試訳:チクロンB投入装置の検証

R. H. カウンテス

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2006年4月28日

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Robert H. Countess, The Kula Kolumn - Exactitude in Action, The Revisionist, 2004, No.1を「チクロンB投入装置の検証」と題して試訳したものである。(文中のマークは当研究会が付したものである。)

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://vho.org/tr/2004/1/Countess56-61.html

 

[歴史的修正主義研究会による解題]

ホロコースト正史によると、ビルケナウの焼却棟UとVでは、チクロンBは死体安置室1の天井に開けられた穴から、いわゆる「チクロンB投入柱」(三重金網柱)を介して、室内に投下されたことになっている。しかし、この「チクロンB投下柱」には、その実在を示唆するような現物も、現物の残滓も、設計図もなく、この「チクロンB投下柱」を製作したと自称する囚人クラの戦後証言が残っているだけである。修正主義者のカウンテスは、このクラ証言にもとづいて実物模型を製作し、その非合理性を明らかにしている。

 

 

はじめに

 フランスの大学教授ロベール・フォーリソン博士は、1974年3月23日、パリのCentre de documentation juive contemporaineに手紙を送って「私にナチのガス室を見せてください、もしくはそれを描いてください」と求めたが、それ以来、この要求はあれこれのかたちをとって再三繰り返されてきた。

 フォーリソンはこの手紙の中でヒトラー一派のガス室が神話であるのかそれとも現実であるのかを尋ねている[1]。この件についての彼の話を聞いたことがあるが、それによるとこうである。非常に協力的なフランス人女性が、髪の毛、靴、メガネ、入れ歯を写した写真集を持ってきてくれた。フォーリソンは「ヒトラー一派の[殺人]ガス室」を実際に写している写真を穏やかに求めた。しかし、彼女は最後には、そのような写真を差し出すことができないことを認めた。

 フォーリソンは研究文献およびアウシュヴィッツの第一次資料を熱心に研究し、また現地ポーランドにも訪れている。こうしたフォーリソンの活動に対して、フランスのメディア、ユダヤ人ホロコースト物語作者、法律家、政治家、学者たちは例外なく、人格的な攻撃を加え、この種の質問をするのはヒトラーとナチズムの名誉を回復するためだとまで言って、彼を非難した。このような人々は国際的な学術調査の実施に否定的な姿勢をとっている。そのために、私は彼らのことをそれこそ「否定派」と呼んでいるのであるが、彼らは、殺人ガス処刑施設の実在はニュルンベルク裁判によって明確に確証されている、そして、その他の法廷が、「法廷に顕著な事実」にもとづいてその実在を明らかにしていると主張している[2]

 もちろん、フォーリソンは、水が0度で凍結するという科学的分析結果を「法廷に顕著な事実」として受け入れることであろうが、2004年1月25日という彼の誕生日の時点で、彼にヒトラー一派のガス室の実在を認めさせるには、物理学者チームによる法医学的調査が科学的にその実在を確証することが必要であろう。

 

ペルトの著作『アウシュヴィッツ事件』

 ユダヤ人ホロコースト歴史物語作者たちは何年にもわたって、フォーリソンを無視してきたが、思想史の分野で博士号を持つオランダ系ユダヤ人ロベルト・ヤン・ファン・ペルト「建築学教授」が、フォーリソンの質問・要求に答えなくてはならないことにやっと気づいた。

 ペルト博士はフォーリソンに対決するための物的証拠として、三重金属網チクロンB投入柱をふくむ、きちんとしたかつ印象的な死体安置室の想像図を提出した[3]。ビルケナウの焼却棟UとVの死体安置室に4つずつ、合計8個の殺人装置を製造したのはポーランド人カトリック教徒の囚人ミチャル・クラであったという。したがって、キリスト教徒のクラは殺人の共犯者となった。

しかし、「クラの柱(Kula-Kolumn)」(頭韻を踏むために、columnをkolumnと綴ることにした)に関するペルトのプレゼンテーションは、写真やオリジナル設計図、もしくはこのような死の装置についてのオリジナル資料にもとづく図面ではなく、クラの証言にもとづいてマーク・ダウニング(194頁)とスコット・バーカー(208頁)が作成した「想像図」にすぎない。ただし、非常に印象的な絵である。

 

R. J. van Pelt, The Case for Auschwitz, p. 194.[歴史的修正主義研究会による補足図版]

R. J. van Pelt, The Case for Auschwitz, p. 208. [歴史的修正主義研究会による補足図版]

 

フォーリソンはヒトラー一派のガス室の写真もしくは図面を求めていたが、ペルトの対応はそれに積極的に応じようとしたものであった。それゆえペルトの研究は学術的であり、分析と検討の対象となりうる。

しかし、これらの8つの柱のどれ一つとして現存しておらず、その信憑性を検証できるような断片や文書資料もアウシュヴィッツその他には存在していないので、目撃証言だけにもとづくこの復元図が確固とした証拠であるかどうかという疑問が生じる[4]。さらに、4年半の懲役を宣告されている囚人を信用できるかどうかという疑問が生じる。彼は、ドイツ側当局者に敵意を持っていなかったであろうか、ドイツ人に復讐の暴力をふるったグループに属していなかったであろうか[5]。また、彼は1945年6月11日に、意識的にポーランド共産党当局を手助けし、ドイツ人に不利な証言を行なって、この柱の目的は無実の人々の殺害であると証言しなかったであろうか。

ユダヤ人ホロコースト物語では、囚人の特別労務班がガス処刑や焼却でその役割を果たし終えると、彼ら自身も殺されて焼却されてしまい、結果として殺戮の目撃者はほとんど存在しないことになっている。しかし、ミチャル・クラは、この「世界の肛門」と呼ばれた場所で、4年以上も生き抜いている。おそらく、彼が2004年の時点に生きていて、インタビューに応じることができたならば、まったく別の物語、すなわち、自分は熱心にドイツ人に協力して、赤軍が1945年1月27日にアウシュヴィッツ・ビルケナウに進撃してくる前の収容所の閉鎖という事態を生きのびたという物語を話してくれるであろう。

ペルトの著作の206頁には1945年6月11日のクラの証言[6]の英訳(不完全)が掲載されている。クラは、収容所長ルドルフ・ヘスに対する戦後の共産党裁判のために、尋問官に技術的細部を供述している。クラは、金属加工の専門技師とみなされていたので、かなり詳しい寸法までも供述している。あとでこの問題に立ち戻ろう。

ペルトの著作は大部なものであり、非常に技術的で、文書資料にもとづいており、うまく編集され、その装丁も良質である。また、質のよい図面や写真も掲載している。しかし、どのような理由からかわからないが、非常に奇妙なことに、納税者の負担で、アメリカの大学出版局から刊行されている。

 

公開討論

 このような討論が行なわれるとすれば、その論題は、「アウシュヴィッツ・ビルケナウには、シアン化水素を含んだチクロンBを使ってユダヤ人その他の人々を殺害するためにとくに建設された殺人ガス室が実在したかどうか」となるであろう。

 そして、フォーリソン教授が実在していなかったという立場にいれば、絵やスケッチ、漫画ではない物的証拠を要求することであろう[7]。一方、推測することができるだけなのであるが、ペルトが実在していたという立場にいれば、彼がその証拠として提出してくるのは、スケッチや絵、漫画であろう。しかし、その大半がクラその他の「目撃証言」にもとづいているものであり、その「証人」ときたら、スターリン主義的な「見世物裁判」ではない適切な法廷で、反対尋問など一度も受けたことなどない人々なのである

 カナダのトロントで開かれた有名なツンデル裁判では、著作や専門家証言で殺人ガス処刑を目撃したと証言していたルドルフ・ヴルバ博士とアーノルド・フリードマンが、結局は、目撃していないことを認めざるをえなかった[8]。フォーリソンならば、このスター証人に対する反対尋問と同じようなやり方で、クラに対しても反対尋問を行なうことを要求するであろう。

 しかし、クラは1913年生まれで、生きていたとしても、2004年の時点では91歳であり、理性的な証言を行なって、反対尋問を受ける能力を失っていることであろう。

 

いわゆる「目撃証人」問題

 最初の質問はもちろん、クラは信用できるのかということである。彼はどのような動機からポーランド共産党当局に証言を行なったのか。共産主義者の法廷は、クラの告発の信憑性を検証する科学的調査を実施したかどうか。クラその他の人物は、ドイツのアウシュヴィッツ武装SS・警察中央建設局の図面、青写真、その他の文書資料――これらの装置が作られたことを立証するような――、資材の発注書、その費用文書を提出しているのか。しかし、ペルトのような人物がわれわれにいつも語っているのは、ナチの犯罪を立証する「証拠の山」、「数百万の文書資料」が存在しているということだけである

 しかし、クラの名前をあげている一つの文書がある。だとしても、クラは1945年6月11日に真実を証言したと信用することができるのか、それとも、彼による詳細な金属柱物語はドイツ人に対する復讐心から捏造されたものであるのか、どちらなのであろうか。

 

クラの記述にもとづいてプレサックが描いた伝説の「チクロンB投入柱」の図

 

 証人としてのクラの信憑性を検証する材料がある。それは、彼が囚人宿舎から目撃したというガス処刑についての証言である。彼は、ガス処刑された犠牲者の死体が運ばれていくのを目撃したという。

 

私は、それら[死体]が緑がかっているのを見た。看護婦は、死体がはじけ、皮膚がはがれたと話してくれた。

 

 この証言について、ルドルフが的確にコメントしている[9]

 

「チクロンBの犠牲者は緑がからない(赤みを帯びる)。死体がはじけ、皮膚がはがれる理由はまったくない。これは虐殺宣伝に他ならない」

 

 だが、ペルト教授博士はクラを『アウシュヴィッツ事件』の中で重視し、ポーランド共産党の法廷に提出された技術データを、事実として、ひいては科学的真実として受け入れている。

 

アウシュヴィッツ金属作業場でのクラの文書資料

 ペルトは以下のものを提供できたにちがいないのだが、結局、提供しないことを選択した。イタリア人研究者マットーニョは2002年の論文の中で、ポーランドの判事ヤン・ゼーンが、作業発注数のリストをヘス裁判のために作成、クラが証言した6週間ほどのちの1945年7月25日にこのリストを遺漏なく提出したと述べている。

 1942年10月28日からはじまるWerkstättenleitung Schlosserei(金属作業場)のための85ほどの作業発注書があるが、そのうちの一つ、1943年5月20日の443番は、「Hersteller(製造人)」と呼ばれている「クラ」による資材注文である。彼は、「kopl Verbindungstücke für Gummischlauch」の修理のために二つの資材部品を請求していた。その注文には「Dringend(至急)」と記されており、「Röntgen-Station im F.L.(ビルケナウ女性収容所病院レントゲン部)」のシューマン教授に送られることになっていた。この文書によると、クラが仕事を完了したのは1943年5月21日である[10]

 もしも、焼却棟UとVのために8つのガス投入柱を製造したというクラの証言が真実であるとすれば、さまざまな大きな金属網を大量に製作するための資材、ねじ、ボルトとナット、溶接ロッド、木造の支え台などの発注書が金属作業場に残っているはずである。その一方で、焼却棟が殺人施設に改造された証拠であるとペルトがみなしている「ガス気密ドア」の発注書は残っている。それゆえ、もし、チクロンB投下柱を製作するための資材が実際に注文されたのであれば、その資材発注書を当然、殺戮計画を立証する証拠として提出できるはずであるが、ペルトはそのようなことをしていない

 クラが1945年6月11日にゼーン判事の法廷で証言しているとき、彼は、自分が偽証していることを知っていたにちがいない。そして、ペルトがやはり信頼している、反乱共謀仲間タウバーも金属柱について同じような証言をしている[11]

 インターネットのサイトwww.holocaust-history.org/auschwitz/intro-columnは、Harry Mazalの研究に多くを依存しており、「クラの柱」に最大限の信憑性を与えている。さらに、「1944年10月14日」の日付のある、ガス室の木造煙突カバーをもった「ソ連軍人」のモノクロ写真(The Illustrated London News 442頁から)もある。

 赤軍がアウシュヴィッツに到着したのは1945年1月27日頃のことであるので、収容所の解放4ヶ月前に、「ガス室」の天辺に登っているソ連軍兵士を写した写真を、一体どのようにして撮影したのであろうか?

 このサイトHolocaust History Projectの存在理由は、フォーリソンが数十年の長きにわたって、ナチのガス室を見せてくれと要求していることにあるのであろう。マザルや彼の仲間たちは、偽造、捏造しても、そして、真実を抑圧しても、ナチのガス室が実在したと見せかけようとしているのである。そして、ペルトも、このような妄想にふける人々と同様の、意図的な捏造実行犯であるにちがいない

 クラについての最後のコメントは、ダヌータ・チェクが彼女の重要著作『アウシュヴィッツ・カレンダー』の51頁で、囚人番号2718の彼のことを触れていないことである[12]。非ユダヤ人のクラはほんの末尾の脚注に登場しているだけであり、ユダヤ人の行く末を証言しているにすぎない。

 

「クラの柱」の模型

製作中の「クラの柱」、2002年8月24日、アラバマのカウンテスの自宅の自動車への道、編集長ルドルフとともに。

「クラの柱」の自作模型を公開するカウンテス博士、シンシナティでの2002年真実の歴史会議。

 

 ペルトの著作が出版されたのは2002年2月であり、私は4月18日にそれを手に入れて、黒ペン、赤ペン、蛍光ペンをつかって、余白などにメモを書き込みながら、この著作を読み通し始めた。小さな活字の大部な本であり、魅力的であった。彼は、あちこちでアーヴィングを攻撃しているが、それは意味のあることであった。第三章「意図的証拠」にまで進んだとき、いくつかの挑戦的な資料が水平線上にあることを知った。(Black's Law Dictionaryには「意図的証拠」という項目はないが、「意図」とは特定の行為を行なうプランという意味であろう。)

 ペルトにとっては、この第三章こそが、彼によると死体安置室としてカモフラージュされている地下死体安置室の殺人ガス室という物理的装置を使って絶滅しようとするドイツ側の計画を立証する証拠である。ペルトは、彼以前の研究者のように、フォーリソンの要求を無視していないはずなのだから、読者は、フォーリソンの求め「私にナチのガス室を見せてください、もしくはその図面を描いてください」に対する確固とした答えが登場することを期待している。

 私は、この著作の書評を準備し、「ロベルト・ヤン・ファン・ペルトの反修正主義的研究『アウシュヴィッツ事件、アーヴィング裁判からの証拠』の批判的考察」と題して、2002年6月21-23日にカリフォルニアで開かれた歴史評論研究所第4回大会で発表した。私はペルトの大部な著作を高く評価している一方で、彼の「証拠の収斂」論は、「証拠の分散」論であり、好意的にいえば素朴な方法、率直にいえば不誠実な方法という結論を下した。

 イギリス人歴史家アーヴィングの主催で2002年8月30日-9月2日にシンシナティの近くで「真実の歴史第4回総会」が開催されることが伝えられると、私はペルトによる「クラの柱」の実物模型を製作するというアイディアを発表した。そうすれば、たんなる言葉だけの批判の代わりに、実物模型を手にとって「真実の歴史」のために検証し、「チクロンB投入装置」のリアリティについて結論を下すことができるからであった。

 アーヴィングはこのアイディアに好意的であった。そこで、私は、出版仲間のルドルフと、ユダヤ人ホロコースト物語を検証する分野の専門家たちにこの件を相談した。そして、7月まで、金属加工の専門技術を持っていないにもかかわらず、実物模型の製作に没頭した。

 

基本的仮定

 実物模型を製作するにあたって、 「チクロンB投入装置」が本当のものであるにせよ、捏造されたものであるにせよ、いまだ物理的な実験によって検証されたことがないという前提から出発した。以下が、作業の前提となった仮定である。

 

       ペルトの技術データは、彼が1945年のへス裁判のポーランド語資料、もしくはその他の言語の資料から適切に取り出したメモにもとづいて、彼の著書『アウシュヴィッツ事件』に適切に掲載されているということ。

       クラは、SSが製作を依頼するほどの技術的能力を持っていたということ。

       クラは、自分の収容所体験を詳しく法廷で証言する精神的能力を持っていたということ。

       「チクロンB投入柱」の製作はSSが考えたものであり、SS当局はその製作を指示し、正確な図面を提供し、製作に必要なすべての資材、人員、作業スペースを用意したということ。

       このような製作図面は一つも現存していないので検証不能ということ。そのような図面が現存していたとすれば、ペルトが助手に復元図の製作を命じて、それを『アウシュヴィッツ事件』の中に掲載する必要はないからである。(ペルトの本はロンドンで開かれたアーヴィング・リップシュタット裁判のために執筆されたものであり、もしも、実際の本物の図面を発見していたとすれば、それを法廷に提出して、リップシュタット教授を熱心に弁護したことであろう。)

       SSの処刑技術専門家は、チクロンB投入装置のコンセプト・設計・製作が的確なものであるかどうかを確かめるために、この装置を実験室や戸外でテストしたはずであるということ。(死刑囚を電気椅子で処刑しようとする刑務所は、それが的確に作動するかを、十分に実験・検証することであろう。)

       このような戸外実験を行なう場合には、建築技師はコンクリートの屋根に開けられた穴の下にこの装置を設置しなくてはならず、その作業に取り掛かる前に、ビルケナウUとVの鉄筋コンクリートの屋根に8つの穴を開けるという作業を行わなくてならないということ。

       クラ自身はアウシュヴィッツという小さな町出身の金属加工師であり、このような新しい装置を設計できるような設計技師ではなかったということ。

       このような装置を製作するにあたっては、特別な資材が大量に必要であり、そのために、クラは例えば発注書のような「紙の痕跡」が残るものを使ったであろうということ。

       16インチほどの大きさの8つの穴は、熟練工が厚さ数インチの鉄筋コンクリートを切断することで開けられるということ。この鉄筋はこぎれいに切断されなくてはならないということ(穴から出た部分を曲げるというような粗雑な作業であってはならない)。粗雑な作業をするハンマーや掘削方法ではなく、切断装置とアセチレンガスが使われるということ。この作業は、収容所の住民がこの新しい犯罪活動に気がつかないようにするために、夜かもしくはカモフラージュして行われるということ。

       この8つの大きく重い柱は、一つのユニットとしてではなく、部分ごとに分解されて運ばれるということ。そうでなければ、全長が非常に長い四角形の柱を直立させることはできない。[ペルトやエリー・ヴィーゼルのような人物が製作と修理に時間を費やした人物であれば、このようなことを考えたにちがいない。そのようなことを考えなかったので、フォーリソンは、彼らのような人々を[紙の上の歴史家]と批判したのである。]

       これらの8つの三重金属網柱は、赤軍が1945年1月27日に到着する以前に焼却棟の死体安置室から取り除かれたはずであり、のちの戦争犯罪裁判で、その作業に従事し、この件について証言するドイツ人がいたはずであるということ。もし取り除かれていなければ、ソ連の役人はこの柱を保管するか、少なくとも、「ヒトラー一派の殺人者」を告発する証拠として写真にとっておいたであろうということ

       ビルケナウの焼却棟は赤軍がやってくる数週間もしくは数ヶ月前に破壊されたということになっているが(アウシュヴィッツ中央収容所の焼却棟Tはダイナマイトで爆破されていない、アーヴィングは焼却棟Tが「戦後の再建」と述べているが、混乱しており、彼自身が「紙の上の歴史家」であることを暴露してしまっている)、その間の事情は十分に説明されていないということ。「SSは自分たちの重大犯罪を隠匿するために焼却棟を爆破した」という説もあれば、囚人が反乱を起こして、手に入れた大量の爆弾で焼却棟を爆破したという説もある。だから、赤軍が役に立ちそうな装置をすべて取り外して、そのあとで、ダイナマイトで爆破したとも推測できるということ(赤軍の工兵は、重いコンクリートの屋根を持ち上げる爆破技術とダイナマイトの量を持っていた)。

       焼却棟UとVの死体安置室の屋根の上にあったはずである8つの四角の穴は、もし存在していたとすれば、たとえ、ダイナマイトで爆破されて損傷を受けていたとしても、今日でも、発見できるはずであるということ(ビルケナウに二度目に訪れたとき(2001年6月)、いくつかの曲がった鉄筋の切り株状のものを発見した。アセチレンガスで切断されたと思われる粗雑な切り株状のものもあった。熱狂的なホロコースト信者は少なくなりつつあるが、彼らの残りかすは、この切り株状のものを、穴が実在した「証拠」、「犯罪の痕跡」とみなそうとしている。修正主義者のCharles Provanも穴を発見したとする研究を発表しているが[13]、真剣な研究者であれば、この説を信用しないであろう)。

       過去の重要な歴史上の事件(一般的に「歴史」と呼ばれる)は「二重解釈」と呼ばれる問題に直面していること、すなわち、同一の事件に関与していたとしても、異なった人々であれば、この事件のことをまったく異なって解釈するであろうということ[14]。それゆえ、クラがアウシュヴィッツの金属加工作業所で実際に、三重金網柱を製作したとしても、犯罪目的ではなく、良いことを行なう目的で使われた可能性もあるということ。

       完全とはいえない「クラの柱」の自作模型は、共産主義者の判事ヤン・ゼーンによる1945年のポーランド共産党裁判以来、はじめて実施された、この装置の信憑性に関する実験である、すなわち、この論争を呼んでいる時期に「実際には何が起こったのか」(ランケ)を知ろうとする理性的な試みであるということ。この模型を製作した私は、「殺人ガス室」の実在性の是非に関して、公の判断を待っているということ。

       アウシュヴィッツに送られた110万人ほどの人々のうち、200000人前後の人々が生き残り、それゆえ、殺人ガス処刑の目撃証人たりえたということ。ユダヤ人ホロコースト物語の作者たちは、ナチスは自分たちの犯罪の痕跡をすべて消し去ってしまったと語っているのであるから、タウバー、クラ、ヤンコフスキ、ドラゴン、オレールその他といった最重要証人は、本来ならば、生き残って、自分たちの「目撃した」大量ガス処刑のことを証言できるはずがなかったということ

       クラのカップ/ボールは、各柱につき3ポンドのチクロンBの丸薬を保持していたが、丸薬の一番上の層だけが、循環する暖かい空気に触れた場合に、致死性ガスを効果的に放出したはずであるということ。これらのコンテナーの側面は閉ざされているので、丸薬が循環する空気に触れることはなく、その放出量も少なくなってしまうので、丹念に計画された方法が使われたという割には、その結果はさして効果的ではないということ。だから、クラの証言が正しいとすると、膨大な量のチクロンBが消費されることになり、未使用の量をふたたび缶に詰めるか、安全区画で廃棄物処理の対象となるということ。

       私の裁定では、クラの証言にもとづいてガス処刑が実行された場合、大量のチクロンBが未使用のまま浪費されることになり、この大量の未使用部分はふたたび缶に詰められるか、安全な区画で消費されなくてはならないということ。たとえクラが8つの柱を製作したことが立証されても、数千ポンドの未使用のチクロンBがガス処刑のたびごとに集められ、ゴミ捨て場――地下水位問題がSSの技術者を悩ませていたビルケナウから隔離された場所――に搬送されなくてはならなかったということ

       もしも、SSの中央建設局が焼却棟の中に大量ガス処刑装置を設置しようとしていたとすれば、SSの技術者たちは、屋根の天井に、8-10インチほどの深さを持つ単純な籠を簡単かつ効果的に作ったにちがいないということ(これは「クラの柱」についての私の分析、および私の分析に対するゲルマール・ルドルフの賛同にもとづく)。小さな穴のついた網の籠であれば、チクロンBの丸薬は下に落ちることなく、十分な換気装置を使って、シアン化水素を効果的かつすみやかに放出させるであろう。すなわち、SSは実験室での実験、戸外実験によって、ペルトも認めている「クラの柱」を使った大業で非効率的な方法よりも、はるかに単純、安価、効果的な大量絶滅方法を思いついたにちがいないのである[15]

       建設部に所属していたクラその他の囚人たちは、SSがベルリンの本拠地を持つジーメンス・シュッカート産業の設計した高周波害虫駆除装置をアウシュヴィッツに設置したことを知っていたにちがいないということ[16]。この高価な新装置を使えば、近代的な高周波技術によってすみやかかつ効率的に衣服の害虫駆除が可能であった。この技術は、1936年のベルリン・オリンピックのときに、ドイツが、ラジオトランスミッターの周囲で昆虫が死んでいることを知ったことがきっかけとなって、高周波がシラミを駆除するのに有効な方法であることを発見したことから生まれていた。クラと彼の仲間たちは反ドイツ感情を抱いており(彼らは自分たちの意志に反して収容所に収容されていたので当然である)、SSを中傷しようとする、ひいてはどのような施設であっても破壊しようとする意図をもっていたので、正確な寸法を持った「三重金網柱」の存在を捏造したにちがいない。知的な囚人たちには、自分たちを逮捕・迫害したドイツ人たちに「どのように復讐する」のかを考える十分な時間があったにちがいないのである。ペルトはジーメンス・シュッカートの高周波装置についてまったく触れていない。このことは、リップシュタットを弁護するにあたっての彼の調査が徹底していないこと、もしくは、ドイツ側の無罪を証明してしまいそうな証拠を意図的に差し控えようとしていたことを示している。また、ペルトは、アーヴィングと一緒にビルケナウに出かけて4/8つの穴を調査することを拒んでいるが、このことは、ペルトおよびリップシュタット弁護チームに科学的姿勢が欠けていること、ならびに、リップシュタット教授自身が技術的問題には疎いことを明らかにしていると同時に、「隠されている論点」についての問題を提起している。

       「クラの柱」の実物模型を作って、真実の歴史会議の席上でそれをプレゼンテーションしたことから出てくる結論は仮説にすぎないということ。歴史的・科学的研究にもとづく結論はいつも条件付であるがゆえに、仮説であるからである。誠実な化学者・歴史家であれば、新しく発見されたデータを受け入れて、このデータをもっとうまく分析する方法をいつも考察しなくてはならないからである。

 

結論

 私がこれから申し述べようとすることはフォーリソン氏の「exactitude(厳密さ)」という概念にもとづいていると、本小論の冒頭で指摘しておいた。フォーリソン氏は2003年9月29日のメールの中で、「exactitude(厳密さ)」という概念を「la verité mais au sens de verité verifiable」と定義している。「真実、しかし検証しうる真実という意味で」と訳すことができよう。したがって、私による「作動中のexactitude(厳密さ)」はフォーリソン教授博士に捧げられたものである。しかし、不完全な実物模型にどのような間違いがあろうと、そこからの憶測にどのような間違いがあろうとも、それは、私自身の責任である。

 真実の歴史会議の主催者は2002年9月10月、私のプレゼンテーションが終わったのち、「私たちの週末のセッションに大きな貢献をしてくださいましたが、お礼を申し上げる機会がありませんでした。…本当にありがとうございます」と書き送ってくれた。

 フォーリソン氏と1987年10月10日、第8回歴史評論研究所大会で最初にお目にかかってから15年たった。そして、その間も親交が続いている。このことに「ありがとう」、「もう一度ありがとう」と申し上げたい。私は、ハントビルのアラバマ州立大学で歴史を教え、その中で、大学教授として始めて、10週間にわたって、バッツの『20世紀の詐術』をテキストとして使った。土曜日の午後の講演の中で、その体験に触れつつ、話を終えたとき、フォーリソン博士は真っ先に立って、熱狂的に拍手し、そのあとに聴衆が続いた。私はそのことに非常に驚いた。教室の中で、普通の大学教師として当然のこと、すなわち、歴史学上の論点について異なった解釈に触れるという機会を学生たちに提供したにすぎないと思っていたからである。しかし、フォーリソン氏の言うところでは、私が成し遂げたことは驚くべきことであり、まったく「尋常のこと」ではないとのことだった。

 1994年9月10日、私は、ハントビルのアラバマ州立大学のキャンパスにあるロバート・ホールでの講演会にフォーリソン氏を講師として招待した。テレビ・カメラ、新聞記者、大学広報係、大学の守衛、60-76名ほどの学生とレジデントが待機していた。地元の金持ちのユダヤ人スクラップ金属ディーラーが最前列にいた。私はこの人物を何年も前から知っていた。彼はフォーリソンと握手することを拒んだ。

 こうした恥ずべき憎悪の表現よりもはるかに興味深かったのは、フォーリソン氏が講演は最後にはキャンセルされると1週間ずっと述べていたことだった。私は、そんなことにはならないだろうとフォーリソン氏に保証した。ホールの利用について大学と契約していたし、ハントビル「ロケット・シティ」(フォン・ブラウン博士がこの町を世界のロケット工学のセンターとしていた)の住民たちは、そのような振る舞いをしないだろうし、そのような振る舞いを許さないだろうと考えていたためであった。たしかに、抗議を表明する人々は存在していたが、こぎれいな身なりをして抗議文を手渡すだけであり、すべてが穏やかに進んだ。

 フォーリソン氏はすべてがうまく進んだことに驚いていた。一両日後、私たちは、私の妻の手作りのオクラ入りスープに対する心地よい思い出とともに、フォーリソン氏をフランスに見送った。

 私と妻は、フランスのヴィシーにいるロベール・フォーリソン氏の75歳の誕生日を心から祝福し、「フォーリソンには長生きさせない」と20年以上も前に宣言したヘイトモンガーたちの期待に反して、いつまでも長生きしてくださることを望んでいる。

どうか、ご健勝で!ロベール

 

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[1] Ecrits Revisionnistes (1974-1998), vol. I, "1974-1983," Edition Privée Hors-Commerce, 1999, p. 4.

[2] "A court's acceptance, for purposes of convenience and without requiring a party's proof, of a well-known and indisputable fact; the court's power to accept such a fact - the trial court took judicial notice of the fact that water freezes at 32 degrees Fahrenheit -. Fed R. Evid. 201. Also termed judicial cognizance; judicial knowledge." From Black's Law Dictionary, abridged seventh edition, St. Paul, MN: West Group, p. 684.

[3] Robert Jan van Pelt, The Case for Auschwitz. Evidence from the Irving Trial, Bloomington, IN: Indiana University Press, 2002, pp. 194, 209.

[4] Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, New York: The Beate Klarsfeld Foundation, 1989. プレサックは487頁にクラの装置のスケッチを掲載している。しかし、もっと重要なことは、問題の死体安置室の換気システムの部品であったとされる金属網と板の写真をいくつか掲載していることである。ドイツ人は。HCNの侵食した金属片という犯罪の「痕跡」を残したままにしている一方で、なぜ、8つの大きなクラの柱を完全に取り除いたのであろうか?

[5] イタリア人研究者マットーニョによると、クラはヘンリク・タウバーとともに1945年1月18-21日からビルケナウに収容されており、反乱を企てようとしていた組織に属していた。また、クラとタウバーには8つの三重金属網柱の物語をでっち上げる十分な時間と危害があったという。"Keine Löcher, keine Gaskammer(n)," Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung, 6(3) (2002), p. 302.

[6] Höß trial, vol. 2, pp. 99-100.

[7] Such as the many cartoon drawings by the French Jew David Olère found in Pressac's Auschwitz, op. cit. (note 4), p. 488 and elsewhere. Van Pelt, Case, op. cit. (note 3), pp. 173-485, offers Olère's cartoons as if they constitute material evidence.

[8] Robert Lenski, The Holocaust on Trial. The Case of Ernst Zundel, Reporter Press: Decatur, AL, 1989, pp. 20ff.

[9] Germar Rudolf, The Rudolf Report, Chicago, IL: Theses & Dissertations Press, 2002, p. 131. 試訳:ルドルフ報告、アウシュヴィッツの「ガス室」の化学的・技術的側面についての専門家報告

[10] Mattogno, op. cit. (note 5), p. 302.

[11] Van Pelt, Case, op. cit. (note 3), pp. 188f.

[12] Danuta Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945, Hamburg: Rowohlt Verlag, 1989, p. 51. 囚人番号2718は、クラのものである。彼は、逮捕されて、1940年8月15日にアウシュヴィッツに連れてこられた。しかし、共産主義者のチェクは、1059頁にもおよぶ大著の中で、非ユダヤ人よりもユダヤ人に関心を向けている。クラが登場するのは、ユダヤ人についての証言に関連する956頁の注においてにすぎない。

[13] Charles D. Provan, No Holes? No Holocaust? A Study of the Holes in the Roof of Leichenkeller 1 of Krematorium 2 at Birkenau, Monongehela, PA: Zimmer Printing, 2000. 31頁で、Provan は「屋根の上には目撃証言に沿うようなかたちで3つの穴が現存している(4つ目の穴は発見できない)ので、『穴がなければ、ホロコーストもない』という議論をもはや展開することはできない」と結論している。Provan氏は、SS/ドイツ人が、ダーウィンの「適者生存」説にしたがって、殺人ガス室その他の方法を使って800万ほどのユダヤ人を絶滅したということを認めている点で、きわめて異常な修正主義者である。このような絶滅行為を非難するキリスト教徒としてのProvan自身の目からではなく、ヒトラーの目から見れば、このような絶滅計画は正当化されうるというのである。

[14] See Arthur R. Butz, The Hoax of the Twentieth Century. The Case Against the Presumed Extermination of European Jewry, Chicago: Theses & Dissertations Press, 2003.

[15] See Rudolf's discussion of this in his expert report, op. cit. (note 9), pp. 130-133.

[16] See Hans Jürgen Nowak's "Kurzwellen-Entlausungsanlagen in Auschwitz. Revolutionäre Entlausungstechnik als Lebensretter im Konzentrationslager" Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung 2(2) (1998), pp. 87-106.