していた。
彼によると、「犯罪的痕跡」とは、「犯罪の痕跡」あるいは「犯罪の糸口」のことである。すなわち、「推測証拠」あるいは「間接証拠」のことである。プレサックは、「このような『直接』、すなわち、容易に認知され、反駁の余地のないような、確実な証拠がないなかで、『間接』証拠は十分であり、有効であるかもしれな」と述べ、こう付け加えている。
「私が『間接』証拠ということで意味しているのは、ガス室が殺人目的であるとは明瞭に述べていないが、論理的にはそれ以外のものではありえない証拠を含んでいるようなドイツ側資料のことである。」(429頁)
そして、この意味で、39の間接証拠が読者に提示されるわけである。
しかし、ここでしばらくのあいだ、私の挑戦、その意味と理論的根拠に戻ろう。また、プレサックは、どのような条件のもとで、彼が呼ぶところの「直接証拠」あるいは「決定的証拠」を提示できないことを認めているのかを見ておこう。
1979年2月26日、私は、回答する権利を行使して、『ル・モンド』紙に書簡を送った。同紙はこの掲載を拒んだが、私のMémoire en défense contre ceux qui m'accusent de falsifier l'histoire (La Vieille Taupe,
1980, p. 100)に掲載された。当時、私は次のように書いている。
「私は論争を進める方法を知っている。『ガス室』の実在を証言する大量の証拠があると繰り返すのではなく(旧ドイツ本国の不可思議な『ガス室』の実在を証言する大量の証拠があったことを思い起こしておこう)、私が提案したいのは、まず手始めに、一つの『ガス室』、たった一つの『ガス室』が実在したことを証明するひとつの証拠、たった一つの証拠を提示していただきたいということである。そして、みんなで、おおやけにこの証拠を検証しよう。」
私は、私の反対者自身が証拠と呼んでいるものも「証拠」とみなそうとしていたことはいうまでもない。私の挑戦は確かめることによって説明できる。すなわち、絶滅論者は「推測の束を集める」あるいは「断片」(証拠の一部、推測、痕跡)を集めるという安易なやり方を採用していた。彼らの証拠なるものは、根拠薄弱であるが、それ自身が根拠薄弱である別の証拠によって補完されていた。多くの証言証拠が使われているが、それはその名が示しているように、証言だけにもとづいているために、すべての証拠の中でもっとも根拠薄弱なものである。ゲルシュタイン証言の「本質」はヘスの自白の「本質」によって補完され、ヘス証言の「本質」は、クレマー博士が、あいまいな言葉で、ガス室の実在を明らかにした、同時に隠した「日記」の「本質」に依存しているというのである。言い換えれば、「めくら」が、「おし」に案内されている「びっこ」に寄りかかっているということになる。過去において、魔女裁判のときに、判事は「断片」を大いに利用し、魔女を告発した。そのとき頼った方法は、1/4の証拠が1/4の証拠に足されて、それが、1/2の証拠に足され、それが本当の証拠とみなされるのである(映画Les Sorcieres de Salem [the French
version of Arthur Miller's The Crucible] はこのような算術を行なう裁判官を描いている)。当然にも、悪魔が実在した決定的証拠、悪魔と出会った決定的証拠を提示することはできなかった。人間の実在を証明するように、悪魔の実在を証明することは不可能であった。これは判事のせいでなく、悪魔のせいであった。悪魔は、いたずら好きであるので、自分の悪行を証明するような痕跡は残さなかったからである。その本性からして、悪魔は、せいぜい、自分が通った漠然とした痕跡だけを残していった。これらの痕跡は、自分自身では語らない。語らせてやらなければならない。とくに、賢い知識人は、普通の人々が何も発見することができない場所で痕跡を発見する能力を持っていた。悪魔は自分の足跡を隠すようにしてきたが、そのようにした痕跡を隠すことを忘れてしまった。だから、学識のある審問官は、賢明な教授たちの助けを借りて、すべてを再現することができた。
1945年以来、SS隊員は、おおむね間接的にではあるが、殺人ガス処刑に関与してきた咎で裁かれてきた。魔女裁判の話は、この裁判とまったく変わらない。悪魔の信奉者と同様に、これらのSS隊員はガス処刑の痕跡を一つも残さなかった。しかし、訓練を受けた人々(ポリャーコフのやから、ヴェレールのやから)は、著作や証言台で証言して、彼らの策略を見破る方法、ミステリーを暴く方法、悪魔的な犯罪を再現する方法を知っていたというのである。すなわち、彼らはすべてを解釈し、判読し、暗号を解き、解明したというのである。
「直接的証拠」はない、と彼はついに認めている
プレサックは書いている。
「『伝統的な』歴史家は、彼[フォーリソン]に『膨大な証拠』を提供したが、それは実質的にすべてが、…人間の証言にもとづいていた。」(429頁)
彼はまた、伝統的には殺人ガス室が実在した証拠として扱われてきた写真があるが、一つも『決定的証拠』として提示することはできないと認めている(同頁)。
彼は、自分が所持しているアウシュヴィッツとビルケナウの焼却棟の数多くの図面は、そのうちの特定のものが、裁判で、明白に犯罪目的を示しているかのように利用されたけれども、殺人ガス室の使用を明白に示しているものはどれ一つとしてない、と書いている(同頁)。
残ったのは、ドイツ側の書簡や公式文書に登場するさまざまなアイテムだけである。それは、例えば、「フォーリソン裁判」で利用されてはきたが、彼によると、「推定証拠の確信的一群」以上のものは構成していない(同頁)。
39の「犯罪的痕跡」のリストは、disparate objectsの(フランソア・ラベロアもしくはジャック・プレバートスタイルでの)列挙を思い起こさせる。設計士、暖房技師、鉛管工の畑から引き出された無害な技術用語のパレードが続いているが、La Ville de Bois出身のわが薬剤師は、暗い意図を暴こうとして、自分の頭脳を破壊している。プレサックは、ねじ、ナット、ボルト、そしてねじやまにさえも、へだてなく、しゃべらせようとしている。(注3 500頁で、プレサックは、3個の「ガス気密木製シャッター」を提示している。彼は、その証拠を示していないが、それはおそらく、殺菌駆除ガス室の一部であろう。彼は、固定棒が「2つのナットとボルトでシャッターにつけられている。ボルトの頭は内側に、ナットは外側である [強調はオリジナル]と指摘し、「このやり方には注釈はいらない。…これらのシャッターは殺人ガス室の一部であり、ボルトが内側にあったとすれば、犠牲者は固定棒をはずして、逃亡することができたであろうことを、判らせている」と続けている。39の糸口すべてを検討することは退屈である。彼の話では本質的であるものだけに限定しておこう。
無害な技術用語
手始めに、かなり一般的に使われていたいくつかのドイツ語の技術用語について、英語の読者に関心を促しておきたい。
害虫駆除ガス室(あるいはガスマスクを使った要員の訓練のためのガス室)を指すには、ドイツ人はGaskammerという単語を、意味が十分にわかっているときには、たんに、Kammerという単語を使う。ガス気密ドアは、Gasturあるいはgasdichte Turである。英語では、gas-proof-doorおよびgas-tight-doorである。この種のドアは、害虫駆除ガス室にも、密閉(例えば、炉室や防空シェルターでの密閉)にも使うことができる。(注4 爆撃にあたって、防空シェルターのガス気密ドアは、爆発にあたって、二つの事柄を防止すると考えられていた。すなわち、シェルターから酸素が出て行ってしまうこと、一酸化酸素が中に入ってきてしまうこと)。一般的にいえば、ガス気密ドアは、火事や爆発の危険がある建物ならどこにでも発見される。高温の炉が作動している焼却棟でもそうである。ドイツでは、中央暖房設備を持つ地下へのドアは、強制的ではないとしても、火事、爆発、ガス漏れを防ぐために、ガス気密ドアであったと考えているが、これは検証されなくてはならない。Gaspruferは「ガス検知器」を、Brausenは(水の散布、シャワー)のための「シャワーヘッド」を意味し、Auskleideraumは「脱衣室」を、害虫駆除施設では、「汚れた場所(unreine Seite)で人々が服を脱ぐ部屋を指している。死体安置室では、同じ単語が、死体から衣服を取り除く部屋に適用できるかもしれないが、私はこのことを検証できていない。プレサックは、「鉄網投入装置」と翻訳しているDrahtnetzeinschiebvorrichtungと「木製カバー」と翻訳しているHolzblendenの存在を証拠としている。私は、これらの単語に特殊な意味があったとは考えていない。
他方、プレサックは、建設局が「害虫駆除」とか「殺菌駆除」を意味するために使っている用語をあげるにあたって、Entlausung 、Entwesung、 Desinfektionという単語を上げているが、ドイツ人がこの種の作業を意味するのにもっとも頻繁に使っている単語がVergasung――「gassing」と翻訳されている――であることには触れていない。これは認められないことである。例えば、プレサックも引用しているのだが、ニュルンベルク資料NI-9912――私が最初に公表し、プレサックも私に負っている――は、gassingをDurchgasung、Vergasungで表現している。後者の単語は、第3部の最初のパラグラフに登場しているが、「燻蒸」と英訳されている(18頁、col.D)。プレサック自身が引用している資料では、グリュックス将軍は、チフスの蔓延のために収容所を「gassingするためのgas」について述べている。Gas fuer Vergasung(上記、32頁)である。所長ヘスは、殺菌駆除gassingをVergasungと呼んでいる(see
Part II of this article in the next (Summer) issue of The JHR.)。
私は、読者の便宜を図って、EntlausungとEntwesungをともに同じく、「殺菌駆除」と翻訳してきた。さらに、建設局が使っている用語、アウシュヴィッツの錠前屋が使っている用語では、「害虫駆除」と「殺菌駆除」を区別しないで、相互互換性のもとでこれらの単語を使う傾向があった。
焼却棟UとVでは、プレサックがあえてガス室――死体安置室であるのだが――と呼ぶ区画の換気は、もしチクロンBがそこで使われていたのならば、逆の構造であったし、プレサックもこのことを認めている。チクロンBは青酸であり、青酸ガスは空気よりも軽い。したがって、換気は、床で吸気され、天井で排気されるというように、床から天井の方向でなければならなかった。しかし、実際には、死体安置室と同様に、天井から床の方向であった。プレサックは自説を粉砕してしまうこの変則性を説明しようとしていない。それに気づいているのだが、説明に取り組もうとさえしていない。(注5 自説を粉砕してしまう事態について、かれは3回触れている。「死体安置室1[殺人ガス室]の換気システムは、もともと、新鮮な空気が天井から入り、冷たい汚れた空気が床の近くから排出されるという、死体安置室用に設計されたものであった。これをガス室として使うには、新鮮な空気が床の近くから入り、青酸に汚染された暖かい空気が天井近くから排出されるという逆の構造が必要であった。しかし、SSと[プリュファー技師]は、それでも十分に役立つであろうと期待して、もともとの死体安置室の換気システムのままにしておいた」と、プレサックは、224頁で書いている。さらに、489頁では、「吸気(上部)、排気穴(下部)という設定は、システムが、ガス室ではなく、地下死体安置室用に設計されていたことを証明している。ガス室の場合には、暖かい汚染された空気の排出は上部になくてはならないからである」と書いている)。
14個のシャワーヘッドとガス気密ドア
プレサックが自慢している発見は、焼却棟Vの14個のシャワーヘッド(Brausen)とガス気密ドア(gasdichte Tur)である。本当のことを言えば、それは、プレサックが、殺人ガス室の実在を「間接的に」(430頁)証明していると述べる以前に、「決定的」(430頁)証拠として提示している唯一のものである。
わが発見者は、熱狂に駆られて430頁に次のように記している。
「[この]資料は、…焼却棟Vの死体安置室1に殺人ガス室が実在した決定的証拠である。」
1986年、VSD誌は、「うその歴史家たち」"Les historiens du
mensonge" (["The Historians of the
Lie"], May 29, p. 37)との題で、セルジュ・クラルスフェルトとの対談を掲載した。そこで、クラルスフェルトは、それまでは、ガス室の実在の「物質的証拠を誰も編集しようとはしなかった」ことを認めている。そして、「なぜ、本物の証拠がなかったのか」という質問に、こう答えている。
「フォーリソン一派を困惑させるような証拠の断片は存在したが、それらはまだ彼らを黙らせてはいない。とくに、1943年の二つの書簡があり、それはヴェレールによって分析されている。ひとつはガス地下室に、もうひとつは、焼却棟に設置される3個のガス気密ドアに触れている。」
クラルスフェルトは、「プレサックによるアウシュヴィッツ・ビルケナウに関する金字塔的な本を」出版しようとしていると語り、プレサックは「証拠の中の証拠」を発見したと付け加えている。
「彼は全部で37の証拠を発見した。そのうちの一つは、ビルケナウの[焼却棟V]に殺人ガス室が実在した決定的証拠である。」
この対談には、以下のような資料が掲載され、それが「反駁できない証拠」とされている。
「アウシュヴィッツ所長の署名のある[焼却棟V]の受領書には、最後の二列の上に、14個のシャワーヘッドと1個のガス気密ドアとある。」
クラルスフェルトは、ガス気密ドアと14個のシャワーヘッドに触れている資料を「決定的」あるいは「反駁できない」証拠とみなしているのである。
そして、彼はコメントを加えている。
「論理的に考えれば、もしこれがシャワー室であるならば、なぜガス気密ドアがあるのであろうか?」
論理は完全である
論理は確かに完全でないわけではない。明らかに、ここで、クラルスフェルトは、プレサックのレトリック技術、すなわち、preterition(さらに、尋問というかたちで)を使っている。
私は回答権を行使して、雑誌に文章を送ったが、掲載を拒否された。
第一に、この対談は実際には告白である。その中で、クラルスフェルトは、これまで、誰も物質的証拠を集めようとしなかったことを認めている。プレサックも同じころ、「今まで、証言、証言だけしかなかった」(_Le Matin de Paris_, May 24-25, 1986, p.
3)と述べている。換言すると、ドイツに対するおそろしい攻撃、虐殺非難は、本当の証拠をまったく持たずに、たんに「証拠の断片」あるいは「証言」だけを持って、当時まで、世界中に広まっていたのである。凶器が専門家の検証の対象とされたことはまったくなかった。
回答権を行使して提出した私の文章は、ガス気密ドアは普通のものであり、例えば、戦前や戦時中には、防空シェルターの機能を果たす場所にはガス気密ドアを装備することが義務付けられていたと指摘した。さらに、ガス気密ドアは、ガスマスクと同様に、殺人ガス処刑を意味してはいないと論じた。
セルジュ・クラルスフェルトは、私が彼の対談をエリー・ヴィーゼルについての論文("Un grand faux temoin: Elie Wiesel" [A Prominent
False Witness: Elie Wiesel],
Annales d'Histoire
Révisionniste, no. 4, 1988, p. 163-168 [published
as a leaflet by IHR, blundered by publishing a letter in Le Monde Juif (January-March 1987, p. 1)に引用したことに当惑し、この対談は特定の点で「誤って編集されている」と述べた。しかし、肯定と同じような否定があることがあるが、クラルスフェルトの場合もそうである。彼は、誤りのつじつまを合わせようとして、次のように書かざるを得なかったからである。
「1945年以降、ガス室の実在が証明されなくてはならないものであると考えた人は誰もいなかったので、ガス室の技術的側面の研究はネグレクトされてきたことは明らかである。」
プレサックは、おそらく謄写版でコピーされた多くの資料を目の前に置いた。建物のさまざまな部分(部屋、エレベーター、廊下、トイレその他)のリストの頁を見る。そして、さまざまな装備品(電灯、シャンデリア、炉、電気のプラグその他)の項目を眺める。水平方向のリスト、垂直方向のリストは、その他の項目のためのスペースをあけている。問題となっているのは、焼却棟V、とくに死体安置室1と2である。殺人ガス室とされている死体安置室1には、12個の電灯、2個の蛇口、14個のシャワーヘッド、(インクの手書きで)1個のガス気密ドアという項目があった。脱衣室とされている死体安置室2には、22個の電灯と5個の蛇口が記されている。
プレサックは、同じ部屋(死体安置室の一部)に14個のシャワーヘッドと1個のガス気密ドアが並んでいることから、これは、偽のシャワーヘッドを備えた殺人ガス室であると断定する。彼は、驚くべき想像を交えながら、これらのシャワーヘッドが「木かその他の資材で作られており、ペンキを塗られていた」(429および16頁)と述べている。
その理由付けは支離滅裂であり、プレサックは、その理由を次のように表現している。
「…ガス気密ドアは、ガス室[殺人ガス室を示唆している]だけに限られる。…なぜ[殺人]ガス室がシャワーを持っているのであろうか。」
この理由付けは、無害なものは除いて、大きな誤りである。前述したように、ガス気密ドアは、例えば、焼却棟のように、炉が高温で稼動し、発火、爆発、ガス漏れを起こす危険が伴うような場所には、どこにでも存在する。防空シェルター、殺菌駆除ガス室、死体安置室などにもあるかもしれない。さらに、焼却棟Vは、すべての部屋に、あるいは死体安置室1の一部の中に、シャワーあるいは洗浄室を備えていた(焼却棟はすべて死体洗浄の部屋を備えていた)。さらに、別のパラグラフの中で、プレサックは、建設局長ビショフは、1943年5月15日、焼却棟建設の専門家であるトップフ社に、「焼却棟Vの廃棄物焼却機が扱う水を使用する100個のシャワーの図面を作成するように要請した」と書いている(234頁)。また、地上の図面は詳しいので、それを見ると、地上にはシャワー室があったことがわかる。一方、地下の図面は詳しくないので、死体安置室1と2の大雑把な配置をだけをしめしている。
しかし、プレサックは自分の議論の脆弱さを気づいているのであろう。彼は、熱狂が収まると、9頁のちに、同じ資料について、次のように記しているからである。
「この資料は、焼却棟Vの死体安置室1に殺人ガス室が実在したことを、間接的に[強調はフォーリソン]に証明する現存する唯一の資料である。」(439頁)
結局のところ、最初は、「本質的」(429頁)とか「決定的」(430頁)とされていた唯一の本当の証拠、この証拠が、間接的証拠となってしまっているのである。ヴェレール自身も、もっとも汚れた証拠を受け入れようとしていたにもかかわらず、1987年以来、前年にVSDに公表された資料の価値について、まったく懐疑的であることを認めている。彼はミッシェル・ファルコに次のように語っている。
「シャワーヘッドの話について言えば、これは、いわゆる証拠ではないでしょう。」(Zéro, interview, May 1987, p. 73)
焼却棟UとVの完全な発掘調査を拒むか、建築技師デヤコとエルトルが1972年のウィーンでの裁判で行なった、これらの場所の機能についての説明の公表を拒む限り、問題は推測に過ぎないのである。
4個の「投入装置」
プレサックは、死体安置室2用の4個の「針金網投入装置」と4個の「木製カバー」という別の装備品目録を発見したとき、彼は、この装備品目録は誤りであり、死体安置室1用のものであるという仮説を立てた(232、430頁)。彼の仮説には根拠がないわけではない。それは、死体安置室1の屋根に4つの開口部が存在することを写している航空写真にもとづいているからである。しかし、彼は、仮設を確定しているものとし、木製カバーが死体安置室1のものであるとしているが(431頁)、これは誤りである。もし、これらの装置が、チクロンBの丸薬をいわゆるガス室の床にばら撒くために使われたとしたならば、犠牲者の群れの圧力からどのように守られたのであろうか、ガスは部屋にどのように広がったのであろうか。殺菌駆除では、丸薬は山積みされたり、束で投入されたりするのではなく、ガスが床から天井まで妨害されずに上昇することができるために、ばら撒かれたのである。ガスの投入ののちに、通常は強力なフィルターのついたガスマスクをつけた人物が、長い換気ののちに、入って、何も残さないように細心の注意を支払いながら、危険な丸薬を回収した。さらに、1988年のトロントのツンデル裁判で、修正主義者が、ブルギオニとポイリエルの本に掲載されている1944年8月25日の航空偵察写真に、4つの明瞭な開口部が写っているとしたならば、ブルギオニとポイリエルが公表していない1944年9月13日の航空写真「6V2」には、奇妙なことに写っていないことを明らかにすることができたが、プレサックは、この事実を無視しているようである。それらは、パッチなのか。レタッチなのか。変色なのか。この件については、ケネス・ウィルソンの専門家証言を参照していただきたい(Robert Lenski, The Holocaust on Trial,
Decatur, Alabama, Reporter Press, 1990, p. 356-360, with a photograph of the
expert at work, p. 361)。死体安置室1の屋根は厚いコンクリートブロックであり、その外側も、内側も今日検証することができるが、このミステリーのような開口部の痕跡はひとつもない。支柱は全体がコンクリートであり、空洞ではない。結論を言えば、この装備品目録がこれらの「装置」や「カバー」が死体安置室2に属していることを示しているとすれば、プレサックが431頁の「要約」図面の中で行なっているように、それを勝手に死体安置室1に移してしまうのは、不誠実である。
Vergasungskeller
プレサックは、アウシュヴィッツ建設局がベルリンの当局にあてた普通の書簡(資料NO-4473)に登場する単語Vergasungskellerにもとづいた、使い古されたの議論を、ためらうことなく利用している。1943年1月29日のこの書簡には、何も秘密なこともなく、「極秘」というスタンプも押されていない。それは、あらゆる困難にもかかわらず、とくに、凍結にもかかわらず、焼却棟Uの建設がほぼ完了したこと(実際に焼却棟が稼動を開始したのは2ヵ月後であるが)を伝えている。この書簡はとくに、凍結のために、死体安置室(番号は特定されていない)の天井から型枠作業を取り除くことがまだできていないが、Vergasungskellerが臨時の死体安置室として利用できるために、これは深刻な問題ではないことを伝えている(211-217頁、432頁)。プレサックにとっては、この書簡にVergasungskellerという単語が使われていることが、「大失策(ママ)」(217頁)であり、殺人ガス「地下室」が実在し、それは死体安置室1に違いないことを示しているというのである。
Vergasungという単語は、ドイツ語の技術用語では、ガス化現象(注6 1907年の焼却棟の技術研究Handbuch der
Architektur (Heft III: Bestattungsanlagen),
Stuttgart, Alfred Korner Verlag,1907の"die Vergasung der
Koks(石炭のガス化)" (p. 239)参照。この研究書には、死体安置地下室、死体安置室、殺菌室、衛生規則、換気、殺菌駆除、とくに汚染した死体を扱う場合の注意(特別な換気と低温の分離された部屋)、シャワー、医師の事務所、洗浄室、焼却時間に関する多くの情報がある。すべてを検討すれば、焼却棟UとVがたんに、古典的な焼却棟であることが判る)、気化、殺菌駆除ガス化(英語では「燻蒸」と訳される、50頁参照)を指す標準的な単語であるので、書簡を発したアウシュヴィッツの作者と、受け取ったベルリンの人物が、ここでは殺人ガス室が問題となっていると、初めて、そして、最後に、同様にして相互理解に達したのか知ることができない。もしも、プレサックが、別の資料に依拠して、問題の死体安置室が死体安置室2ではないと述べたことが正しいとすれば、これを死体安置室1(殺人ガス室)であると違いないと述べることは誤っている。彼は、それが3つの部屋を持つ死体安置室3であるかもしれないという仮説さえも検証していない。
自分を彼の仮説の枠内におくために、Vergasungという単語を「ガス化」という意味で受け取るとすれば、プレサックは、殺人ガス処刑という結論に飛びつく前に、この単語が殺菌駆除ガス化を指しているかもしれない可能性を考えておかなくてはならない。(自分を彼の仮説の枠内におくながら)、プレサックは、ユダヤ人靴工タウバーの証言を重視しているのだから、彼の証言では、そして、プレサック自身もそのように読んでいるのだが、チクロンBの缶が死体安置室3の部屋に保管されていたことを思い起こすべきである。プレサックによれば、タウバーが述べている部屋は、現存の図面では、"Goldarb[eit]と記されている部屋のことであった。おそらく、彼は、この部屋は、金歯を溶かすために使われる前には(注7 プレサックは、このやり方(戦時中には、非鉄金属の「回収」はどこでも一般的だった)に関して、「たとえ、いやなこととみなされていたけれども、死体からの金の回収はどこでも行なわれていた」(294頁)と述べているが、これは正しい。医学生であったプレサックは、これが特殊SSだけの活動ではないことを知っているのである)、チクロンの缶の保管室であったと考えているが(483頁、485頁の図版、8参照)、死体安置室3の別の部屋であったのかもしれない。確実なことは、ガス化(Vergasung)のための資材は、可能であるならば、熱と湿気から守られ、よく換気され、密閉された場所に保管されたことである。すなわち、地下室が望ましいのである。
プレサックの注の枠内ではいつもそうであるのだが、別な形で表現すれば、1943年1月29日の書簡は、死体安置室を使うことができないが、死体を、ガス化資材のための保管室に置くことができるかもしれないということを意味しているのかもしれない。すなわち、「ガス化[資材]のための地下室」であるVergasungskellerに(Vorratskellerが「食料地下室」を意味するように)。
他方において、もし、Vergasungskellerを殺人ガス室とするならば、もし、この地下室が死体安置室1であるとするならば、そして、もし、ドイツ人が、これを臨時の死体安置室にしようとしていたとすれば、犠牲者はどこでガス処刑されたのであろうか。死体安置室1は同時に、ガス室であり、死体安置室であることはできないからである。
503頁と505頁を見ると、プレサックは、私が、死体安置室1について、3つの異なった解釈を出してきたと信じているようである。すなわち、最初は、気化室、次に、死体安置室、最後に、殺菌駆除ガス室と解釈してきたというのである。まったく違う。最初のケースでは、私が想定しているのは、Vergasungという単語を「ガス化」あるいは「気化」として解釈したバッツの説であるが、私もバッツも、炉室に近くなければならないはずであり、独立した部屋ではないはずであるこのVergasungskellerを炉からはるかに離れた場所には想定していなかった。第二のケースでは、私はヴィダル・ナケに、死体安置室は死体安置室をあるいは冷たい部屋を意味していることを思い起こさせ、「死体安置室は殺菌駆除されなくてはならない」と述べたのである(Réponse à
Pierre Vidal-Naquet, op. cit., p. 35)。そして、チクロンBは青酸を使った殺虫剤であるので、化学的分析がシアン化合物の痕跡を明らかにするであろうと付け加えた。死体、とくにチフスの支社の死体を保管する部屋は、殺菌駆除されなくてはならない(ここで私が使っているのは、殺菌駆除プロパーの、害虫の燻蒸という意味で、disinfestationに対して殺菌駆除という単語を使っているのである)。
ヒルバーグは、この資料NO-4473について触れており、ドイツ語で3つの抜粋を引用しているが、Vergasungskellerという単語を掲載するのを避けている(The Destruction of the European Jews, op. cit., p. 885)。想像するに、ドイツ語に堪能な彼は、もしも、ドイツ人がガス室に触れたいとすれば、Vergasungskellerではなく、GaskammerやGaskellerを使うであろうし、Vergasungkellerを「ガス室」と訳すことは誠実ならばできないことを知っていたのではないだろうか。さらに、プレサックは、自分の本の最後のほうで、Vergasungskeller資料が、「ビルケナウの焼却棟Uの地下に殺人ガス室が実在した絶対的証拠ではない」(505頁)と書くまでに譲歩している。
4個のガス気密ドア
447頁に「犯罪の痕跡」22として、プレサックは、焼却棟Wの4個のガス気密ドアに触れている資料を引用している。この場合には、明確ではない理由から、プレサックは、この資料は、殺人ガス室が実在した「決定的」証拠とはならないと判断している。このようなことを認めてしまえば、焼却棟Vの装備品目録に1個のガス気密ドアがあることをあたかも決定的証拠としていた(上記の「14個のシャワーとガス気密ドア」、第一級の、本質的「犯罪の痕跡」の価値を大きく減じることになる。
ガス室の鍵
456頁で、彼は「ガス室の鍵」を扱った資料を33番目の「犯罪の痕跡」としている。しかし、いささか困惑しているようである。その困惑は理解できることである。ガス気密ドアがついているガス室のドアに鍵穴があることが想像できるであろうか。彼は、これが、「われわれの現在の知識では理解できないことである」と記している。しかし、それでは、なぜ、この資料が「犯罪の痕跡」なのであろうか。鍵は、チクロンBの缶が保管されていた部屋の鍵であったに違いない。
ガス室ののぞき穴
456頁で、彼は、34番目の「犯罪の痕跡」は、何と信じられようと、その種のものではないと告白している。問題となっているのは「ガス室用ののぞき穴を持った、枠付の気密ドアの装備品」の注文書である。1980年、LICARA(人種差別主義と反ユダヤ主義に反対する国際連盟)による私に対する告発の審理のあいだ、LICRAその他は殺人ガス室が実在した証拠としてこの資料を提出した。しかし、プレサックは。私がすでに、Réponse à Pierre
Vidal-Naquet (op. cit., p. 80)の中で指摘したように、問題の資料は殺菌駆除ガス室に関する注文書であることを認めているのである。
他の偽の発見
「犯罪の痕跡」33と34はプレサックの39の「犯罪の痕跡」のリストにあげられるべきものではない。彼は、33は「われわれの現在の知識では理解し得ないもの」であるとしているし、34はプレサックも認めているように、殺人ガス室ではなく、殺菌駆除ガス室の実在を証明しているものである。
プレサックが432頁にまとめている10個のガス検知器はすでに、371頁で検証されてきたが、そこで、プレサックは、焼却炉の製造元のトップフ社が一酸化炭素と二酸化炭素の検知器を供給していたことを明らかにしている。しかし、この会社は、「ガス検知器」の注文を受け取って、テレパシーを使って、この場合には、HCNの検知器を供給すべきなのであり、それは自分たちが製造していないものであると理解することができたとわれわれに納得させようとしているのであろうか。
223頁と432頁で、プレサックは、1943年3月6日の資料は、焼却棟Uと焼却棟Vの死体安置室1と2が「前もって暖められなくてはならない」ことを示している資料であるとしている。プレサックは勝ち誇っている。なぜ死体安置室を前もって暖めなくてはならないのか。前もって暖めなければならないのは、…殺人ガス室であると示唆しているのである。しかし、19日後、正確に言えば、1943年3月25日、当局は、このようなこと、前もって暖めることはできないことを学んだのである。
302頁で、プレサックは、死体滑降路が階段と取り替えられたことを読者に指摘しているが、本の末尾では、これを「39の犯罪の痕跡」に入れることをあきらめている。
彼はデヤコ・エルトル裁判(1972年)の教訓を熟慮すべきである
私は、機会あるごとに、本当の「アウシュヴィッツ裁判」は、フランクフルトの「アウシュヴィッツの看守」裁判(1963−1965年)ではなく、1972年のウィーンでの裁判であると語ってきた。それは、アウシュヴィッツの、とくにビルケナウの焼却棟の建設に責任を負った二人の人物、建築技師のデヤコとエルトルの裁判である。二人は無罪となった。
もしも、プレサックが提示しているわずかばかりの断片(彼も認めているように、当時すでに知られていた)が、殺人ガス室の実在を証明することができるとしたら、この裁判はファンファーレを奏でながら進行し、二人に被告は、厳罰に処されたであろう。この裁判は、長期にわたり、細部にわたっていた。サイモン・ヴィーゼンタール・センターも当初はけたたましく報道していた。しかし、この裁判は、プレサックも認めているように、検事側の指名した専門家は、二人の被告を追及することに失敗した、専門家が「事実上敗北を認めた」(303頁)ことを明らかにした。1978年7月、私はエルトル(デヤコはその年の1月に死んでいた)を訪ねた。彼ならば、私がアウシュヴィッツ博物館で発見した焼却棟の図面に関する諸点を明らかにすることができるだろうと期待していた。この老人は、新たな難儀が始まったと思って困惑した。彼は、わずかでも情報を提供することを頑迷に拒んだが、自分はアウシュヴィッツでもビルケナウでも殺人ガス室を見たことはないと話してくれた。
デヤコ・エルトル裁判の予備審問資料および裁判記録にアクセスできるとしたら、どんなに良いであろうか。ここには、ビルケナウの焼却棟の建築構造、その内部配置、その目的、最後に、その可能な改築について詳しい答えがあるであろう。1968年にロイッテ(チロル)で予備審問が始まったデヤコ・エルトル裁判は、忘れ去られてしまっているが、それははじめて、アウシュヴィッツのガス室の実在について証明しようとするものであった。とくに注目すべきは、ソ連が実際に、貴重な資料を整えるにあたって役割を果たしたことである。ワルシャワ(ポーランドにおけるドイツの犯罪調査委員会)とアウシュヴィッツ(アウシュヴィッツ博物館文書館)を媒介として、モスクワとウィーンとのあいだに直接の接触があったことである(71頁)。サイモン・ヴィーゼンタールの呼びかけで、世界中のユダヤ人共同体から役人が集まり、努力を惜しまなかった。二人の不運な建築技師は、自分に敵対する膨大な勢力と直面した。さらに付け加えておかなければならないことは、二人は、自分たちが建てた施設の中では殺人ガス処刑は化学的にも物理的にも不可能であることを知らなかったので、彼らの言い訳が、建物の建設は完全に正常であったが、ドイツ人が犯罪を犯すためにこれらを使用したことはありうるというものであったことである。デヤコは、「大きな部屋ならば、どれでもガス室となりうる。この法廷でさえも」とまで述べてしまった。デヤコは大きな誤りを犯した。殺人ガス室は、複雑な技術と特別な装置を必要とする小さな部屋でしかありえなかったからである。しかし、誰もがこの誤りに気がつかなかった。ガス処刑の唯一のユダヤ人「目撃者」、有名なドラゴンが証人席で「気を失い」、これ以上証言できなかったのは、この法廷(1972年1月18日―3月10日)であった。プレサックも、ドラゴンが「完全に混乱していた」(172頁)ことを認めている。
ザクセンハウゼンの死体安置室を訪問しておくべきである
プレサックは、ビルケナウのいくつかの死体安置室について考察するために、ザクセンハウゼン強制収容所の死体安置室を訪問しておくべきである。それは現存しており、1940年、1941年に改良されたので、この種の建物の標準モデルである。地上には、検死室、医師の事務所などがあり、地下には約230uの三つの部屋がある。それらは200の死体を収容できる。各部屋にはそれぞれの機能がある。一つは80の死体を脱衣し、保管する。次は100を保管する。三番目は、20の汚染された死体用である。ザクセンハウゼンの焼却棟に殺人ガス室があったとはいわれていない。プレサックは、冷たくなくてはならない死体安置室が、暖房設備、湿気装置、汚染死体を隔離する特別システム(排水溝が直接下水システムにいかないようにする)、ビルケナウの焼却棟UとVのシューターに類似したシューター、死体を運搬するエレベーターを運転する作業員用の階段を持っていたことを即座に知るに違いない。最後に、ザクセンハウゼンでは、死体安置室という単語自体が、一般的であり、地上地下も含めて、建物全体を指して使われていた。この用語法だけでも、それを念頭に置けば、明らかに地下室を言及している発送状、作業表、記録が実際には地上のものを指している場合があることに用心しなくてはならない。例えば、ザクセンハウゼンでは、よく照明された検死室あるいは医師の事務所は、ともに地上にあるのであるが、死体安置室に属するものとして記述されている。
コブレンツの文書館で仕事をしておくべきである
プレサックは、コブレンツのドイツ連邦文書館で、ザクセンハウゼンの死体安置室の1940年の改築に関係する資料集NS-3/377を、私がしたように、発見できたに違いない。土台、地下、地上の三つの図面が芸術家によって書かれたに違いない。そこには、供給された資材とその費用に関する90頁の文書もある。プレサックは、この文書の中で、自分がアウシュヴィッツの作業場の記録の中に発見したとき、犯罪的な意味を不正確にも与えてしまった単語の実際の意味を知ることであろう。ところで、私は、ポーランドの検察が注意深く選別した記録からの抜粋を持っている。ここから、ドイツ人と収容者は規律のもとで、ちょっとした命令を出したり、仕事をする場合にも、綿密であることを知るであろう。殺菌駆除ガス室にも再三触れられている。
ベルリンの死体安置室を訪れておくべきである
プレサックは、自著の中では、ガス室よりも焼却棟や炉について多く触れているが、一度に500体を引き受けることのできる現代の死体安置室を検証するために、ベルリンのシャルロッテンブルクのルーエレベン焼却棟を訪問しておくべきであろう(see Hans-Kurt Boehlke, Friedshofsbauten, Munich, Callwey
Verlag, 1974, p. 117, which shows a plan of the
above)。
シュトゥットホフ・ダンツィヒの事例を考察しておくべきである
プレサックは本の末尾(539-541頁)で、小さな煉瓦の建物に関心を向けている。それは、シュトゥットホフ・ダンツィヒ(アルサスのシュトゥットホフ・ナチヴァイラーと混同すべきではない)収容所にあり、外付けのストーブがあるように、明らかに殺菌駆除ガス室であるもかかわらず、「ホロコースト」文献では、殺人ガス室とされてきたものである。プレサックの議論は一貫していない。彼は、ストーブの存在を考えると、建物は囚人の持ち物の害虫駆除をするためのガス室であると述べており(539頁)、これは正しい。しかし、突然、何の証拠も提示することなく、1944年6月22日から(驚嘆すべき正確さである)11月初頭まで、この建物は、約100名の処刑者のための殺人ガス室として使われたと述べている。最後に、次の頁では(540頁)、プレサックは心を変えて、「凶器」の科学的検証はまったくなされなかったと結論する。そして、このために、この部屋がどのようにして害虫駆除室として機能したのかわからないし、犯罪的使用の物質的証拠を提供できないと結論するのである。
だから、プレサックには、数行前で、殺人ガス処刑で誰かを非難する権利がないのである。さらに、ダンツィヒ近くのこの収容所に、アウシュヴィッツに有効なことが当てはまる。だから、凶器を専門家の検証にゆだねることなく、ドイツ人が凶器を使用したと告発することは認められないのである。
凶器についての専門的報告もなく、本当の発掘調査もない
1988年まで、アウシュヴィッツとビルケナウのガス室にはまったく専門的報告がなかった。1988年4月になってはじめて、アメリカの刑務所の処刑ガス室の専門家ロイヒターが、「アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクのいわゆる処刑ガス室」に関する193頁の報告書を発表した。カナダのトロントのドイツ系住民エルンスト・ツンデルは、ロイヒターを雇って、これらのガス室を検証させ、そこからのサンプルを集めさせた。その結果は、驚くべきものであった。これらの収容所には殺人ガス室はまったく存在しなかった。ビルケナウのガス室――今日の収容所当局がチクロンBを使って殺菌駆除したと公式に認めているところ――から採取されたサンプルだけが、かなりの量のシアン化合物の痕跡を含んでいた。さらに、この部屋には青いしみがついており、それは、青酸を含むガスが過去に使われたことを示している。
ヴィダル・ナケは1980年に、専門的報告が、「ビルケナウ[焼却棟U]のガス室換気穴、25sの女性の髪、髪の中に発見された金属物体に対して行なわれた」(re-edited in Les Juifs, la mémoire et le présent, Maspero, p. 222, n. 41)と述べた。これに対して私は次のように回答した。
「私は、調査判事ヤン・ゼーンが命令し、クラクフのコペルニクス通りにある研究所が実施した専門的報告のことを知っている。これは、この建物がガス室であったことを特定した報告ではない。」(Réponse à
Pierre Vidal-Naquet, op. cit., p. 35)
ここでは、換気穴、毛髪、その他の物品に青酸ガスの痕跡が存在することを説明しようとは思わない。セルジュ・クラルスフェルトは、この専門的報告の存在を知っていたが、その限界もよく知っていた。1986年のインタビュー(前述50−51頁)で、彼は、当時まで、本当の証拠が公表されてこなかったことを認めているからである。しかし、プレサックは、1945年の専門的報告を本当の証拠となるものとしてるが、ヴィダル・ナケの見解とは隔たっている。焼却棟Tの死体安置室1の鍍金板として記述されている金属物体からのスクラップが分析され、シアン化合物の存在を示しているこの分析は、質的(プレサック自身の強調――233頁)なものにすぎず、証拠となるには、分析は質的かつ量的なものにならなくてはならない、とプレサックは指摘しているからである。
プレサックは、「ユダヤ人との和解」「後悔」のためのドイツ協会が、1968年に、焼却棟Uの「ガス室」の廃墟の発掘調査を始めたことがあったことを伝えている。しかし、奇妙なことに、この発掘はすぐに中止された。1987年、私は、フランス人ジャーナリストのミッシェル・フォルコから新事実を入手した、プレサックと一緒にアウシュヴィッツを訪問したとき、フォルコとプレサックは、アウシュヴィッツ文書館長タデウシ・イヴァシコ――私は1976年に彼と個人的に知り合った――と出会った。フォルコは彼に、ポーランド人が、修正主義者を黙らせることができるような発掘調査と専門的検証を行なう決定をなぜしないのかと尋ねた。イヴァシコの回答は、もし、犯罪の証拠が発見されなければ、ユダヤ人はポーランド人がそれを隠したと非難するであろうというものであった。プレサックは、発掘にはまったく価値がない、その結果が何であれ、ポーランド人が現場を「いじった」と非難されるからである、とイヴァシコが語ってくれたと記している(545頁)。
これが告発者の悩みの種である。彼らは、発掘調査と分析を恐れているのである。一方、修正主義者は危険をおかしてこのような調査を実行してきた。その結果が、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクには殺人ガス室はなかったことを証明するロイヒター報告であった ("The Leuchter Report: The How and
the Why," The Journal of Historical Review, Summer 1989, p.
133-139)。