試訳:アウシュヴィッツでの死亡者は何名か?
ロベール・フォーリソン
1995年12月10日
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2003年9月7日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Robert Faurisson, How many deaths at Auschwitz?を試訳したものである。 (online: http://www.corax.org/revisionism/misc/auschwitz_deaths.html |
<900万人>
ドキュメンタリー映画『夜と霧』による。その歴史学上の助言者は歴史家Henri
Michelと女性歴史家Olga Wormser-Migotである(注1)。
注1:32分のモノクロ映画『夜と霧』は、過去40年間にわたって飽きることなく、フランスの大学、フランスの高校・中学、フランスのテレビで上映されている。監督:Alain Resnais。歴史学上の助言者:Henri Michel(第二次大戦史委員会議長)、Olga Wormser-Migot。テキスト:Jean Cayrol。1956年、Jean Vigo Award。この映画の中では、「ガス室(単数)は普通の建物と何も変わらない」とナレーションがある。「ガス室」のコンクリートの天井には、「指の爪で削られた」痕跡が示され、「コンクリートでさえも削られる」と続く。死体を使って、「石鹸製造が試みられた」とあり、死体の「皮膚については」、ドイツ人がそれをなめしているイメージが提示される。削られたコンクリート、人間石鹸、ドイツ人がなめす皮は神話の定番である。ビルケナウの風景を写しながら、「900万人の死者がこの風景の上に出現する」とのナレーションが続く。この文章は、映画の終わりに登場する。
<800万人>
フランス戦争犯罪調査局とフランス戦争犯罪情報サービスによる(注2)。
注2:Jacques Billiet、戦争犯罪情報サービス所長、戦争史・強制収容所用の資料、公式フランス語版、1945年、7頁(J. Billiet自身)および196頁(戦争犯罪調査局報告集;この報告集は、ドイツと占領地域のすべての収容所で死亡した戦争捕虜および政治囚の数を2600万と見積もっている、197頁)。この著作は、Eugene Aroneanuによって書かれた。
<700万人>
Raphaël Feigelson (1945)による(注3)。
注3:Ibidem, p. 196.
<600万人>
Miklos Nyiszli (1951)の序文の筆者Tibère Kremerによる(注4)。
注4:「600万人が、アウシュヴィッツの煙突とかまどを通っていった。彼らの近い先祖、遠い先祖の一人がイスラエルの宗教を信仰していたからである」とMiklos Nyiszli博士の『SS上級集団長メンゲレ博士/アウシュヴィッツの焼却棟に移送された医師の日記』の序文でTibère Kremerが書いている。Les Temps modernes, March 1951, p. 1655.
<500万から550万人>
Bernard Czardybon
(1945)による、何名かのSS隊員の自白による、『ル・モンド』紙による――「そのうち90%がユダヤ人であった」と付け加えている――(注5)。
注5:クラクフでのヘス裁判でのBernard Czardybon、F.
Piper, op. cit., 1992, p. 7-8.より。「アウシュヴィッツでは、500万以上の男性、女性、子供が死亡したが、そのうち90%がユダヤ人であった」(無名のユダヤ人殉教者記念碑の前で行なわれたパリの記念デモンストレーションにて)(『ル・モンド』、1978年4月20日)。
<450万人>
Henryk Mandelbaum (1945)による(注6)。
注6:クラクフでのヘス裁判でのHenryk Mandelbaum、F. Piper, op. cit.,
1992, p. 7.より。
<400万人>
ニュルンベルク裁判が「法廷に顕著な事実」としたソ連側資料による。この数字は、アウシュヴィッツ・ビルケナウの記念碑に、注釈とともに、非常に多くの言語で、19回刻まれている。この数字は、ポーランド人歴史家Franciszek Piperを含む、多くの人々によって繰り返されてきた。しかし、この数字は、1990年に虚偽であるとされ、同じF. Piperの同意を得て、記念碑の数字は1995年に150万人と置き換えられた。F. Piperは、この数字は最大限で、最小限は110万としている。Miriam Novitch
(1967)によると、400万の死者のうち270万がユダヤ人であるという。ラビのMoshe Weiss (1991)によると、400万以上がアウシュヴィッツで死亡し、そのうち300万人がユダヤ人であった。(注7)
注7:1945年から1990年まで、この400万にという数字は、まるで法律で支えられているかのように、押し付けられてきた。その起源は1945年5月6日のソ連側資料である。ニュルンベルク裁判は、法廷憲章21条にしたがって、この資料を「法廷に顕著な事実」とした。この資料は、the
official proceedings and documents of the Trial of the Major War Criminals
before The International Military Tribunal, Nuremberg, 14 November 1945 - 1
October 1946: IMTXXXIX, pp. 241 and 261にある。ロシア語のオリジナルがドイツ語に翻訳され、フランス語版の裁判記録に掲載されているのは、このドイツ語の翻訳である。資料冒頭にあるフランス語の要約は、「ドイツが占領した諸国から連行された400万以上の人々が[アウシュヴィッツ絶滅]収容所で殺され、大半は到着するとすぐにガス処刑された」(p. 241)と述べている。実際には、資料自体は、ドイツ語で「少なくとも400万以上」(p. 261)と述べている。(公式英語版のIMT, XXXIX, p. 241には「ドイツが占領した諸国からの400万以上がアウシュヴィッツで殺され、多くの場合、到着するとすぐにガス処刑された」とある。)この400万という数字、あるいは約400万という数字を繰り返してきた人々は非常に多い。例えば、かつての囚人Shlomo Dragon、Henry Tauber、Erwin
Olszowka、調査団長Jan Sehn、検事Pechalski、工学教授Roman Dawidowski、ポーランド最高法院判事、アメリカ軍事法廷の検事、あらゆる種類の著述家と歴史家、Kazimierz Smolen、Danuta Czech、Franciskek Piperといったアウシュヴィッツ国立博物館の責任者である(F. Piper, op.
cit., 1992, p. 7-8, 12-14)。「アウシュヴィッツの400万の犠牲者のうち、270万がユダヤ人で、130万が非ユダヤ人であった」(Miriam Novitch, La Vérité
sur Treblinka 『トレブリンカの真実』,
Israel, Beth Lohamet, , 1967, p. 39)。「400万以上が[アウシュヴィッツで]殺された、そのうちほぼ300万がユダヤ人であった」(Rabbi Dr. Moshe Weiss, Former Vice President Mizrachi-Hapoel
Hamizrachi, "Yom HaShoah-Holocaust
Remembrance, The Jewish Press, April 5, 1991)。
<350万人>
Dictionnaire de la langue française『フランス語辞典 』published by Hachette (1991)による。Claude Lanzmann (1980)によると、350万人がガス処刑され、そのうち95%がユダヤ人であり、その他多くの死者があった。(注8)
注8:ニュルンベルク裁判の弁護側もやむなく、検事側と同じ立場をとった。たとえば、ザイス・インクヴァルトの弁護人グスタフ・シュタインバウアー博士は、1946年7月17日、「アウシュヴィッツだけで350万人の男性、女性、子供を飲み込んだ」(TMI, XIX, p. 55)(IMT, XIX, p. 48)と述べている。「アウシュヴィッツ:……大絶滅収容所、1940−45年に約350万人のユダヤ人とポーランド人がここで殺された」(Dictionnaire de la langue française, Hachette, 1991, 1430 pp.)。翌年、Hachette出版社はこの数字を100万に減らした(注21参照)。「ビルケナウのガス室で殺された人々の正確な数を1000人単位まで見積もることは不可能である(もっとも信頼できる見積もりは350万あたりである)が、絶滅されたのはユダヤ民族であった。ビルケナウでガス処刑された人々の95%はユダヤ人であった。……多くの(その他の囚人)も命を失った」(Preface of
Claude Lanzmann to Filip Müller, Trois ans
dans une chambre à gaz
d'Auschwitz 『アウシュヴィッツのガス室での3年間』, Pygmalion/Gérard Watelet,
1980, p. 12)。
<300万人>
1943年12月1日まで。アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスの自白による。(注9)
注9:アウシュヴィッツ所長となったのは3名であるが、そのうちの初代所長ルドルフ・ヘスは、1946年4月5日、ニュルンベルクの監獄の中で、アメリカ軍中佐Smith W. Brochart, Jr.のまえで、供述書に署名した。英文の供述書の中で、「私は1943年12月1日までアウシュヴィッツの所長を務め、少なくとも250万人の犠牲者がガス処刑や焼却によって処刑・絶滅され、少なくとも50万人が飢えや疫病で死亡したと推定する。死者の合計は300万人である」(資料PS-3868)と述べている。10日後、アメリカ人の検事補John Harlan Amenは、上記の一節を含む資料PS-3868からの抜粋を法廷で彼に対して読み上げ、「証人、これらはすべて真実ですか」(IMT,
XI, p. 415)と尋ねた。ヘスは、「はい、それは正確です」(TMI, XI, p. 426)、「はい、そうです」(IMT,XI, p. 415:)と答えた。ヘスは拷問を受けていた。1983年になってはじめて、その拷問者の一人(イギリス軍憲兵隊のユダヤ人)の口から、当時の状況と拷問の詳細が明らかとなった(Rupert Butler, Legions of Death, London, Arrow Books, 1983, page of
the Acknowledgements and pp. 234-238)。この点や、ヘスの文とされるテキストにアメリカの検事団が加えた歪曲と詐術、これと関係する問題については、R. Faurisson , "Comment les Britanniques ont obtenu les aveux de Rudolf Höss, commandant d'Auschwitz",
Annales d'histoire révisionniste, spring 1987, pp. 137-152 もしくは "How the British Obtained the Confessions of Rudolf Höss", The Journal of Historical Review, Winter
1986-1987, pp. 389-403を参照していただきたい。最近まで、「ホロコースト」史家の多くは、ヘスをアウシュヴィッツの犯罪(殺人ガス処刑と犠牲者数)の筆頭の目撃証人とみなしていた。1993年、このような歴史家の一人、アメリカ人の教授Christopher
Browningは、フォーリソン論文についての意見をユダヤ系イギリス人ジャーナリストから求められて、ついに、「ヘスはいつもとても弱く、混乱した証人である」と答えた。しかし、この同じ教授は、「修正主義者はこの理由でヘスを利用して、アウシュヴィッツ全体の記憶の信憑性に疑問を呈している」とも述べている(Christopher Hitchens, "Whose History
is it?", Vanity Fair, December 1993, p. 117)。ヘスは、1943年12月1日までの死亡者を、300万以上に見積もっていることもある。
<300万のユダヤ人がガス処刑された>
David Susskind
(1986)ともっとも重要なカリフォルニアのユダヤ系週刊誌Heritage(1993)による。(注10)
注10:「150万のユダヤ人と引用すれば、それは数字を偽っていることになります。アウシュヴィッツ・ビルケナウで絶滅されたのは300万のユダヤ人でした」(David Susskind,
President of the Brussels Jewish secular community center, letter published in
Le Nouvel Observateur, May
30, l986, p. 29)。アウシュヴィッツのカルメル修道会についての編集局論文の中で、カリフォルニア最大のユダヤ系週刊誌Heritageは、「…大量の毒性のチクロンBの丸薬によって、アウシュヴィッツでは300万人のユダヤ人の命が失われた」(June 7, 1993)と述べている。ユダヤ系週刊誌の記者は、もうすでに3年間も、このような数字がまったくの誇張であると世界中のマスコミが伝えているという事実にまったく無関心なのである。
<250万人>
アイヒマン裁判(1961)でのRudolf Vrbaによる。(注11)
注11:「結局、私の見積もりにもとづけば、アウシュヴィッツ強制収容所での最終的な死亡者数は250万人です。」これは、1961年7月16日、ロンドンのイスラエル大使館でRudolf Vrbaがアイヒマン裁判のために宣誓供述した内容である。ヘスがニュルンベルク裁判であげた数字は、1943年12月1日までだけで、すなわち、その後の14ヶ月間を入れないで、300万人である。にもかかわらず、R. Vrbaは、厚顔にも、自分の数字がヘスの数字とあっていると主張している。すなわち、R. Vrbaは「アウシュヴィッツでの死亡者数に関する私の見積もりと、ヘスの見積もりは、たがいに別に、ことなった方法を使っているにもかかわらず、うまく一致している」と付け加えている(Rudolf Vrba and Alan Bestic,
I cannot Forgive, New York, Bantam, 1964, pp. 269-272)。
<200万人(?)から400万人(?)>
歴史家Yehuda Bauer (1982)による。(注12)
注12:歴史家Yehuda Bauer にとっては、アウシュヴィッツの死亡者数の総計は、200万から400万であるようである。1982年、彼は、ガス処刑されたものだけについて、「1942年4月から1944年11月まで、ソ連軍捕虜に加えて、ガスは、2000名のジプシー(1944年)、数百以上のソ連軍捕虜、150万から350万の間のユダヤ人の命を奪った」と記している(A History of the
Holocaust, New York, Franklin Watts, 1982, p. 215)。7年後の1989年には、Y. Bauerは、死亡者(ガス処刑されたものもされなかったものも)の合計を160万と見積もり、そのうち1352980人がユダヤ人であったとしている(注16を参照)。
<200万人から300万人のユダヤ人と数千名の非ユダヤ人が殺された>
関係者のSS隊員Pery Broadの自白による。(注13)
注13:政治部(ゲシュタポと呼ばれた)のメンバーであったSS軍曹Pery Broadは、「200万から300万が[アウシュヴィッツで]殺された! さらに、数千のポーランド人、ロシア人、チェコ人、ユーゴスラビア人などが」と記したとされている("Erinnerungen von Broad", KL
Auschwitz in den Augen der
SS 『ブロードの回想:SSの目から見たアウシュヴィッツ強制収容所』, Verlag des Staatlichen
Auschwitz-Museums, 1973, p. 141)。
<200万人から250万人が殺された>
SS医師Friedrich
Entress 博士(1945)による。(注14)
注14:「1942−43年に収容所の医師であったSS医師Friedrich Entressは、自分の見解では、200万人から300万人がアウシュヴィッツで殺されたと述べている」F. Piper, op. cit., 1992, p. 8)。
<200万人>
歴史家Léon Poliakov (1951)による。歴史家Georges Wellers (1973)による。女性歴史家Lucy Davidowicz (1975)による。(注15)
注15:「慎重に考慮すれば、[アウシュヴィッツでの死者数]200万という数字にたどり着くであろう」(Léon
Poliakov, Bréviaire de la haine『憎悪の収穫』, Calmann-Lévy,
1974 [1951], p. 496)。「…列車から降りたあとでガス室で殺されたユダヤ人の正確な数は、わからないであろう。慎重に見積もれば200万人であろう…」(Georges Wellers,
L'Étoile jaune à l'heure de Vichy / De Drancy à Auschwitz 『ヴィシー時代の黄色い星/ドランシーからアウシュヴィッツまで』,Fayard, 1973, p. 290)。この見積もりは、(1)ユダヤ人、(2)ガス処刑、(3)到着するとすぐにとの観点からの数字であるので、時期と理由のいかんを問わない死亡者の総数は、この著者にとっては200万以上であろう。10年後、同じ著者は、総数を150万人以下と見積もっている(注18参照)。Lucy Davidowiczにとっては、200万人という数字はガス処刑されたユダヤ人の数のようである(The War
against the Jews / 1933-1945, New York, Holt, 1975, pp. 149-149)。
<160万人>
歴史家Yehuda Bauer (1989)による。うち1352980人がユダヤ人であった(注16)(後者の数字はGeorges Wellers, 1983による)。
注16:「アウシュヴィッツでは400万人という犠牲者はありえない。…死者の総数は…160万ぐらいであろう…。ガス処刑によって殺されたユダヤ人の数は1323000名であり、さらに、収容所で29980名が死亡した」(Yehuda Bauer, "Auschwitz and the
Poles / Fighting the distortions", The Jerusalem Post, September 22, 1989,
p.6)。彼は、1983年のG. Wellersの見積もりを参考にしたと述べているが、1471595人という合計(G.Wellersの数字)を160万人に変えてしまっている。1982年の彼自身の見積もりは、注12参照。
<150万人>
Lech Walesaが選択し、1995年にビルケナウの記念碑で、1990年に放棄されていた400万人という数字と差し替えられた数字。(注17)
注17:1990年4月3日まで、アウシュヴィッツ・ビルケナウの記念碑には、「ここで、1940年から1945年までに、400万人の男性、女性、子供がヒトラー一派の虐殺によって拷問を受け、殺された」と刻まれていた。数年間のごまかしののちに作成された新しい碑文は、「ナチスが150万人の男性、女性、子供――その大半はヨーロッパ諸国からのユダヤ人であった――を殺害したこの場所が、人類にとって、絶望と警告の叫びとなるように」というものである(Luc Rosenzweig, "Auschwitz, la Pologne et le génocide"「アウシュヴィッツ、ポーランド、虐殺」, Le Monde, January 27, 1995, p. 1)。
<1471595人>
うち1352980人がユダヤ人であった。歴史家Georges Wellers (1983)による。(注18)
注18:G. Wellers, op. cit., 1993。1973年の同じ著者の見積もり(注15参照)と比較せよ。
<約125万人>
うち、100万人のユダヤ人が殺され、25万以上の非ユダヤ人が死亡した。歴史家Raul Hilbergによる。(注19)
注19:「アウシュヴィッツで…殺された[ユダヤ人の]数は100万人である…。アウシュヴィッツで死亡した非ユダヤ人の数は、登録簿や移送記録にもとづくと、25万以上であろう。大半がポーランド人であった」(Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, New York,
Holmes and Meier, 1985, p. 895)。R. Hilbergにとって、ユダヤ人はいつも「殺され」、非ユダヤ人はたんに「死亡した」となっている。
<110万人から150万人>
歴史家Yisrael Gutman、Michael Berenbaum、Franciszek Piper (1994)による。(注20)
注20:「少なくとも150万人がアウシュヴィッツ・ビルケナウで殺された」(p. 11)。「少なくとも110万人が収容所で殺されるか死亡した。しかし、この数字は最小限の見積もりであるとすると、仮説的な最大限の数字を受け入れるならば、どのような数字となるであろうか。…135万人の[ユダヤ人]と、アウシュヴィッツの犠牲者総数は約150万人である」(pp. 71-72)。11頁からのこの文章は、Yisrael Gutmanの署名のある章「アウシュヴィッツ――概観」に挿入されている図版に登場している。71−72頁からの文章は、Franciszek Piperの署名のある章「犠牲者の数」に登場している(Yisrael Gutman
and Michael Berenbaum, Anatomy of the Auschwitz death
Camp, op. cit., 1994)。以前、F. Piperにとっては、アウシュヴィッツの死亡者数は400万人であった(注7参照)。
<100万人>
Jean-Claude Pressac
(1989)による。Dictionnaire des noms propres
published by Hachette (1992)による。(注21)
注21:「400万人の犠牲者という数字は今では『情緒的』とみなされており、実際には100万ほどとすべきである」(Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique
and Operation of the Gas Chambers, New York, Beate Klarsfeld Foundation, 1989, p. 264)。「アウシュヴィッツ…1940−45年に約100万人のユダヤ人とポーランド人がここで殺された」(Le Dictionnaire des noms
propres, Hachette, 1992)。J.-C.
Pressacの1993年の見積もりは注23、1994年の見積もりは注24参照。Hachetteが1991年に出版した辞典の見積もりは注8参照。
<80万人から90万人>
歴史家Gerald Reitlinger
(1953)による。(注22)
注22:「80万から90万の人間が、アウシュヴィッツ、そのガス室、その収容所で殺されたというまったく逃れられない事実」(Gerald Reitlinger, The Final Solution,
London, Sphere Books, 1971 [1953], p. 500)。
<77.5万人から90万人>
Jean-Claude Pressac(1993)による。そのうち63万人がガス処刑されたユダヤ人であった。(注23)
注23:「死者の総数:77.5万人。しかしこの数字には誤差がある。だから、80万人の犠牲者という概数が今日でも維持されるべきである」(Jean-Claude Pressac, Les Crématoires d'Auschwitz / La Machinerie du meurtre
de masse 『アウシュヴィッツの焼却棟/大量殺戮装置』, éditions
du CNRS [Centre national de la recherche
scientifique], 1993, p. 148。J.
Pressacの1989年の見積もりについては注21を、1994年の見積もりについては注24を参照。
<63万人から71万人>
Jean-Claude Pressac
(1994)による。そのうち47万人から55万人がガス処刑されたユダヤ人であった。(注24)
注24:「死者の総数:631000−711000人;…犠牲者の数は630000人から710000人と見積もられる(translation in German of the work referred to just above: Die Krematorien von Auschwitz / Die Technik
des Massenmordes, Munich, Piper, 1994, p. 202)。J. Pressacの1989年の見積もりについては注21を、1993年の見積もりについては注23を参照。
私の知るかぎり、最後の見積もり(63万人から71万人)は、ユダヤ人の物理的絶滅が行なわれたと信じている人々の中ではもっとも低いものである。1946年、47年に、ポーランドの司法当局が30万人という数字を認めたという話がある。しかし、これは誤りである。この当局は、到着して登録された30万人の死者を認めているだけであって、登録されていない300万人から400万人をこの数字に加えている(注25)。
注25:F. Piper, op. cit, 1992, pp. 12-13参照。著者はヘス裁判の注釈を行なっている。
40年以上の間、ソ連当局、ポーランド当局、西ドイツ当局は、大戦中にアウシュヴィッツ当局が保管していた死亡登録簿(Sterbebücher)の存在を認めることに慎重であった。修正主義者の圧力、とくに二つのツンデル裁判(1985年と1988年、トロント)での圧力を受けて、各国の当局はついに、登録簿の存在を公にした。彼らは登録簿を復元したと主張したが、それは、1941年7月27日から1943年12月31日までの期間であった。収容所の開設は1940年5月20日であり、ドイツ人が撤退したのは1945年1月18日であるから、死亡登録簿が復元された期間は、収容所の存在期間の半分強である。復元された登録簿は46巻であり、そこには69000名の名前が記載されている(あるジャーナリストが主張しているように74000名ではない)(注26)。
注26:Sterbebücher von
Auschwitz / Death Books from Auschwitz /Ksiegi zgonow z Auschwitz, herausgegeben
vom Staatlichen Museum
Auschwitz-Birkenau、アウシュヴィッツ国立博物館公表, 3 Bände, München,
Saur Verlag, 1995.
「ホロコースト」の定説の支持者はいささか不快感を感じながらも、修正主義者の圧力に押されて、アウシュヴィッツの死亡者数を下方修正せざるをえなくなった。ニュルンベルク裁判(1945−46)では、上記のようなごまかしが、憲章21条にしたがって、「法廷に顕著な事実」とされたが、それをどのように説明するのであろうか。公式のセレモニーで、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世を含む世界の要人が、招請されて、いかさまの記念碑の前でひざまづくように求められたが、それをどのように説明するのだろうか。1990年、フランスは、ニュルンベルク裁判が記録・裁定した「人道に対する罪」に異を唱えることを禁止する反修正主義者法を公布したが、それをどのように説明するのだろうか。さらに、アウシュヴィッツの死亡者数を修正することが必要であるとするならば、戦争中に死亡したユダヤ人の総数500万人から600万人という数字は、修正を免れることができるのだろうか。
今日、ポーランド人が、彼らこそがアウシュヴィッツの400万という嘘を発明したのだと説明するユダヤ人がいる。ポーランド人は、反ユダヤ主義と民族主義的な自尊心にかられて、ほぼ150万のユダヤ人死亡者に、250万人のポーランド人その他の死者を付け加えたのだというのである(注27)。
注27:1983年には、G. Wellersは、この嘘や見世物のような誤りを、ポーランド人のせいにも、ロシア人のせいにも、共産主義者のせいにもしていなかった。彼は、"Depuis quelques
années, ayant compris les difficultés de ce problème, et ayant retrouvé la lucidité du jugement,
on évite d'avancer des chiffes, mais on sait que 4,000,000 de morts à Auschwitz est un chiffre exagéré, dû au traumatisme, au choc naturel, inévitable qui dominait le psychisme des survivants pendant
les premières années après la fin de la guerre, après
la fin de leur cauchemar"*
(G. Wellers, op. cit., 1983, pp. 138-139)と記している。それゆえ、G. Wellersは、自分自身の1973年の「慎重な見積もり」(注15参照)を読者に思い起こさせることなく、「生存者」に疑問を呈しているのである。1989年、Yehuda Bauerは、「公式のポーランドの宣伝家」を非難している。「あるポーランド人たちが、民族の神話を作り出すために、…誤った数字を広めた」というのである。また、Yehuda Bauerは、「自分たちこそが十字架にかけられた民族、ヨーロッパの真の受難者であるというポーランド人の考え方」を非難している("Auschwitz and the Poles / Fighting the Distortions", The
Jerusalem Post, September 22, 1989, p. 6)。「共産主義体制が宣伝した数字は200万人のユダヤ人、200万人の非ユダヤ人――その大半はポーランド人――が殺されたというものである」(Ben Helfgott, Chairman of Yad Vashem Charitable Trust,
London, The Independent, 3 August 1990)。「『共産主義者はアウシュヴィッツを「非ユダヤ化」しようとしている…』とアウシュヴィッツ国立博物館国際会議メンバーのLermanは語った」("The
Polish communist's false Auschwitz story", The Philadelphia Inquirer,
March 29, 1992, pp. A1, 10)。Luc Rosenzweigは『民族主義的・共産主義的ウルガタ聖書』を示唆している("Auschwitz, la Pologne et le génocide", Le Monde, January 27, 1995, p. 1)。
この説明は、工夫して作り上げられたものにすぎない。真実はこうである。終戦直後、共産主義的ユダヤ人だけではなく、ポーランドの司法当局も、アウシュヴィッツの死亡者の大半はユダヤ人であったと繰り返していた。1946年から1947年のルドルフ・ヘス裁判では、調査団長も検事も、数十万の「記録された」死者のほかに、アウシュヴィッツでは400万人か少なくとも250万人の死者がおり、その大半はユダヤ人であったと結論していた(注28)。
注28:注25参照。さらに、上記の要約リストを見ればわかるように、さまざまな計算を検討してみると、ユダヤ人自身もアウシュヴィッツでのユダヤ人の死者の数を150万より多く設定していたことも多い。だから、彼らには、非ユダヤ人が数字を誇張していると非難する権利はない。
1963−1964年の冬、この収容所で絶滅された「数百万のユダヤ人殉教者と戦士」を記念する特別な記念碑が建てられた。碑文はポーランド語、イェディッシュ語、ヘブライ語である(注29)。
注29:「1940−1945年に、ヒトラー一派の人種殺害者によって、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所において絶滅された数百万のユダヤ人殉教者と戦士を記念して」。J.-C. Pressacによると、この碑文は、1963−1964年の冬に建設されたが、その後(?)除去された記念碑に登場している(J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique and
Operation of the Gas Chambers,
最後に、付け加えておこう。「ホロコースト」史家にとっては、アウシュヴィッツのユダヤ人の大半は殺虫剤チクロンBによって殺されたのである。Arthur R. Butzその他の修正主義者にとっては、アウシュヴィッツの死者の総数は15万に達するが、そのうち約10万がユダヤ人であった(注30)
注30:「理性的に考えて、総数は10万人から15万人のあいだであり、前者に近いであろう…。アウシュヴィッツでの自然死によるユダヤ人死者の数は10万人以下であろう」(Arthur R. Butz's
review of Why Did the Heavens not Darken? The "Final Solution" in
History, by Arno J. Mayer, The Journal of Historical
Review, Fall 1989, pp. 369-370)。また、"Some Thoughts
on Pressac's Opus / A Response to a Major Critique of
Holocaust Revisionism", Ibidem, May/June 1993,
p. 26)も参照。
大半のユダヤ人は殺されたのではなく、とくにチフスの疫病によって死んだのである。もしも、ドイツ人がこの疫病を抑えるのに必要な大量の殺虫剤チクロンBを持っていたとすれば、アウシュヴィッツでは、ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人その他の囚人のあいだだけではなく、ドイツ人の医師、民間人、看守のあいだでの死者はもっと少なくなっていたことであろう、と修正主義者は指摘している。
1990年4月3日までのアウシュヴィッツ・ビルケナウの記念碑の碑文。
「1940年から1945年のあいだに、400万人がナチス殺人者の手で、ここで苦痛を受け、死んだ」。
1995年の同じ記念碑の碑文。
「ナチスが150万人の男性、女性、子供――その大半はヨーロッパ諸国からのユダヤ人であった――を殺害したこの場所が、人類にとって、絶望と警告の叫びとなるように」。
フランス語:"Ici,
de 1940 à 1945, 4 millions d'hommes,
de femmes et d'enfants ont été torturés et assassinés par les génocides hitlériens"。ドイツ語:"Martyrer- und Todesort von 4 Millionen Opfern ermordet von nazistichen Völkermordern, 1940-1945"。
本小論は、「アウシュヴィッツでの死亡者は何名か」という質問に対する回答のスケッチである。数千の参考文献をあげることができるであろう。しかし、研究上の難点は、ケースごとに、見積もりが、不明確な分類にもとづいていることにある。あるケースでは、「殺された人々」、「ガス処刑された人々」、「ユダヤ人犠牲者」の数が見積もられている。また、別のケースでは、「死者」、「犠牲者」が対象となり、「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」が区別されていない。ごく限られた期間だけの見積もりもある。ここでは、アウシュヴィッツの短期間の限定された時期から推定された数字を除外した。
注
アウシュヴィッツが絶滅収容所であったという説を主張する歴史家のあいだでは、死亡者数についてのおもな研究は、1983年と1990年に刊行されたフランス人Georges Wellersの研究、1991年、1992年、1994年に刊行されたポーランド人Franciszek Piperの研究である。
また、"The
Number of Victims" in Yisrael Gutman and Michael Berenbaum,
Anatomy of the Auschwitz Death Camp", published in association with the
United States Holocaust Memorial Museum, Bloomington and Indianapolis, Indiana
University Press, 1994, pp.61-80にもあたることができる。この5つの研究のうち、もっとも興味深いのは、G. Wellersのものでは1983年の研究、F. Piperのものでは1992年の研究である。ここではそれぞれ、"G. Wellers, op. cit, 1983"、"F. Piper, op. cit., 1992"と短縮されている。この二人の研究者は、アウシュヴィッツでの死亡者数について、過去に犯された「誤り」を示唆している――彼らにとっては苦痛であろうが――。この点については、G. Wellers, op. cit., 1983, pp. 138-139
and F. Piper, op. cit., 1992, pp. 5-16をおすすめする。この頁以上に、死亡者数という非常に重要な問題で、最悪の空想がどの程度行なわれてきたのかを如実に示しているものはない。