試訳:殺人ガス車証人=W. ラウフの戦後

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2007年4月27日

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、イスラエルの新聞『ハアレツ』のサイトに掲載されたShraga Elam and Dennis Whitehead, In the service of the Jewish stateという記事を「殺人ガス車証人=W. ラウフの戦後」と題して試訳したものである。(文中のマークは当研究会が付したものである。)

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://www.haaretz.com/hasen/spages/843805.html

[歴史的修正主義研究会による解題]

SS将校W. ラウフは、連合軍に逮捕されたのち、「大量ガス処刑」の三大アイテム(チクロンBガス室、一酸化炭素ガス室、殺人ガス車)のひとつ「殺人ガス車」についての「供述書」を提出した人物であり、この供述書は、ラウフあての「ベッカー書簡」とともに、「殺人ガス車」が実在した証拠として頻繁に引用されてきた。しかし、イスラエルの『ハアレツ』紙――無論、ホロコースト正史にまったく疑問を抱いていない――は、このラウフとイスラエル情報機関との「胡散臭い」関係を明らかにしている。

ラウフとならぶ「加害者側」の重要証人W. ヘットルのやはり「胡散臭い」戦後については、試訳:ヴィルヘルム・ヘットルと捕らえどころのない「600万人」(M. ウェーバー)を参照。

 

 

 SS将校W. ラウフは少なくとも10万人の殺戮に責任を負い、連合国から戦争犯罪人として追及されていた人物であるが、1940年代末には、イスラエルの秘密情報機関に雇われていた。イスラエルの秘密情報機関は彼の協力にお金を支払い、南米への逃亡を助けた。過去数年間にまたがって公開された合衆国中央情報局(CIA)の文書は、ラウフのケースが例外ではなかったことをアメリカ側が知っていたことを明らかにしている。

 1950年3月24日付のCIA覚書は、イスラエルの工作員Edmond (Ted) Cross――文書では名前は削除されている――とJanos Walbergという名のナチとの関係に触れている。

 

「この人物がイスラエル情報機関に雇われていたことは、旧ナチ分子をアラブ諸国の監視とそこへの浸透に利用することに関するXと[Edmond (Ted) Cross別名Magen もしくはCrowder]との会話が明らかにした状況に合致するであろう。有名な旧SS大佐ヴァルター・ラウフをエジプトに送り込む企てが失敗したのち、イスラエル情報機関は(確証されてはいないが)高い確率で、この人物[Walberg]を雇った。彼の物の考え方や経歴から見ても、彼がユダヤ工作員かもしれないとの疑いをエジプトで喚起することなどありえないからである。」

 

 これより前、1950年2月の文書は、ラウフをエジプトの送り込む企てが失敗したにもかかわらず、Crossは、ラウフが南アメリカへの移住に必要な書類を手に入れることを助けたと述べている。しかし、なぜイスラエルはラウフを助けたのか?この文書にヒントがある。

 

「この人物がシリアに逗留していたのは、イスラエル機関のための任務との関連であろう。」

 

 たしかに、ラウフは、イスラエルとの平和協定の締結を求めていたフスニ・ザイム大統領の軍事顧問としてシリアに滞在していた。そして、ザイムが軍事クーデタによって失脚したのちにシリアを離れることを余儀なくされた。

 エジプトでのラウフの任務の詳細はわかっていないが、Crossとの結びつきはヒント以上のことを示唆している。モサドに勤務していたことのあるRuth Kimcheの研究によると、Crossは独立戦争が真っ盛りであった1948年7月に、エジプトで何人かの重要人物をユダヤ人グループの支援を受けて暗殺するために派遣された。しかし、最後の段階で、この任務はキャンセルされた。Crossは9月にエジプトに戻ってきたが、今度も、計画は実行されなかった。エジプト王女Amina Nur a-Dinとの恋愛事件にまきこまれて、エジプトを離れなくてはならなかったためであった。Kimcheはこう述べている。

 

「この事件は、1950年代のラボン事件を思い起こさせるものであるが、幸運なことに、1948年の計画は、エジプト王女のおかげで実行されなかった。」

 

 だが、計画は放棄されたわけではなかった。合衆国の文書が明らかにしているように、1949年、Crossはラウフをエジプトに送り込みたがっていた。ラウフに関するCIAファイルの別の文書によると、ラウフはエジプトにやってこなかったが、1953年の覚書は、ラウフという名の人物が国内いるという駐エジプト合衆国大使の話を引用している。たしかに、覚書はラウフのことをポーランド人として描いているが、ラウフがポーランドでユダヤ人の絶滅を組織したとも述べているので、有名なナチ将校のことを指しているに違いない。

 ラウフは1906年に生まれた。18歳のときからドイツ海軍に勤務した。1937年、姦通という将校にふさわしからぬ振る舞いのために、免職となった。彼の親友で海軍将校の経験を持つラインハルト・ハイドリヒは当時、ヒムラーの下で働くSS長官代理であったが、ラウフを助けて、彼をナチ組織に引き入れた。当初、ラウフはベルリンのSS本部に勤務していた。ドイツが1940年にノルウェーを占領すると、彼は、三ヶ月間当地の治安警察長官をつとめた。同年、みずから希望して海軍に再入隊し、掃海艇艦隊の司令官をつとめたが、1941年、ハイドリヒが彼をSS本部に召還した。

 ハイドリヒがチェコスロヴァキア総督に任命されると、ラウフも技術顧問としてプラハに赴いた。ハイドリヒがチェコレジスタンスに暗殺されると、ラウフは1942年6月にベルリンに戻った。SS技術課長に任命され、ガス車を使った絶滅計画の責任者となった。ユダヤ人その他の集団がガス車の後部に押しこまれると、車は気密状態とされ、後部に排気管がつながれた。エンジンが稼働し、その排気煙が車の後部にいる人々全員を殺した。97000人から20万人――大半がユダヤ人――がこのように殺された。この大量殺戮方法はナチスにとっては、まどろっこしく、取り扱いが厄介であったので、ナチスは、チクロンBを殺人媒体とするガス室を開発していった。

 1942年7月から1943年5月まで、ラウフは北アフリカの特別行動部隊(ユダヤ人絶滅を任務とする移動殺戮部隊)を指揮し、チュニジアのユダヤ人を強制収用する責任者であった。1943年7月、ベルリンに短期間逗留したのち、コルシカの特別行動部隊司令官となり、1943年から終戦まで、ミラノのSS司令長官であった。このような人物であったので、彼は、北イタリアでのナチスの降服につながる秘密交渉に関与していた。

 ラウフは、この交渉に参加していた他のナチスとは異なり、1945年4月30日に連合国によって逮捕された。1947年、彼は逃亡して、Akram Tabara大尉によってシリアの情報部に雇われ、John Homsi博士という名を与えられた。

 ラウフはシリアではフスニ・ザイム大統領の顧問となり、彼に対するクーデタの日に逮捕された。ラウフは、自分は顧問にすぎず、なんら指揮権を持っていないと逮捕にやってきた人々を説得することに成功した。結局、釈放されたが、シリアを離れることを命じられた。

 CIAファイルによると、ラウフはVon Lipkauというドイツ人工作員の「共産主義的破壊活動」との結びつきを疑われていた。彼は、シリアから追放されると、Lipkauに同行してインドに向かい、そこで共産主義的宣伝を行なったと見なされていた。別のCIA報告によると、Lipkauが別の任務のためにテルアビブにとどまったために、この任務はキャンセルされた。

 ラウフはダマスカスからベイルートに向かい、そこからイタリアに渡った。そして、イスラエルの手助けで、また、あきらかにイギリス情報機関の助けも借りながら、1949年12月に南アメリカに渡った。彼は、エクアドルの首都キトに居を定めた。1953年の報告は、彼がブエノスアイレスにいて、反共グループを指揮していたと伝えている。1958年、ラウフはチリに移り、一年後に永久滞在許可を手にした。彼は家畜と魚の商人となり、農園主、産業家と記されている。やはりヴァルターという名の彼の息子はチリ海軍大学への入学を認められ、社会主義的大統領アジェンデの後援者であった参謀長Carlos Prats将軍の保護のもとにあった。この息子は、父親がイスラエルのために働いていたことがあることを否定している。

 1962年12月19日、西ドイツがラウフの引渡しを求めると、彼はチリで逮捕されたが、チリ最高裁はこの要請を拒み、ラウフを釈放した。アジェンデが大統領に選出されても、事態は変わらなかった。アジェンデはナチ・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタールあての親しげな手紙の中で、1962年の判決を覆すことはできないと述べている。

 1973年9月、アジェンデは、民主主義的に選出された自分の政府に対する軍事クーデタの渦中で殺された。数ヵ月後、フランスの新聞『ルモンド』は、ラウフがチリ情報局長に任命されたと伝えたが、チリ政府はこれを否定した。10年後の1984年1月、チリはイスラエル司法省からのラウフ引渡し要請を拒んだ。1ヵ月後、西ドイツはふたたび引渡しを要求した。これに対して、チリ政府は、新しい犯罪の証拠が提出された場合に限って、引渡し問題を再検討すると回答した。チリの裁判所は、ラウフはもう何年もチリに暮らしており、彼の振る舞いには咎められるべき点がないので、ラウフの引渡しはチリでの公共の利益とはならないと述べていた。

 合衆国政府が行動にでて、合衆国政府はナチ犯罪人を裁判にかけるべきであると考えているとチリに力説した。サンチャゴ政府は、ラウフを引き渡せとの強い国際的圧力に直面した。合衆国大統領レーガンとイギリス首相サッチャーも1984年に声明を発したが、チリの独裁者ピノチェトを動かすまでには到らなかった。ナチ・ハンターのBeate Klarsfeldはチリに出かけて、この問題に関する抗議運動を組織しようとしたが、治安を乱したとの理由で2度にわたって逮捕された。

 ついで1984年、イスラエル外務省長官David Kimcheがサンチャゴを訪れた。報道によると、彼は、ラウフは西側で暮らしている主要戦争犯罪人の1人であるから、彼を引き渡すようにとチリ政府関係者に促したという。彼の妻Ruth Kimcheは、自分の夫はそのようなことを記憶していない、自分たちはプライベートな用事でチリにやってきたと弁明している。イスラエルがラウフの逮捕にどの程度本気であったかどうかは、イスラエルはすでに1979年にチリに哨戒艇を売却し、その後、チリの軍用機を整備し、1984年には、まだ、そのメンテナンスを助けていたという事実から推し量ることができる。

 ラウフは1984年5月に肺ガンで死んだ。イスラエル大使館の声明は、何かほっとしたような調子である。「ラウフ氏問題は解決された。神が彼のことお裁きになった。」

 ラウフがイスラエルに情報を提供していた事実は以前から公表されていた。しかし、なぜかしら、この事実が報告されても、ナチ・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタールとBeate Klarsfeldが裁判にかけようと国際的キャンペーンをおこなっていた主役であった主要ナチ犯罪者対して、イスラエルが保護を与えていたことの道徳的な意味合いについての公の論争は喚起されなかった。同じように、有名な合衆国のホロコースト研究者Richard Breitmanも、ナチ戦争犯罪記録部局間作業グループ歴史研究所長としてラウフに関するCIAファイルを再検証したにもかかわらず、イスラエルの情報機関がアラブ諸国で組織的にナチを雇ったことを示唆する情報を無視している

 CIAの記録によると、ラウフの担当者はTed Crossであり、そのヘブライ名はDavid Magenであった。Crossは1948年にAsher Ben-Natan――モサドの前身である外務省政治部作戦部長――によって、地下活動に雇われた。Crossは数ヶ国語に堪能で、第二次世界大戦中はイギリス情報部に勤めていた。

 1年前、日刊紙Yedioth Ahronothに掲載されたGil Meltzerの記事によると、グロスという名の富裕なブダペストのユダヤ人家庭の出身であるCrossは、世界を股にかける冒険家、快楽主義者、女たらしであった。彼は、その派手な生活の代償として、麻薬に浸っていた。イスラエルは、彼が工作員としての情報をエジプトに売った――20万ドルの高額で――ことを知ると、彼を逮捕し、長期にわたって投獄した。彼は、釈放されると、レストランビジネスに着手し、とくに、Wimpyハンバーガー・チェーンの創立を助けた。

 Crossとラウフとの結びつきはイスラエル政府の責任のであろうか。それとも、二重スパイの個人的な発案だったのであろうか?CIAは、ラウフとイスラエル情報機関との結びつきの重要な詳細のことは知らなかったようである。

 1993年の過ぎ越しの祝いのとき、Shlomo Nakdimonは日刊紙Yedioth AhronothShalhevet Freierとのインタビュー記事を掲載している。1940年代末、Shalhevet Freierは外務省政治部の支局長で、1970年代には、イスラエル原子力委員会議長であった。その後、彼は死亡した。インタビューの中で彼は、イタリア外務省の友人がラウフのイタリア到着のことを打ち明けてくれてから、ラウフを雇ったことにまつわる事情を明らかにしている。Freierによると、ラウフはこの当時変名を使っており、ラウフを雇ったのは政治部であったという。インタビューにはCrossの名は登場していない。

 Freierは、Ben-Natanと政治部長がイタリアにやってきて、「シリア大統領顧問がローマにある部下の家に入っていくのを監視していた」とNakdimonに語っている。Freierはイスラエル情報機関の代表としてラウフに自己紹介した。ナチの犯罪者はまる1ヶ月かかって、シリア軍の配置についての報告を書き上げたという。

 Freierは、「ラウフは、質問に答えることができないと、補足的な情報をシリアの友人に求めた」と述べている。イスラエル政府はラウフにお金を支払っただけではなく、合法的なイタリアのビザを手配してやった。ラウフとその妻子はジェノアから南アメリカに渡った。彼は、報告の最後の部分を港でFreierに手渡したという。

 CIAは、ラウフがシリアでイギリス情報機関のために活動しており、その担当者にシリアの情報機関と政治警察の再組織化計画書のコピーを渡したとの情報を得ていた。ラウフは一時に何人かの主人に仕えていたようであるCIA文書によると、1949年11月ラウフはベイルートからローマにやってきて、ヴァルター・ラルフという名でPensione Telentinoに滞在した。ホテル側資料によると、彼は金に困っており、質素に暮らしていたという。また、訪問者もなく、電話がかかってきたのも数回であったという。ナチシンパのカトリック司祭がラウフに4万リラを与えた。1949年12月17日、ラウフはエクアドルに向かった。イスラエルとイギリス情報機関がチケットとパスポートを用意した

 1950年1月、Crossは、ラウフがイタリアを離れ、イスラエルの情報機関との関係を絶ったが、多くの興味深い文書を残していったとCIAの工作員に伝えている。Crossは、次にはこの文書を持ってくると約束したが、工作員の方は彼の話を真に受けなかったという。

 インタビューの中でFreierは、ラウフが自分に報告書を送り続けていた、「アラブ人が彼のことを信用しているので、彼のことを必要とする日が来ると信じていたために」ナチとの関係を維持していたとNakdimonに話している。

のちの国防省長官・駐仏大使・駐独大使をつとめたBen-Natanは、Freierがラウフを雇ったと言明しているが、これに関する報告を受け取ったのはこのことが既成事実となってしまってからのことであったと述べている。Ben-Natanは、今となってみれば、ナチ犯罪者との結びつきを持ったのは間違いであったと反省しているが、ラウフが非常に重要な情報を提供した点を強調している。

Ben-Natanは5年後の回想録では、この事件のことを別様に語っている。Freierは「旧ナチ将校をシリアに送り込むことに成功し、この将校は戻ってくると、シリア軍の配置についての情報を提供した」というのである。Ben-Natanはこの将校がラウフであったと明言しているが、どちらの話が正しいのかまったく明らかではない。回想録を書くにあたって、自分の記憶だけを頼りにしたという。

 ラウフを雇ったイスラエルは、彼の過去のことをどの程度知っていたのか?彼の犯罪の深刻さを知っていたのか?Freierは、ラウフがガス車と20万人までの死者の責任者であったことを知っていたのかとのNakdimonの質問に、知らなかったと答えている。

 

「過去について彼に尋ねると、彼は、自分はゲシュタポの将校で、イギリス・ポンドを偽造して、イギリス経済に大混乱を引き起こす作戦の責任者であったと語った。数年後、私は、アメリカ人が、ナチ高官のファイルを解読して、ラウフはゲシュタポの技術活動全体の責任者であったと述べているのをラジオで耳にした。」

 

 Freierが自分の雇い入れた人物の素性を知らなかったとは信じがたい。1945年5月2日、「お尋ね者のミラノSS長官、悪名高いラウフ大佐が捕まった」ことを多くの新聞が伝えているからである。1945年10月19日、アメリカ軍に捕らえられていたラウフは、ガス車でのユダヤ人の殺戮に関与したことを認める宣誓供述書に署名した。この文書は、ユダヤ人の大量殺戮にまつわる技術的問題に触れている彼の部下アウグスト・ベッカーからの書簡とともに、ニュルンベルク裁判に提出された。この件とは別に、ラウフの名前はニュルンベルク裁判記録に31回登場している。このような情報をすぐに手に入れることができたはずである。ニュルンベルク裁判の首席検事代理であったユダヤ系アメリカ人ロバート・ケンプナー博士や、この裁判を傍聴していたユダヤ人傍聴人とコンタクトするだけでよかった。この時期のヨーロッパでナチの戦争犯罪人の情報を集めていたBen-Natanは、このような情報をすぐに手に入れることができたと明言している。

 ラウフがSSによるイギリス紙幣偽造計画に関与していたことに触れていることは、Freierが関与していた別の作戦にも疑問を投げかける。終戦時、偽造計画の中心人物の一人、Jacques Van Hartenという名のユダヤ人が北イタリアでパレスチナからやってきたユダヤ人兵士と接触し、保護の見返りとして大量の偽造紙幣を渡しているからである。(2000年、この事件の記事が本誌に掲載された。)

 Van Hartenは大量の紙幣とともに、大量の宝石も持っていた。Freierの助手Shmuel Ossiaは、FreierがVan Hartenに彼の過去のことをしつこく尋問したと証言している。尋問は数日間続き、脅えたVan Hartenのことを廊下で見かけたというのである。Van Hartenは、ヒムラーの特使で、ハンガリー系ユダヤ人の財産の略奪に責任を負っていたクルト・ベッヒャーを自分が助けたことを供述し、偽造されたイギリス紙幣がどこに存在するのかを自白したにちがいない。のちに、この紙幣は、Van Hartenのおかげで、イスラエル国防軍の前身であるハガナによる非合法の移住と武器購入作戦の重要な資金源となったのであろう

 FreierVan Hartenの振る舞いをどの程度知っていたのかについては、非合法移住作戦(Aliyah Bet)の指揮官たちが明らかにしているだけではなく、彼自身が、1966年歴史家Nana Sagiのインタビューの中で、なぜVan Hartenの名がカストナーとアイヒマン裁判に登場してこないのかと、無知を装って話している事実からもわかる。Sagiは、なぜ広い人脈を使ってこの問題を公にしようとしないのかとFreierに尋ねてはいない。

 アメリカ人は、ナチ戦争犯罪人の逃亡教唆の嫌疑でVan Hartenをイタリアで逮捕した。1948年以前のパレスチナのユダヤ人共同体の地下組織で、パレスチナへのユダヤ人の非合法移住を担当していたMossad l'Aliya Betは、Van Hartenを釈放させようとした。Van Hartenの逮捕理由を知っていたハガナ組織の兵士Yitzhak Tamariは、イタリアのハガナ軍団の司令官Eliahu Ben Hur (Cohen). Ben Hurに抗議した。のちにイスラエル国防軍の将軍となるEliahu Ben Hurは、Van Hartenには保護が約束されており、紳士というものはいつも約束を守るものだとTamariに語ったという。

 1946年にVan Hartenが釈放されると、Ben Hurはテルアビブ消防長官であった父のAbba CohenにVan Hartenがパレスチナに順応するのを助けるように指示した。Van HartenはCarmel市場近くのNahalat Binyamin通りに宝石店をかまえた。1973年、彼は、戦時中には自分の金と人脈を使ってユダヤ人を助け、彼らのために、とくに宝石を持ち出した尊敬すべきビジネスマン、Savyonコミューニティの住民として死んだ。彼の家族は、2000年に記事が掲載された後も、この話を信じていた。だが、宝石店は、記事が掲載されるとすぐに閉じられた。

 Freierも、イギリスがVan Hartenを移送しようとしていた1947年に、彼のことを助けた。彼はVan Hartenとイェルサレムの弁護士Mordechai Eliashとを接触させた。そしてまた、ユダヤ・エージェンシー外務大臣代理Golda Meyerson (Meir)は、Van Hartenは、ユダヤ人を公に助けてきたがゆえに、国家樹立直前のユダヤ人共同体の保護下にあるとの書簡をイギリスに送っているが、Freierは、この件にも関与しているのであろう。

 しかし、アイヒマンに匹敵する犯罪者であるラウフに比べれば、Van Hartenは小さなハエにすぎなかった。だから、ラウフを裁判にかけることに尽力していたKlarsfeldが、ラウフがイスラエル情報機関に雇われていたこと、ヨーロッパからの逃亡にあたってその支援を受けていたことを聞いたとき、おもわず受話器を落としたとしても不思議ではないKlarsfeldはメールにこう記している。

 

1984年、チリでラウフの引渡しキャンペーンを展開していたとき、彼とモサドとの『関係』のことをまったく知りませんでした。そんなことがありうるのかと思っていました。ラウフは、トラックを使ったガス処刑計画への関与、チュニジア・ナチ警察長官時代のユダヤ人迫害、ミラノ・ナチ警察長官時代のユダヤ人迫害のために、ユダヤ人社会では有名だったからです。」

 

 同じく、カリフォルニアに本部のあるサイモン・ヴィーゼンタールセンターイスラエル課長Ephraim Zuroffも、Freierがラウフの犯罪のことを知らなかったことなどありえないと考えている。

 

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