ホロコーストに憑かれた人々
――その出自、政治的傾向(Wikipediaその他から)――
歴史的修正主義研究会編試訳
最終修正日:2006年9月10日
<コーゴン、オイゲン(Eugen Kogon)、1903-1987>
http://de.wikipedia.org/wiki/Eugen_Kogon
http://motlc.learningcenter.wiesenthal.org/text/x13/xm1300.html
1903年ミュンヘンでロシア系外交官の血筋をひく家庭に生まれ、成人してからは、オーストリアでキリスト教系労働組合のために働いていた。民族社会主義に反対していたために、1938年に逮捕され、1939年にはブッヘンヴァルト収容所に収容され、そこで終戦まで暮らした。戦後、『フランクフルター・ヘフテ』誌の創刊に協力し、ダルムシュタット工科大学政治学教授もつとめた。
Der SS-Staat. Das System der deutschen Konzentrationslager(『SS国家:ドイツ強制収容所システム』)1946
Nationalsozialistische Massentotung durch Giftgas (『毒ガスによるナチスの大量殺戮』)1983
<ポリャーコフ、レオン(Léon Poliakov)、1910-1997>
http://en.wikipedia.org/wiki/Leon_Poliakov
http://fr.wikipedia.org/wiki/L%C3%A9on_Poliakov
ロシア帝国サンクト・ペテルブルクのユダヤ人ブルジョア家庭に生まれたポリャーコフは、一家がロシアから亡命するとともに、イタリアとドイツで暮らし、最終的にフランスに定住した。第二次大戦中に、ホロコーストの資料を収集するユダヤ人資料センター(Centre de Documentation Juive)の開設のイニシアティブをとり(1943年)、戦後は、ニュルンベルク裁判でフランス検事団長Edgar Faureに協力した。彼は、学術研究全国センター(CNRS)の研究部長を務めた。1997年12月にパリで死んだ。
Harvest of Hate: The Nazi Program for the Destruction of Jews in Europe (『憎悪の収穫:ナチスによるヨーロッパ・ユダヤ人絶滅計画』)1956
The History of Anti-Semitism: From Voltaire to Wagner (『反ユダヤ主義の歴史:ヴォルテールからワグナーまで)2003
<ラングバイン、ヘルマン(Hermann
Langbein)、1912-1995>
http://de.wikipedia.org/wiki/Hermann_Langbein
1912年にウィーンで生まれ、1938年にはスペインに渡り、スペイン内戦では人民戦線側にたって戦った。その後、フランスで逮捕され、ダッハウ、アウシュヴィッツなどの収容所に収容された。戦後、クラクフに本部をもつアウシュヴィッツ委員会議長をつとめ、また、国際強制収容所委員会事務局長もつとめた。1960年代初頭に西ドイツで開かれたアウシュヴィッツ裁判の実質上の組織者の一人であった。
Nationalsozialistische Massentotung durch Giftgas (『毒ガスによるナチスの大量殺戮』)1983
<ダヴィドヴィチ、ルーシー(Lucy Dawidowicz)、1915-1990>
http://en.wikipedia.org/wiki/Lucy_Dawidowicz
ダヴィドヴィチは、1915年、ニューヨークで、あまり宗教的関心を持たない世俗的なユダヤ人家庭に生まれた。ハンターカレッジで学士号、コロンビア大学で修士号を習得した後、指導教官の歴史家Jacob Shatzkyの奨めで、ユダヤ人の歴史に関心を抱き、戦時中はイディッシュ学術研究所(YIVO)で研究を続けた。1946年、ドイツにわたり、アメリカ系ユダヤ人配分委員会で支援活動を行なった。1948-1960年にはアメリカ系ユダヤ人委員会歴史研究員をつとめた。
The War Against The Jews, 1933-1945(『ユダヤ人に対する戦争 1933-1945』)1975
<チェク(チェヒ)、ダヌータ(Danuta Czech)、1922-2002>
http://de.wikipedia.org/wiki/Danuta_Czech
http://www.auschwitz-muzeum.oswiecim.pl/new/index.php?language=EN&tryb=news_big&id=627
http://www.auschwitz-muzeum.oswiecim.pl/html/de/aktualnosci/news_big.php?id=650
1922年、ポーランドのポドカルパツカ地方で生まれ、クラクフのヤゲロー大学で社会学の学位を修得。戦時中は、父ステファンとともに抵抗運動に参加。ステファンは逮捕され、ブッヘンヴァルト、アウシュヴィッツなどに収容された経験をもつ。戦後、父の影響を強く受けた彼女は、アウシュヴィッツ国立博物館で研究活動を行い、退職時には館長代理であった。
Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945, 1989; Auschwitz Chronicle 1939-1945(『アウシュヴィッツ・カレンダー』)1999
<セレニイ、ジッタ(Gitta Sereny)、1923->
http://en.wikipedia.org/wiki/Gitta_Sereny
http://de.wikipedia.org/wiki/Gitta_Sereny
セレニイはハンガリー系ユダヤ人として1923年にウィーンで生まれた。民族社会主義ドイツ労働者党が権力を握ると、フランスに移住した。そして1940年、ドイツ軍がフランスに侵攻するとき、イギリスに逃げた。短期間ではあるが、ニュルンベルク裁判も傍聴している。
Into That
Darkness: from Mercy Killing to Mass Murder, a study of Franz Stangl, the
commandant of Treblinka (『その暗闇の中へ:安楽殺人から大量殺戮へ、トレブリンカ所長フランツ・シュタンダルの研究』)1974
<ヒルバーグ、ラウル(Raul Hilberg)、1926->
http://en.wikipedia.org/wiki/Raul_Hilberg
http://de.wikipedia.org/wiki/Raul_Hilberg
ユダヤ系オーストリア人としてオーストリアの首都ウィーンに生まれる。一家は零細金融業を営んでいたが1939年ナチスの迫害を逃れてキューバヘ脱出し、アメリカ合衆国に渡る。ニューヨークに住みエイブラハム・リンカン高校とブルックリン・カレッジに進学。1944年帰化するとともに陸軍に入隊、ヨーロッパ戦線に加わる。終戦直後に枢軸国軍人にたいする尋問担当将校に任命され、1946年除隊。1950年コロンビア大学修士、1951年から1年間は研究を兼ねてワシントンの戦時文書プロジェクトに携わる。1955年コロンビア大学で政治学博士号を取得。翌年ヴァーモント大学准教授、1967年に正教授となり1991年に退職。2005年4月26日にAAAS(American Academy of Arts and Sciences)会員に選ばれた。現在はヴァーモント州バーリントン在住
The destruction of the European Jews (『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』)1961
<ヴィダル=ナケ、ピエール(Pierre Vidal-Naquet)、1930-2006>
http://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_Vidal-Naquet
http://fr.wikipedia.org/wiki/Pierre_Vidal-Naquet
http://www.guardian.co.uk/france/story/0,,1840763,00.html
ヴィダル=ナケは教養あるブルジョア的なユダヤ人家庭に生まれた。父ルシアンは弁護士だった。祖父はドレフスの無罪を証明する戦いに関与していた。第二次世界大戦が始まると、1940年6月、一家はマルセイユに逃げたものの、1944年5月15日、ヴィダル=ナケの父はゲシュタポに逮捕され、1944年6月、妻とともにアウシュヴィッツに送られ、二度と戻っては来なかった。戦後は、古代ギリシア史家としての研究を続ける一方で、アルジェリア戦争、ベトナム戦争に反対するなど左翼反体制派の活動に積極的に関与した。
The Assassins of Memory and Other Essays (『記憶の暗殺者たち』)1995