試訳:論集『ホロコーストの解剖』序文

ロベール・フォーリソン

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:20071013

 

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Robert Faurisson, Preface, Gauss, Ernst, Dissecting the Holocaust. The Growing Critique of 'Truth' and 'memory', (Ed.), Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000を試訳したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。
online:
http://vho.org/GB/Books/dth/fndfaurpref.html

[歴史的修正主義研究会による解題]

フランスの修正主義者フォーリソンがE.ガウス編『ホロコーストの解剖』に寄せた序文。「歴史的修正主義は20世紀末最大の知的冒険である」という一節から始まる。

 

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歴史的修正主義は20世紀末最大の知的冒険である。

本書は大部にもかかわらず、この冒険を概観しているにすぎない。だから、最初に、修正主義者たちの研究がどのような歴史上の問題に向けられているのかを概観し、次に、修正主義がどのように1940年代に誕生し、1950−1978年にどのように発展してきたのかを思い起こし、最後に、修正主義が1978ー1979年にどのように勢いを得て、何ものによってもその勢いを止められないような勢力を得たのかを明らかにしておかなくてはならないと思う。

  ニュルンベルク裁判(1945−1946)で、ドイツは「平和に対する罪」、「戦争犯罪」、「人道に対する罪」で裁かれ、有罪とされた。修正主義者は、これらの三点に関する研究・調査を通じて、ニュルンベルク裁判の修正を追求するまでに至ってきた。そして、修正主義者は、最初の二つの点に関しては、さしたる困難なしに、自分たちの議論を展開することができた。そして、多分、今日では、誠実な歴史家であれば、「平和に対する罪」、「戦争犯罪」に関しては誰もドイツに説教できる立場にないことを反駁しないであろう。今では、連合国にも開戦に責任があること、連合国も無数の「戦争犯罪」(戦争そのものが犯罪とみなされうるという点を考慮して、この用語にはどのような意味でもありうるとすれば)をおかしていることが明らかとなっているからである。しかし、第三点、すなわち、「人道に対する罪」に関しては、ユダヤ人「虐殺」のために、恐怖の頂点をきわめたのはドイツだけであると耳にたこができるほど語られてきた。ここに、歴史的修正主義が、アメリカ人のいうところの、「ホロコースト修正主義」となってきた理由がある。

  ドイツは、その告発者によれば、ユダヤ人の迫害、強制収容所もしくは強制労働収容所への移送・収容だけに満足しなかった。どんな歴史家でも知っているように、このような「犯罪」は、不幸なことではあるが、歴史のなかでは一般的なことであり、今日でも、テレビのスイッチをひねるだけで、あらゆる種類の人間集団が、このような「犯罪」に苦しみつづけていることを知ることができる。しかし、告発者によると、ドイツはこれよりもはるかに進んでしまったというのである。ドイツはきわめて残酷な領域に大きく飛躍して、そこに足を踏み込み、1941−42年頃に、ヨーロッパのユダヤ人を完全に絶滅することを決意して、この特別な犯罪のために、特別な武器、すなわち、殺人ガス室(あるいはガストラック)を開発・使用したというのである。身の毛もよだつような化学的殺人部屋を使って、ドイツは大規模な集団殺人を行ないはじめたというのである。この犯罪(すなわち虐殺)とその凶器(殺人ガス室)とはこの問題の不可分の構成要素であり、「ガス室が存在したかどうか」と主張することは不可能であり、何の意味も持たないという。このようにして、ドイツはユダヤ人に対する邪悪な犯罪をおかしたとされる。さらに、ユダヤ人は、全世界が意図的にドイツの犯罪遂行を許していたと述べている。この告発は多方面にわたっているので、被告席に、「主犯」のヒトラー、ヒムラー、ゲーリングだけではなく、その「共犯」のローズベルト、チャーチル、スターリン、ローマ教皇ピウス12世、国際赤十字委員会ならびに多くの国々、当局の代表者を付け加えてしまうという逆説的な事態をうみだしている。

こうした主張は、例えば、ロスアンゼルスからワシントンにまで、「ホロコースト博物館」のなかで、頑迷な決意のもとになされている。ここでは、今日のユダヤ人は全世界に対する告発者となっているだけではなく、戦争中にヨーロッパ、アメリカ、パレスチナで暮らしていた、責任ある立場のユダヤ人の犯罪を詰問するところにまで進んでいる。彼らは、このようなユダヤ人たちが、自分たちと同じ信仰を抱く人々の「組織的な絶滅」に協力した、無関心であった、生ぬるい反対しかしなかったと、ずうずうしく非難している。

  ナチスがユダヤ人をガス処刑しているとの最初の噂は、1941年12月にワルシャワ・ゲットーで広まった。[1]しかし、戦争中には、このような噂は、ドイツに反感を持つ人々のあいだでも、あまり受け入れられてはいなかった。こうした噂に対する懐疑的精神が広まっていたことを知るには、ウォルター・ラカーの『恐るべき秘密』[2]にあたれば十分である。第一次大戦のときには、民間人のガス処刑(教会その他での)や死体工場のような話が広まっていたが、第二次大戦のときには、こうした虐殺物語の捏造の記憶が、人々のあいだに長く残っていた。イギリス外務省は第二次大戦に関する新しい噂をユダヤ人の作り話にすぎないとみなし、アメリカ人の多くも同じ判断であった。[3] 1942年11月、チェコスロヴァキア大統領エドワード・ベネシュ(ロンドンに亡命中)は、自分のスタッフに調査させたのちに、虐殺があったとの報告にもかかわらず、ドイツはユダヤ人を絶滅してはいないと声明した。[4] ユダヤ系アメリカ人で連邦最高裁判事フェリクス・フランクフルターは「私はあなたを信じることができない」とヤン・カルスキに語っている。[5] 1943年8月、国務長官コーデル・ハルは、イギリス人が「不十分な証拠」しかないと指摘しているので、「ポーランドでのドイツの犯罪」に関する連合国の共同声明のなかの「ガス室」への言及を削除する方が適切である、とモスクワのアメリカ大使に電報で注意を促している。[6]

  戦後になってからも、アイゼンハウワー、チャーチル、ド・ゴールのような連合国の高官は、回想録のなかに「ナチスのガス室」が存在・稼動したとは記していない。懐疑論者は懐疑論者なりに、修正主義者であったのである。バチカンも、国際赤十字委員会も、反ドイツ・レジスタンスも非常に空想的な中身を持つようになった噂を信じているようには振る舞っていない。その噂によれば、ドイツはユダヤ人を絶滅したというのであるが、その方法については、ありとあらゆる方法を使ったことになっている。蒸気、ガス、電気、火、酸、空気の注入、水責め、真空ポンプなどである。虐殺宣伝競争で、ガスが最後の勝利者となった理由は明らかではない。

  フランス人ポール・ラッシニエは戦後の最初で本物の修正主義者であった。1950年、移送者経験を持つ彼は、最初は『ユリシーズの夢』[7]のなかで、その後は、一連の著作のなかで、「ガス室神話」を否定し始めた。1976年、アメリカ人技師アーサー・バッツは『20世紀の詐欺』[8]を出版した。この本は、今日でも、いわゆる虐殺とガス室に関するもっとも奥の深い修正主義的研究である。1979年、今度は、ドイツ人判事ヴィルヘルム・シュテークリヒ博士が『アウシュヴィッツ――神話』[9]を出版した。このなかで、シュテークリヒは、過去の魔女裁判の判事が、とくに1450年から1650年にかけて、火刑、火あぶりとか、悪魔のかまどとかいった、きわめて馬鹿げた話を公認したのと同じようなやり方で、ドイツの法廷が神話の偽造に協力することができたやり方について、検証している。

  ポール・ラッシニエ、アーサー・バッツ、ヴィルヘルム・シュテークリヒの貢献をないがしろにするわけではないが、もし許されるならば、ここで言っておかなくてはならないことは、修正主義が1970年代後半に科学的、物的証拠を重視するようになってきたのは、スウェーデン人ディトリーブ・フェルデラーの現場検証、アウシュヴィッツでの私個人の発見調査、消毒(害虫駆除)目的でのチクロンBの使用に関する私の研究、実際に死刑囚への処刑が実行されている合衆国刑務所のガス室での青酸ガスの使用に関する私の研究によっていることである。ポール・ラッシニエ、アーサー・バッツ、ヴィルヘルム・シュテークリヒはポーランドの犯罪現場とされている場所に行ったことはなく、ディトリーブ・フェルデラーと私の研究に続いて最近の修正主義的な研究者が利用しているような、物理学的、化学的、地形学的、技術的論点を十分に利用することができなかった。ユダヤ人絶滅理論を擁護するユダヤ人研究者について言えば、私によれば、彼らは「紙の上の歴史家」であり、レオン・ポリャーコフとラウル・ヒルバークも紙と言葉を扱っているだけであり、推論のなかにとどまっている。[10]

  ドイツには多くの科学者と技師がいる。合衆国には、自国の青酸ガス室での事例を扱う化学者にことかかない。この両国で、広い範囲の純粋に科学的な議論が行なわれていないのは驚くべきことである。1976年、私は、アウシュヴィッツで、殺人ガス室があったとされている焼却棟と害虫駆除ガス室(Entlausungsgaskammernの正確な配置図だけではなく、(以前には隠されていた)焼却棟の青写真も発見した。1978年、1979年に、私は『ル・モンド』に二つの論文を発表し[11]、そこで私の発見をまとめておいた。1979年、ロサンゼルスでの歴史評論研究所第1回大会で、これらの発見を詳しく報告した。聴衆のなかに、カナダのトロント在住のドイツ人エルンスト・ツンデルがいた。見過ごされてしまうことが多いが、1985年現在、彼は、すべての修正主義者の中でもっとも熱心で、もっとも精力的な人物、ならびに、この分野での先駆者であった。私は化学的な論点、とくに1930年代、40年代の合衆国のガス室の技術的レベルの重要性を指摘していたが、ツンデルはこのことを初めて理解した人物であった。彼は、私がアメリカのガス室の専門家にポーランドのいわゆる処刑ガス室を現場検証させようとしていたことを理解した。1970年代、私はアメリカの刑務所と連絡を取っていたが、このような専門家としてフレッド・ロイヒターという人物を発見していた。エルンスト・ツンデルは(彼一人で)このロイヒターにポーランドの施設を検証させる――これは私が提案したことであった――だけではなく、害虫駆除ガス室といわゆる処刑ガス室の壁からサンプルをとってこさせるという素晴らしいアイディアを思い付いた。1988年2月、彼は危険をおかして、自前でロイヒターと研究チームをポーランドに派遣し、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクのいわゆるガス室を検証させた。施設を現場検証し、採取したサンプルを分析した結果は、全面的に修正主義者のテーゼを支持するものであった。これ以後のその他の報告も「ロイヒター報告」[12]の正しさを立証した。最初に、ゲルマール・ルドルフの学術的報告[13]が、ついで、ポーランド人の関連専門家秘密報告[14]、最後に、オーストリア人ヴァルター・リュフトルによる研究[15]がそれぞれ、ロイヒター報告の正しさを立証した。

  言うまでもないことだが、ドイツを告発してきた人々は、これらの研究に賛成していないとすれば、自分たち独自の専門家報告をいつでも作成することができたはずである。彼らは過去50年間もそうした専門家報告を発表してこなかったが、その理由は何なのであろうか。

  ドイツを告発してきた人々は、修正主義が収めた成功に直面して困惑したが、その困惑は十分に理解できることである。半世紀間、彼らは、第二次大戦中にユダヤ人を襲った悲劇は前代未聞のものであると心から信じてきたが、もしもこの悲劇の本当の様相、すなわちガス室抜きの悲劇であったとされれば、この悲劇はこの戦争での多くの悲劇の一つにすぎなくなってしまうからである。ホロコースト史家は、修正主義者の研究の圧力を受けて、次のような諸点をしだいに認めざるを得なくなっていった。

      いわゆるユダヤ人虐殺の命令、計画、予算は存在しない。[16]

      ヴァンゼーはせいぜい「馬鹿げた話」にすぎない。[17]

      「建物(当時の姿を完全に残していたのであれ、『再建されたもの』であれ、廃虚となっているものであれ)が殺人ガス室として使われた」ことを結論づける専門家の報告は一つもない。

      「これこそが毒ガスで殺された収容者の死体である」と結論づける検死報告は一つもない

      ルドルフ・ヘスの自白にはまったく価値がない(「ヘスは非常に衰弱しており、混乱していた証人であった」[18])。

      いわゆる目撃証人はガス室やガス処刑をまったく見たことがない。1988年に、そのなかで最良の人物と思われる有名なルドルフ・ヴルバでさえも、このテーマに関する自分の本のなかで「詩的文学様式」を使ったことをカナダの判事と陪審員に告白せざるを得なかった。[19]

      「ユダヤ人石鹸」は実在しなかった。[20]

      アウシュヴィッツでの400万人の犠牲者という数字は虚構にすぎない。[21]

      「ガス室研究のための資料は非常に少なく、信頼できないこと…。さらに、1942−1945年、アウシュヴィッツその他で、いわゆる『自然』の原因[飢え、疫病、病気、過労]で死んだユダヤ人の数は『不自然』な原因で死んだ数よりも多かった。」[22]

                    

1982年7月2日、絶滅論者たちは私の議論に答えるためにパリのソルボンヌで国際討論会を開いたが、そこでの結論で、彼らは、一つのガス室の実在と作動に関するわずかな証拠の痕跡さえも提示することができなかった。1992年3月、私は次のように挑戦した。

 

私にナチスのガス室を見せてください、その図面を見せてください。」

 

絶滅論者たちが多くの期待を寄せていたプレサックは「犯罪の痕跡」以上のものを提示することができず、犯罪で使われた凶器に関して完全に物理的な叙述をすることを、きわめて注意深く差し控えた。[23]

  1994年8月31日、私は、ワシントンのホロコースト記念館調査研究所長マイケル・ベレンバウムに会った。私たちは四人の証人(双方の側から二人づつ)の在席のもとで、彼の事務所で話し合った。私は、彼の博物館には逆説的なことではあるが、ナチスのガス室を具体的に提示するものはないこと(焼却棟Uの模型は、実際のものとはまったく関係のない人工的なものにすぎない)を彼に認めさせた。私は、その理由を尋ねた。彼は最後にこう答えた。

 

ナチスのガス室を物理的に提示しないように[われわれによって]決定がなされてきました。」

 

彼の答えは、教会から十字架を一切除去するように決定したカトリックの僧侶と同じようなものである(マイケル・ベレンバウムはユダヤ教の神学者である)。窮地に陥っていなければ、このような極端な立場には追い込まれないことであろう。

  ベレンバウム氏と信仰を同じくする人々は、ユダヤ人石鹸やアウシュヴィッツでの400万という話と同様に、ゆくゆくはガス室の話を放棄することであろう。さらにそれよりも進むことであろう。すなわち、ユダヤ人の石鹸や400万の話と同様に、彼らは自分たちが神話を暴いたかのように振る舞い、ドイツ人、ポーランド人、共産主義者が最初に「ガス室神話」を偽造したのだと非難することであろう。あつかましい説を補強するために、修正主義者かあるいは部分的な修正主義者であるユダヤ人の名前(J.G.Burg, Jean-Gabriel Cohn-Bendit, Roger-Guy Dommergue, Arno Mayer, David Cole, Christopher Hitchens, Stephen Hayward…) をあげることであろう。そして、自分たちに主役の座をあてることであろう。

  彼らは、ユダヤ人の「ホロコースト」を、まったく物質的な実体のない宗教信仰に変えていくと同時に、もっとますます硬直していき、本物の修正主義者を、宗教信仰の自由な表明に反対する、不寛容で心のない、貪欲で、物質主義的な「拒否論者」、「否定論者」と非難するであろう。換言すると、これらのユダヤ人にとっては、本物の修正主義者は、事実の面ではその正確さを認めざるを得なかったとしても、精神の面では悪魔的な存在であり続けるであろう。

  修正主義者は悪魔的でも、否定唯一論者でもない。「否とだけいう人々」では決してない。修正主義者の考え方は建設的である。彼らは、建設的な研究の結果、特定の信仰が神話にすぎないことを主張している。このような神話は憎悪をつちかってしまうがゆえに、有害である。修正主義者は、何が起こったのか、何が起こらなかったのかを叙述することに努めている。一般的に、あさましい人間性に対する修正主義者の主張は、よいニュースである。彼らは、歴史的な正確さだけを追求することによって、中傷と闘い、正義をもとめて闘っている。彼らは苦難を味わってきたし、今後も味わうことであろうが、結局、歴史は彼らの正しさを証明し、彼らに正義を与えてくれるであろうと信じている。[24]

ロベール・フォーリソン、1994年9月23日

 

   この序文は、Tom Kerrによって、フランス語の原文から翻訳された。

 

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[1] 「ストックホルム、1221日(JTA)−ワルシャワ・ゲットーに詰め込まれた1000名以上の発疹チフスの犠牲者がガスで処刑されている…、信頼できる情報から確認できる」 (The Jewish Telegraphic Agency Bulletin, December 22, 1941, p.1).

[2] The Terrible Secret. An Investigation into the Suppression of Information about Hitler's "Final Solution", Weidenfeld and Nicolson, London 1980.

[3] Ibid., see "Foreign Office" in the index as well as pp. 83, 91, 94, 116, 225, etc.

[4] Ibid., pp.162f.

[5] Ibid., p.237.

[6] Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, US Printing Office, Washington 1963, vol.1 of 1943, pp. 416f.

[7] Le Mensonge d'Ulysse, La Librairie française, Paris 1950 (online: abbc.com/aaargh/fran/archRassi/prmu/ prmu.html).

[8] The Hoax of the Twentieth Century. The Case Against the Presumed Extermination of the Jews, Institute for Historical Review, P.O.Box 2739, Newport Beach, California 92659, USA. 1993年版を読むように薦める。そこには、三つの補足というかたちで、バッツが1979年、1982年、1992年に行なった講義が含まれている。1982年の講義の中でお薦めなのは、「目に見えない象の話」についての350362頁の目をくらませるような議論の展開である。

[9] Der Auschwitz-Mythos. Legende oder Wirklichkeit? Eine kritische Bestandsaufnahme, Grabert-Verlag, Tübingen 1979 (online: vho.org/D/dam). この本はドイツ当局の命令で破棄された。第二版がイギリスで出版された。Der Auschwitz-Mythos [...], Vorwort von Mark Weber, Beitrag von R. Faurisson, Bemerkungen von Revilo Oliver, Charles E. Weber u. Arthur R. Butz, Historical Review Press, 20 Madeira Place, Brighton, Sussex, England BN2 1TN, 1984.両版とも、写真資料は私のアルヒーフからのものである。

[10] 詳細なヒルバーグ批判は、Jürgen Graf, Riese auf Tönernen Füßen. Raul Hilberg und sein Standardwerk über den Holocaust, Castle Hill Publishers, Hastings 1999 (online: vho.org/D/Riese) (note of the editor)試訳:『粘土足の巨人――ヒルバーグと「ホロコースト」に関する彼の標準的著作』(J. グラーフ)を参照。

[11] Le Monde, 29 December 1978 and 16 January 1979.

[12] An Engineering Report on the alleged execution gas chambers at Auschwitz, Birkenau and Majdanek, Poland, April 5, 1988, 193pp. (online: www.zundelsite.org/english/leuchter/report1/leuchter.toc.html) Ernst Zündel published this report on 23 April 1988, with a preface written by me: Samisdat Publishers, 206 Carlton Street, Toronto, Ontario, Canada M5A 2L1.

[13] Rüdiger Kammerer and Armin Solms (eds.). Das Rudolf-Gutachten, Cromwell Press, London 1993; Engl.: Germar Rudolf, The Rudolf Report, in preparation (online: vho.org/D/rga/rgatoc.html)試訳:ルドルフ報告、アウシュヴィッツの「ガス室」の化学的・技術的側面についての専門家報告.

[14] Die offizielle polnische Antwort auf dem Leuchter-Bericht [The official Polish reply to the Leuchter Report]. Translation of the Polish by T. Rudolph, distributed by E. Zündel (address see note 11). [A different report was published in 1994: J. Markiewicz, W. Gubala, J. Labedz, Z Zagadnien Nauk Sadowych, Z. XXX (1994), pp. 17-27; editors note.]クラクフ法医学研究所報告(試訳と評注)

[15] Walter Lüftl, "Holocaust", in The Journal of Historical Review 12 (4), Winter 1992/93, pp. 391-420 online: ihr.org/jhr/v12/v12p391_Lueftl.html).

[16] 1961年、ヒルバーグは、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の初版のなかで、ユダヤ人絶滅命令(二つの連続した命令)が存在した、と断言している。1985年の第二版(Holmes and Meier, New York)では、事実関係の説明を完全に変えた。すなわち、ヒルバーグは、もはや命令については触れていない。彼は、「基本計画」はまったく存在しなかった(p.53) 、「[絶滅の]過程すべてを支持し、調整する単一組織は存在しなかった」(p.55)と記している。さらに、「ヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅するために、特定の機関が創出されることはなかった」(p.62)と付け加えている。彼は、ユダヤ人の絶滅という作業を、ドイツの官僚制の中での思想の伝達やテレパシー的察知、すなわち、「壮大な官僚制による信じがたいほどの精神の一致、共通理解の察知」(ヒルバーグは1983222日の講義でそのように述べ、1985年のトロントでのツンデル裁判のときの反対尋問でこのことを確認している、 per shorthand transcription, pp.846-848)で説明している。

[17] イェルサレムのヘブライ大学教授イェフダ・バウワーは、「世間では、ヴァンゼーでユダヤ人の絶滅が決定された」という馬鹿げた話が、繰り返されている」 (The Canadian Jewish News, 20 January 1992, p.8, reproducing a dispatch of the Jewish Telegraphic Agency in London).

[18] Professor Christopher Browning, a contributor to the Encyclopedia of the Holocaust, to Christopher Hitchens, "Whose history is it?", Vanity Fair, December 1993, p.117. ブローニング教授は、あつかましくも、「修正主義者はいつもこのために[ヘス]を利用し、アウシュヴィッツの記憶全体の信憑性を貶めようとしてきた」と付け加えている。

[19] Zündel Trial in Toronto in 1985, transcription, pp.1447-1448, 1636. The book in question is: R. Vrba, I Cannot Forgive, Bantam Books, Toronto 1964.

[20] ヤド・ヴァシェム文書館長シュムエル・クラコフスキーとヤフダ・バウワー教授は、「ナチスが人間の脂肪から石鹸を作ったことはなかった」と1990年についに認めた (The Jerusalem Post International Edition, 5 May 1990)。ニース(フランス)の墓地には、次のような碑文のある記念碑がある。「この骨壷には、ドイツ第三帝国が移送されたわれわれの兄弟たちの死体から製造した人間脂肪石鹸が入っている」。

[21] プレサックの見解では、アウシュヴィッツでの死亡者総数の概数は、63万から71万のあいだであり、そのうちガス処刑されたのは、47万から55万である。Die Krematorien von Auschwitz. Die Technik des Massenmordes, Piper-Verlag, Munich 1994, p. 202.

[22] Arno J. Mayer, The "Final Solution" in History, Pantheon Books, New York 1988, pp.362, 365. 著者はユダヤ系であり、プリンストン(合衆国)大学歴史学教授である。

[23] 注目すべきことに、プレサックは図面の書き方を知っていたにもかかわらず、その著作の中で、ガス室の全貌を、「技術と作動」の説明をつけて、具体的に明らかにしようとはしていない。その大部な著作の中で(Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, The Beate Klarsfeld Foundation, New York 1989)、「直接的証拠」はまったく存在せず、「犯罪の痕跡」あるいは「間接的証拠」だけしか存在しないと述べている (p.429)

[24] 歴史的修正主義の研究に不可欠な基本的著作は、カナダ人弁護士 Barbara Kulaszka, Did Six Million Really Die? Report of the Evidence in the Canadian "False News" Trial of Ernst Zündel - 1988, Samisdat Publishers, 206 Carlton Street, Toronto, Ontario, Canada M5A 2L1, 1992 (online: www.zundelsite.org/english/dsmrd/dsmrdtoc.html)である。