アウシュヴィッツ国立博物館員ピペル博士へのインタビュー

 

デイヴィッド・コール

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2003326

 

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、David Cole, "A Jewish Revisionist's Visit to Auschwitz", JHR 13(2) (1993) を試訳したものである。

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

(online: http://codoh.com/gcgv/gcgvcole.html)

 

はじめに

 

 第二次世界大戦中に、ドイツが、ドイツとその支配地域に監獄と労働収容所のネットワークを作り上げていたことは疑問の余地のない歴史的事実です。これらの収容所には、ユダヤ人、戦争捕虜、レジスタンスの戦士、ジプシー、その他、第三帝国に敵とみなされた人々が送られました。

 その最大のものが、アウシュヴィッツと呼ばれ、ポーランドにありました。アウシュヴィッツの囚人は、ヨーロッパ各地からやってきており、男性、女性、子供がいました。労働可能な者はドイツの戦争遂行努力のための労働力として利用されました。アウシュヴィッツは、19451月にソ連軍に解放されました。

 しかし、ここで、意見の一致は終わります。

 第二次世界大戦の終了以来、私たちは、これらの収容所の多くは、暗い目的に使われた、すなわち、600万のユダヤ人と500万の非ユダヤ人が殺人ガス室によって虐殺されたと繰り返し聞かされてきました。それは今では、「ホロコースト」と呼ばれています。最大の数がアウシュヴィッツで殺されたというのです。

 しかし、これらの大量殺戮説は証明されていないと主張する人々がいます。彼らは、ソ連がニュルンベルク裁判に提出したきわめて疑問の余地のある、信用の置けない証拠、ならびに、もともと信頼できない性質を持つ目撃証言――これもまた信用できない(たとえば、多くの囚人やアメリカ軍兵士は、ドイツのダッハウ収容所では、[殺人]ガス室は使われたことはないとなっているのに、そこでの「ガス処刑」について証言している――以外には、文書的証拠がないと指摘しています。

 しかし、ホロコーストという出来事の重要性は、終戦以来高まり続け、事実として教えられ、…普通は、疑問の余地なく受け入れられています。

 しかし、私たちはそれが実際にどのように起きたと知るのでしょうか。歴史を信仰としてだけ受け入れることを望んでいない人々には、どのような「証拠」が提供されているのでしょうか。

 このビデオは、これらの証拠のうちの一つ、非常に大きなジグソーパズルの一つのピース、すなわち、アウシュヴィッツ中央収容所のガス室なるものを扱っています。私は、19929月にヨーロッパに出かけて、いわゆる「最終解決」の現場をこの手で調査しましたが、このテープはこれを記録したテープの最初のものです。

 このテープは、論争に終止符を打つものではありません。むしろその逆です。このテープが、ホロコーストとして私たちが知っているもののなかで、何が事実であるのか、何が戦時中の宣伝にすぎないのかという問題についておおやけの議論を始める端緒となることを希望しています。

 

アウシュヴィッツのツアー

 

 これがアウシュヴィッツ中央収容所、Stammlagerです。アウシュヴィッツとして知られている施設は3つの部分からなっています。アウシュヴィッツT、中央収容所は、第二次世界大戦前にすでに兵舎として存在し、ドイツが占領したのちに少々手を加えられた、うまく建設された建物群です。

 それから、これがアウシュヴィッツUです。アウシュヴィッツ・ビルケナウとも呼ばれ、戦時中に中央収容所を拡張したものとして建設されました。

 そして、これがアウシュヴィッツV、アウシュヴィッツ・モノヴィツです。多くの囚人が強制労働に従事した大工業地区です。

 アウシュヴィッツ見学の中心がアウシュヴィッツT、中央収容所です。ここでは、1時間ごとに英語、ポーランド語、ドイツ語、フランス語のツアーが行なわれています。当局の話では、毎年50万以上の人々がここを訪れ、この場所は奇妙な聖地となっています。下品な商業主義と宗教的畏敬の念が交じり合っており、ホテル、レストラン、土産物屋があります。バッテリーやあらゆる種類のビデオ・テープを販売するブースがありますので、最終解決のあらゆる光景を取り損なってしまうことを恐れる必要はありません。

 ここは、カトリックのアイデンティティの表明とユダヤ人のアイデンティティの悲しみを結び付けている聖地ですが、このことが以前から緊張を生み出してきました。ユダヤ人グループは、ポーランド人がユダヤ人の苦難を過小評価していると非難していますが、その一方で、おおやけに表明する人々はほとんどいないのですが、西側では、ユダヤ人はアウシュヴィッツを独自のユダヤ人の経験として独占しようとしているといわれています。

 すでに、私たちは、ホロコーストを検証するにあたって、重要地点にやってきています。ホロコーストは、世界各地でさまざまに解釈されている事件なのです。

 ソ連は、ロシア人、ポーランド人、ウクライナ人その他の苦難をいつも強調してきました。戦後のソ連の宣伝フィルムは、ほとんどユダヤ人のことを言及していません。ポーランド人にとっては、アウシュヴィッツは、すべての通常の信仰の対象を持つカトリックの顔を与えられています。ポーランド人聖職者その他の殉教者が強調され、ポーランド民族の絶滅が好まれているテーマです。しかし、西側世界では、視野の狭いユダヤ的解釈に遭遇します。ここでは、非ユダヤ人の死は、ホロコーストには非ユダヤ人にもいくぶんか関係があるとすることで、非ユダヤ人のホロコーストへの関心を維持するために利用されています。

 しかし、たとえ非ユダヤ人も苦難を経験したとはいっても、絶滅の対象となったのはユダヤ人だけであるとの話です。この亀裂は、カルメラ派の尼僧院がユダヤ人グループの意志に反してアウシュヴィッツの近くに存在していることをめぐる有名な論争を呼び起こしています。また、ポーランドによるアウシュヴィッツの展示物もユダヤ人に十分に焦点を当てていないと抗議されています。

 しかし、収容所自体には、十分すぎるほどの苦難の痕跡があります。アウシュヴィッツ中央収容所の配置はきわめてシンプルです。鉄条網のフェンスが囚人バラック、大きな厨房、いくつかの驚くべきもの――のちにこれにたどり着きます――を取り囲んでいます。

 フェンスの外にはSSの本部の二つの建物、そしてSSの病院とレストランがあります。その向こう側に焼却棟Tとして知られる建物があります。悪名高いガス室と焼却棟です。

 囚人バラックの大半は、展示館に変わっており、そこの見学がツアーの大半を占めています。残りのバラックは、文書館、博物館員の事務所となっています。一つのバラック、ブロック11は、オリジナルの状態のままで維持されてきました。そこは収容所の監獄であり、当然にも、「死のブロック」と呼ばれています。

 ここで興味深い点に突き当たります。ツアーでは何が見せられており、何が見せられていないのかという点です。ツアーのあいだ、「死のブロック」、当然にもそのすぐ隣にある「死の壁」を見せられます。虐殺物語を確証し、アウシュヴィッツを、囚人を絶滅した死の装置として描くように設計された展示物を次々と見せられます。

 しかし、何が見せられていないのでしょうか。まず、「生存のブロック」とでも呼ぶことができるような建物があります。チクロンBをつかって毎日シラミを駆除し、シラミが媒介する疫病を防いだ大規模な殺菌駆除施設です。これらは、本当のガス室でした。ただし、その対象は衣服や寝具であり、目的は囚人の健康を維持することでした。

 ホロコースト専門家はこの建物の目的を否定していません。それに触れたがらないだけです。なぜ、事態をこのように紛糾させているのでしょうか。

 もうひとつ忘れられているのは、アウシュヴィッツ収容所の劇場です。今では、前にお話しした尼僧院がそこにあります。この建物内部を最後に写した写真には、ピアノ、衣装、囚人が出し物を出したステージが写っています。しかし、現在では、尼僧たちが内部の撮影を許可していません。

 最後に、アウシュヴィッツ水泳プールがあります。そうなのです。水泳プールなのです。囚人バラックに隣接した監獄区画の中にあります。飛び込み台や競技用の「スターター・ブロック」をもつ美しいプールです。

 アウシュヴィッツ収容所の管理人の方々の名誉のために申し上げておきますが、管理人の方々はこの娯楽施設を取り除こうとはしませんでした。しかし、プールをご覧になりたければ、ツアーでは発見することができませんので、その場所をあらかじめ知っておく必要があります。

 ツアー参加者の大半はホロコースト物語を信じており、おそらくそこに感情移入をしていますので、このツアーは次々にホラー物語に出会うように構成されています。そして、最後に、ガス室に出会うのです。

 ここまでくると、ツアー・グループはすべてを信じる心の準備ができています。次第に雰囲気を盛り上げる2時間の準備運動の最後に主役として登場するのが、ガス室です。文字どおり、ガス室は、このツアーで耳にしたすべてのことの客観的証拠、ホロコーストの客観的証拠なのです。しかし、そうなのでしょうか。少し考えて見ましょう。

 私は、長いあいだ研究してきたこの場所を自分の目で見るために、19929月にアウシュヴィッツを訪れました。追加料金を支払って、英語を話すツアー・ガイドを雇いました。このガイドはアリシアという若い女性で、ポーランド語、ドイツ語、英語でツアー・ガイドをつとめているということです。私はユダヤ帽をかぶっていたので、誰もが私がユダヤ人であると気づいたことでしょう。

 質問するにあたって、私が修正主義者であることを悟られないように振舞いました。ご存知のように、修正主義者は、アウシュヴィッツの関係者から答えを得ることにほとんど成功していなかったからです。しかし、私は、事実を知って、ホロコーストは起こらなかったと主張している人々に回答したがっている有徳なユダヤ人であるかのように振舞いました。

 (ここで、私自身のことを明らかにしておきたいと思います。私は修正主義者であるだけではなく、無心論者であることに誇りを抱いています。私の両親は二人ともユダヤ人でした。出生がユダヤ人であれば、ユダヤ人なのです。そのことについて何も恥じていません。)

 アリシアは、他のツアー・ガイドと同じように、授業を受けて、ガイドになるための大げさな話し振りを覚えこまなくてはなりませんでした。ここが重要なポイントです。あとで、お話ししますように、アウシュヴィッツを管理しているフランツィシェク・ピペル博士や、あとで登場するツアー・ガイド長のような人々は、自分たちが真実ではないと知っていることをツアー・ガイドに話すように教えているのです。しかし、このことがアリシアに悪い影響を与えていたわけではありません。彼女が教えられてきたことをそのまま繰り返し手いるだけで、私のような見学者に出会ったことがないだけなのです。

 このツアーで、私は嫌がられるような質問を次々としました。それは4時間以上にわたるテープに記録されています。このテープは別のテープに編集されるでしょう。ここでは、ガス室と、フランツィシェク・ピペル博士――アウシュヴィッツ国立博物館管理長兼文書館長――とのインタビューに焦点をあてようと思います。

 私は、ガス室物語に深い疑念を抱きながら、アウシュヴィッツにやってきました。ある人々にとっては、ホロコーストを批判的に検証することが、まったくの冒涜であることも知っています。しかし、私には神聖なる牛も存在しませんし、実際に何が起こったのかを理解することだけが重要なのです。この点をご理解いただきたいと思います。

 私は何年も自分で研究を続け、また他人の研究を参照してきましたが、ホロコーストの証拠がほとんど存在しないことに気づきました。存在しているのは、「目撃証人」の証言と戦後の自白だけなのです。殺人ガス室やユダヤ人絶滅計画を扱っている写真、計画、戦時中の資料はまったく存在しないのです。

 ナチスがすべての証拠を破壊してしまったからであるとの言い訳を使うこともできません。ドイツのコード言語は解読されているので、アウシュヴィッツからのものも含む秘密交信記録を解釈できるようになっているとされているからです。ホロコースト物語の理解の鍵は、証拠として提出されている事柄の本質を理解することです。ホロコーストの証拠として使われているすべての事柄も、まったく普通に説明されなくてはなりません。

 たとえば、これらの展示品は絶滅の物的証拠であるといわれています。髪の毛の山のことです。しかし、これは何を証明しているでしょうか。囚人たちは全員、シラミ対策のために髪の毛を切られました。そのことは否定できませんが、だとすれば、髪の毛の山が存在するのは当然ではないでしょうか。

 靴や衣服の山はどうでしょうか。それは証拠なのでしょうか。囚人たちには、到着すると、靴も含めて制服が支給されました。だとすれば、囚人の靴と衣服の山が存在するのは当然ではないでしょうか。そのことは誰かが殺されたことを証明しているわけではありません。

 ガス缶についてはどうでしょうか。チクロンBが衣服や建物を殺菌駆除するために使われていたことを誰も否定してはいません。チクロンBは当時のヨーロッパで使われていた害虫駆除剤の筆頭でした。それは、殺人ガス室が存在していなかった収容所も含む、ほぼすべての収容所に存在していました。

 チフスは戦時中のヨーロッパ各地で流行し、収容所にも広がったので、シラミを駆除する方法が必要でした。

 プレサックの著作『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』は、クラルスフェルト財団から出版され、修正主義者と論破したものとされていますが、プレサックは、その中で、ドイツ人が使ったチクロンB95%以上が殺菌駆除のために使われたと述べています。彼が殺人目的としたのは5%だけです。そして、これはホロコーストの定説を支持している研究者からの発言です。

 このほかには、どのような証拠が提出されているのでしょうか。病気の囚人を写した普通の写真がありますが、人々は収容所で病気となったという大地を揺るがすような説を立証しています。チフスが蔓延して、多くの死者が出たことを否定している人は誰もいないことをもう一度付け加えておきます。

 また、子供たちの芸術作品や絵があります。しかし、これらは、ガス室の客観的な証拠を捜し求めているものにはかなり都合の悪いものです。彼らが実際に提示している証拠のいくつかは、反対のことを示しているからです。

 たとえば、戦時中に連合国が撮影したアウシュヴィッツのいくつかの航空写真があります。しかし、これらの写真には、大量殺戮が間断なく続いていたとされる時期に撮影されているにもかかわらず、ガス処刑される人々、焼却されている死体は写っていません。

 ドイツ人はアウシュヴィッツに囚人のために特別な紙幣を印刷していました。ユダヤ人の子供はすぐに殺されたという話なのに、アンネ・フランクと彼女の姉はアウシュヴィッツに送られても生き残り、その後、ベルゲン・ベルゼン収容所に移されて、そこでチフスで死んだといわれています。このようなことに立ち入ろうとは思いません。

 しかし、このような議論は、もしも、私たちが自分の目でガス室を見ることができれば、無意味となるでしょう。もちろん、論争はすぐに収束することでしょう。

 私は、今、ガス室と焼却棟の建物の前に立っています。この建物の写真は、ホロコーストについての書物の中に繰り返し登場しています。起こったことすべてに対する最良の証拠だというのでしょうか。修正主義者は、これが戦時中に建設された本物の建物であることに異議を申し立てているわけではありません。私たちは、これが、通りのすぐ向こう側の病院とレストランのSS隊員のための防空シェルターとしても使われた焼却棟と死体安置室であるといっているのです。

 アウシュヴィッツの関係者は、まさにここで目にしている建物は死体安置室と死体安置室部分をもつ焼却棟であり、のちにガス室として使われるようになったといっています。また、防空シェルターとしても使われたともいっています。

 彼らは、建物の側面にある大きな煉瓦の煙突は作り直されたものであることを認めています。しかし、その煙突は建物にはまったくつながっていないので、そのことは衝撃的なことではありません。

 中に入ってみましょう。中に入ると、修正主義者がこの建物を「散策した」理由がわかります。

    壁と床には、壁が取り壊された明らかな痕跡があります。

    浴室のあった場所には、はっきりとした穴があります。(これまで目にしてきた大きな中空の部屋とは異なり、この部屋は浴室も含む5つの部屋に分けられていたと私たちは考えています。また、チクロンBが繰り返し使われた場所に存在するはずであるチクロンBの青いしみがまったくありません。殺菌駆除室には青いしみがありましたし、今もあります。)

    大きなガラス窓枠のついたもろい木造ドア。

    焼却炉に向かうドアやドアの装置のない戸口。

    また、ガス室の真ん中には大きなマンホールがあります。

 

 しかし、この建物には犯罪的に使用された証拠らしきものもあります。天井には4つの穴が開いており、4つの小さな煙突のある屋根につながっています。この4つの穴から、チクロンBの結晶が投下されたといわれています。たしかに、それ以外の説明はないようです。

 これらの穴は殺人ガス処刑を立証しているでしょうか。修正主義者は、これらの穴は収容所が解放されたのちに付け加えられた、内壁は壊され、浴室は取り除かれて、部屋が大きなガス室のように見えるようにしたと主張してきました。

 アリシアと私がこの建物に近づいたとき、絞首台を通り過ぎました。そこでは、アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスが、1947年にソ連によって絞首刑となりました。彼の犯罪の証拠のすぐ前で処刑されたのです。

 

 このガス室の前で、私はこの建物の信憑性についてアリシアに尋ねました。

 

コール:ここで、この建物についてもう一度お話しましょう。

アリシア:これは焼却棟/ガス室です。

コール:しかし、作り直されたのではないですか。

アリシア:オリジナルの状態にあります。

 

 アリシアは、ガス室がオリジナルの状態にあると明言しました。中に入ってから、とくに天井の穴について尋ねました。

 

コール:天井にある4つの穴もオリジナルなのですか。

アリシア:オリジナルです。この煙突からチクロンBが落とされました。

 

 それから、ガス室として展示されている部屋の中の壁は壊されたのではないかとアリシアに尋ねました。

 

コール:この部分はすべてガス室でしたか。

アリシア:はい。

コール:ここには壁があったのではないですか。

アリシア:一つの部屋でした。ガス室の写真をお見せしますが、一つだけの部屋でした。

コール:ここには壁があったのではないですか。

アリシア:いいえ。

 

 ここで、アリシアによるガス室の話をまとめておきましょう。彼女は、この部屋が「オリジナルの状態」にある、天井の穴もオリジナルであり、壁が壊されたことはないと述べています。

 

ガイド長の話

 

 私はアリシアの答えに満足しなかったので、この部屋の本当の歴史について、哀れなアリシアに質問し続けました。アリシアは、自分の話が私の口を閉ざすことができなかったことにいくぶんかいらいらしたのでしょうか、一人の女性をつかまえに行きました。この女性はアウシュヴィッツ国立博物館ツアー・ガイド長と自分を紹介しました。この女性が近づいてくるのを見たとき、私は、単刀直入な回答を得るか、それとも収容所をたたき出されるかと想像しました。

 

ガイド長:このような提案をさせていただきます。国立博物館の学者のもとに行くのが良いでしょう。文書館に保管されている多くの図面を見せてくれることと思います。

コール:どこに行けば良いのですか。

ガイド長:今日は開いていないと思いますが、月曜日にお出かけください。

コール:オスヴィエチム[アウシュヴィッツ]にあるのですか。

ガイド長:はい、ブロック2423です…正確ではありませんが。

コール:月曜日にその人物に会うアポイントメントがとれるのですね。

ガイド長:そのとおりです。

 

 ここで、文書館長で管理長フランツィシェク・ピペル博士と会見することが始めて提案されました。しかし、このような会見が行なわれないかもしれないと考え、また、ガイド長があらゆる指示のおおもとであると考えたので、天井にある穴がオリジナルなものであるかどうか、彼女の意見を聞くことにしました。

 

コール:天井の穴はオリジナルなものですか。

ガイド長:いいえ。

コール:作り直されたのですか。

ガイド長:はい。

コール:そうですか。戦後のことですか。

ガイド長:戦後のことです。

 

 スコアをつければ、オリジナル支持に1票、オリジナルではないことの支持に1票ということになります。ピペル博士が決定することになるでしょう。

 

ピペルとのインタビュー

 

 ここで、先に進む前に、少々脱線して、本物のホロコースト修正主義について説明しておかなくてはなりません。ピペル博士は、イスラエルのホロコースト専門家イェフダ・バウアーなどの研究者とともに、アウシュヴィッツの死亡者の数を下方修正したことに直接責任を負うホロコースト専門家の一人です。

 1989年ごろ、アウシュヴィッツの死亡者の数は従来の見解よりも少ないことをおおやけに認めることが決定されました。ピペル博士は自著『アウシュヴィッツ――何名が死んだのか』の中で、400万という古いソ連の数字は間違っており、本当の数字は110万に近いと結論しました。

 ソ連がほぼ4倍も数字を誇張していたことを認めるのは、小さな修正ではありません。ほぼ50年間、この偽りの数字がホロコーストの歴史の中に定着していたのです。

 1988年までは、公式のアウシュヴィッツ国立博物館のガイドブックは、400万という数字をおおやけに認めていました。ナチス犯罪の調査ソ連国家臨時委員会は「400万以上の人々がアウシュヴィッツで殺された」と述べていました。ポーランドの最高国民法廷は「約400万人がアウシュヴィッツで殺された」と述べていました。ニュルンベルク国際軍事法廷によれば、「400万以上の人々がアウシュヴィッツで殺された」、これらの数字は、「数百の囚人生存者の証言と専門家の意見にもとづいている」というのです。

 このことは、ニュルンベルクで事実と認められたソ連側の偽りの証拠だけではなく、生存者や専門家も間違っていたことを明らかにしています。

 私は、ピペル博士にアウシュヴィッツ国立博物館の彼のオフィスでインタビューしました。最初、彼はビデオ撮影に少々戸惑いを感じていました。私は、すでにツアー・ガイドをテープに記録したこと、私の主観が間違ってしまうこともあるので、記録をそのまま残すためにビデオ撮影をしたいことを彼に説明しました。

 彼が同意してくれましたので、私はすぐに、ガス室で行なわれた修正について訪ねました。

 

ピペル:最初のそしてもっとも古いガス室は、今私たちのいるアウシュヴィッツT収容所にありました。それは、1941年の秋から194212月まで、ほぼ1年間稼動しました。このガス室の近くにある焼却棟は、もっと長く、1943年中頃まで稼動していました。

 19437月、焼却棟は停止し、アウシュヴィッツTで死んだ囚人の死体はビルケナウに運ばれました。

 1944年、連合軍がアウシュヴィッツを空襲しましたので、アウシュヴィッツのからの焼却棟とガス室は防空シェルターになりました。

 このとき、以前のガス室内部に壁が付け加えられました。別の入り口がガス室の東側面に作られ、チクロンBガスが内部に送られた天井の穴もそのときに破棄されました。

 このために、収容所が解放されたとき、以前のガス室は防空シェルターの姿をしていました。初期の姿を再現するために、1944年に作られた内壁は取り除かれ、天井の穴が新たに作られました。

 ですから、このガス室は19411942年に存在したものとよく似ていますが、細部は異なっています。たとえば、ガス気密ドアがありませんし、東側面に付け加えられた入り口は1944年に作られたときのまま残されています。このような修正は、初期の姿を再現するために戦後に行なわれたのです。

コール:天井の穴は同じ場所に作られたのですか。

ピペル:はい。同じ場所です。痕跡が残っていましたから。

 

 ここでピペル博士の話をまとめておきましょう。彼によると、この部屋はガス室だったが、その後、防空シェルターに改造され、そのときに、隔壁が作られ、天井の穴が取り除かれ、ガス室の一つの側面に新しいドアが付け加えられた。

 収容所が解放された後、隔壁は壊され、穴が天井に作られた。しかし、新しいドアは取り除かれなかったというのです。

 ここには3つの重要なポイントがあります。その第一は、私たちは明らかなごまかしを見ているということです。すでに明らかにしたように、博物館の関係者はガス室が作り直されたものであることを知っているにもかかわらず、見学者には、ガス室がオリジナルな状態であると説明されているのです。

 ピペル博士は、戦後に修正が行なわれたという事実にまったく無頓着であるかのようです。しかし、そのことがたいしたことではないとすれば、見学者から隠されているのはなぜなのでしょうか。

 それだけではありません。19925月、イギリスの歴史家アーヴィングは、ミュンヘンでの会議で、たった今ピペル博士が話したのと同じことを口にした罪状でドイツの裁判所から罰金刑の処分を受けました。事実、ピペルは弁護側証人として召喚されていました。しかし、判事は、ピペルの証言がアーヴィングの無実を証明したかもしれないのに、彼の証言を許しませんでした。

 もう一度言っておきます。このことがたいしたことではないとすると、それを話しただけでなぜ罰金刑といった処分となるのでしょうか。重要な点は、「ガス室」が今のままの状態では証拠として有効ではないということです。ドイツがこの収容所を管理していた戦時中にこの建物の天井には4つの穴が存在し、隔壁も存在しなかったことを明らかにすることができなければ、この「ガス室」は殺人ガス処刑の証拠とはならないのです。

 私たちの最後のポイント、作り直し問題に移ります。今までの情報から、ガス室の作り直しには二つの異なった見解があるといえます。

 一つは公式見解で、ソ連とポーランドが、かつてガス室であった防空シェルターに「ガス室」を作ったというものです。修正主義者は、ソ連とポーランドが、かつて防空シェルターであった防空シェルターに「ガス室」を作ったと考えています。どちらが正しいのでしょうか。

 証拠を提出しなくてはならないのは、この建物にはかつてガス室が存在したと主張している人々の側です。では、彼らはこの説を立証している証拠を持っているでしょうか。

 私はホロコースト修正主義者として、そのような証拠を目撃したことはないと断言できます。また、建物の屋根にある4つの穴にしても、疑問の余地があり、いかなる航空写真にも写っておりません。

 

「ガス室」に関するその他の問題

 

 ことの真実に迫るために、いくつかの関連質問があります。この建物の中で、ガス室が稼動していたとすれば、どうして中止されたのでしょうか。とくに、ナチスはアウシュヴィッツを絶滅センターとしようとしていたとすればなおさら疑問になります。

 これについては、ピペル博士は答えています、ポーランド語の本『アウシュヴィッツ』のなかの論文で、アウシュヴィッツ中央収容所のガス室を犠牲者に秘密にしておくことが難しくなったので、絶滅作業はアウシュヴィッツ・ビルケナウの新しいガス室に移されたというのです。

 この説がアウシュヴィッツ博物館の公式見解となり、アリシアもたびたびツアー中に私にこの説を繰り返しました。

 

アリシア:この焼却棟は囚人が生活しているブロックの隣にありました。だから、絶滅作業はビルケナウに移ったのです。このために、ガス室を持つ4つの焼却棟がビルケナウに作られました。

 

 ここでこの件を明らかにしておきましょう。中央収容所のガス室が囚人たちの近くにあったので、囚人たちは何が起こっているのか知ることになった。このために絶滅作業はビルケナウに移ったという。

 しかし、これは不正確なのではないでしょうか。中央収容所の地図を見てみましょう。ここにガス室があり、ここに囚人バラック群があります。ご覧のとおり、ガス室は囚人区画の外にあります。3つのSSの建物がガス室を囚人の目からうまく隠しています。

 さらに、囚人が到着すると、ガス処刑される人々は、他の囚人と接触させないために、すぐにここに運ばれてきたという話です。だから、このガス室は、まったく気づかれないで、稼動できたはずです。

 これは、19449月に連合国が撮影した、アウシュヴィッツ・ビルケナウの写真です。二つの焼却棟と「ガス室」が移っています。地上に焼却棟が、地下にL字型の部屋があります。後者がガス室あるいは死体安置室であったということになっています。そして、すぐ近くに、囚人バラック群があります。

 囚人バラックとガス室を隔てているのは、鉄条網のフェンスだけです。

 そして、ガス室のすぐ隣に、アウシュヴィッツ[ビルケナウ]の運動場もあります。また、「ガス室」がバラックと隣り合わせに存在していること、道路が交差していることもお気づきになると思います。囚人たちから何も隠されていなかったのです。

 死を運命付けられている囚人たちを運んでくる列車も興味深い点です。数千の囚人たちが、収容所全体が見守る中で、二つのガス室に向かって行進して行くのです。この光景を見逃してしまう囚人は誰もいないでしょう。彼らは、数千人がこれらの建物のなかに入っていき、そして、誰も出てこないのを見ているのです。

 これらの「ガス室」は隔絶されてはいませんでした。1970年代に航空写真が公表されましたが、それを見ると、ナチスはビルケナウのガス室をカモフラージュしたという目撃証言とは矛盾していることがわかります。

 私はビルケナウで数日間をすごしました。そこでの記録は別のテープにありますが、それは、今お話ししたことすべてを如実に物語っています。ピペル説はつじつまが合わないと思います。

 

ロイヒター報告再考

 

 もう一つの問題があります。シアンガスが残余物を残すとすれば、ガス室にはチクロンBの残余物が残っているのかという問題です。

 1988年、処刑装置専門家のフレッド・ロイヒターが、アウシュヴィッツのガス室を法医学的に調査して、この問題に答えようとしました。

 彼は、ビルケナウのガス室から4つのサンプル、中央収容所のガス室から1つのサンプル、チクロンBを使用したことが知られている殺菌駆除室の1つから基準サンプルを採取しました。その結果、ガス室のサンプルには感知できるような痕跡がないのに、殺菌駆除室のサンプルにはかなりの量の痕跡が検出されました。

 さらに重要なことに、1990年、クラクフの法医学研究所が、独自の法医学調査を行い、ロイヒターの結果を反駁できるかどうか検討しました。この調査にはピペル博士も協力しました。

 彼らの調査もほほ同じ結果を示しましたが、そのときから、話は、「ガス室にはチクロンBの感知できるような痕跡があるかどうか」ではなく、「なぜ、感知できるような痕跡がないのか」という問題に移っていきました。

 私はこの問題をピペル博士にぶつけてみました。殺人ガス室では感知できるような痕跡がほとんど存在しないのに、殺菌駆除ガス室では大量の痕跡が存在するのはなぜなのかということです。

 

ピペル:チクロンBを使ったガス室が稼動したのは、非常に短く、24時間で2030分ほどでした。一方、殺菌駆除室は、昼夜兼行で稼動していました。殺菌駆除室とガス室では、ガスの使用方法が異なっていたのです。

 

 ここで、ピペル博士が話していることを明白にしておきましょう。私は、「殺菌駆除室での痕跡が高くて、殺人ガス室での痕跡が低いのはなぜなのでしょうか」と彼に質問しました。

 そして、彼の答えは、殺菌駆除室は「昼夜をわかたず」使われたのに、殺人ガス室は「24時間で2030分ほど」使われたためであるというものでした。これでは、1日に1回だけガス処刑が行なわれたことになります。この答えは、殺人ガス処刑が昼夜兼行で繰り返し行なわれたという目撃証言とだけではなく、ピペル博士自身の発言とも矛盾しています。のちに、私が1日どのくらいの人々がガス処刑されたのですかと質問すると、彼は、ガス処刑が繰り返されたと述べているからです。

 

コール:焼却棟23では、毎日どのくらいの人々がガス処刑されたのですか。

ピペル:ガス室が毎日毎日数時間使用された時期があったので、この問題に答えるのは簡単ではありません。ガス処刑、焼却、ガス処刑、焼却…という作業が繰り返されたのです。

 

 私たちは次の問題を質問しなくてはならないでしょう。ピペルがもともと述べているように、ガス室が「24時間で2030分」しか使われなかったとすれば、収容所での大量殺戮は起こりえたのでしょうかということです。

 『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者リチャード・バースタインは、修正主義者を反駁するために書かれたプレサックの本の書評の中で、大量の犠牲者を作り出すには、30分ごとにガス室の死体を空にして、新しい犠牲者を詰め込まなくてはならなかったであろう」と書いています。

 言い換えますと、大量殺戮を行なうには、非常に速いペースで、毎日何回もガス処刑を行なうことが必要なのです。ここで、また矛盾に遭遇します。ガス室の限定的使用が、残余物が存在しない理由とされていますが、それは目撃証言と矛盾していますし、何よりもガス処刑された人々の数をきわめて少なくしてしまうのです。

 また、ドイツはユダヤ人全体を根絶する意図を持っていたといわれておりますので、限定的なガス処刑という話は、このようなドイツ側の意図とも矛盾してします。ピペルは、ホロコースト物語の一つの話を支持しようとすると、別の話との矛盾に陥ってしまっているのです。

 不幸なことに、ホロコースト正史を作り上げているのは、このような綱渡り的な合理化手段です。だから、その提唱者は、たとえば、チクロンBについてのような質問を数多くされることを嫌っているのです。

 ガス自体についてはどうでしょうか。チクロンBの多数の缶が最終解決の証拠とされてきました。ガスが殺菌駆除で使われたことが誰もが認めており、また、アウシュヴィッツ博物館の関係者は殺人ガス処刑にも使われたと主張していますが、それ以外の目的で使われたことはあるのでしょうか。

 

ピペル:[理解不能]建物の殺菌駆除など…

コール:建物の殺菌駆除はよく実施されていたのですか。

ピペル:時々です。シラミの駆除のために行なわれました。

 

 ここで、まとめておきましょう。チクロンBは衣服の殺菌駆除、建物の殺菌駆除に使われました。ホロコースト正史支持者のプレサックの計算では、95%以上が殺菌駆除に使われ、殺人に使われたのは5%以下であったとの話です。このことは、ドイツ人が、絶滅される運命の人々の健康維持に尽力したということになります。

 

私たちは共産主義者を信用できるのでしょうか。

 

 作り直されたガス室についての二つの見解のどちらを採用すべきなのでしょうか。それは偽物なのでしょうか、それとも、忠実な再現なのでしょうか。

 一つの非常に重要な問題があります。私たちは、ソ連が忠実にガス室を再現したと信用できるのかということです。天井に4つの穴が存在したという戦時中の証拠、ガス室が使われたという証拠がない以上、もともとあったところに4つの穴を作ったにすぎない、ガス室を偽造したのではなく、「再現したのだというソ連とポーランドを言葉をそのまま受け取るしかありません。

 しかし、ソ連側の意図を明らかにしようとすれば、私たちは、ホロコースト物語についてのソ連側の話の信憑性を検証しておかなくてはなりません。

 ソ連側には「ホロコースト」の証拠を偽造した歴史、「ホロコースト」を立証するためにごまかしをしてきた歴史がないでしょうか。

 すでに見てきたように、ソ連はアウシュヴィッツの死亡者数を4倍も水増ししていました。しかし、これは、善意のあやまちにすぎないのでしょうか。アウシュヴィッツのガイドブックやその他の本では、ナチスが記録を破壊してしまったので、アウシュヴィッツの犠牲者数を確定することは難しいということになっています。

 ピペル博士もこのことを繰り返しました。

 

コール:アウシュヴィッツでは400万人が死亡したと最初に述べたのは誰ですか。

ピペル:ナチスが収容所の資料を破棄してしまったので、アウシュヴィッツにおけるナチスの犯罪ソ連調査委員会が見積もりました。

 

 しかし、アウシュヴィッツの死亡記録は、ソ連が保管しており、1989年まで公表されませんでした。ナチスが破棄したわけではなかったのです。ソ連は、誇張された数字を提唱していたときにも、死亡記録を保管していることを知っていたはずです。

 ソ連は信用できない告発をニュルンベルク裁判に提出し、それは他の連合国によっても支持されました。ソ連は、ポーランドのトレブリンカ収容所には、囚人を殺戮した「蒸気室」があったと主張していました。今では、この主張は完全に取り下げられています。また、「電気処刑室」の話も取り下げられています。

 もっと興味深いことに、ソ連はニュルンベルク裁判では、悪名高いカチンの森の虐殺で数千のポーランド人将校を殺したのはソ連ではなく、ナチスであると主張していました。最近になって、ソ連は、自分たちの仕業であることを認めるようになっています。しかし、ニュルンベルク裁判では、ナチスは金銭や使ったり、人々を脅迫して、ソ連に罪を着せようとしたと主張していました。

 ナチスは縮んだ首、人間の皮膚を使った電灯のかさを作ったとされていましたが、今ではこれは虚偽とされています。ナチスは原子爆弾でユダヤ人を絶滅したという想像を絶するような告発もあったのです。

 

人間石鹸の話

 

 また、ナチスはユダヤ人の死体から石鹸を作ったという話も事実とされていました。この問題を詳しく検討してみましょう。ニュルンベルク裁判にユダヤ人の人間石鹸を提出したのはソ連でした。しかし、今日では、ヒルバーグ、バウアー、リップシュタットといったホロコースト研究者でさえも、この告発には根拠がないことを認めています。

 とくに、次のことに触れておきましょう。ホロコースト劇場ではよく知られているサイモン・ヴィーゼンタールは、1946年に、オーストリア系ユダヤ人新聞への一連の記事の中で、ユダヤ人石鹸の箱のことをこう書いています。

 「箱の上には『R.I.F』(純粋ユダヤ脂肪)という頭文字が書いてありました。この箱は武装SS用でした。この石鹸がユダヤ人の死体から製造されたというまったく冷笑的な包み紙でくるまれているのです。ナチスやその女性たち、政府がこの石鹸のことを考えて喜んでいたとは、文明社会は信じられないでしょう。

 彼らは、石鹸を手にとって、成長して第二のフロイド、エーリヒ、アインシュタインとなる可能性を摘み取られてしまったユダヤ人の死体によってこの石鹸が製造されたことを知ったのです。」

 まったく悪魔的な光景です。二次元のナチスの悪党を映画やテレビの上で見てから数十年たちますが、このように悪魔的な行為を想像することはできません。

 石鹸物語は、シャイラーのベストセラー『第三帝国の興亡』やその他無数のホロコーストの記事、書籍、学校のテキストの中に組み込まれてきました。

 しかし、今となっては、この信じられないような虐殺行為について確信を持って語ることができるでしょうか。ヴィーゼンタールやシャイラーと同じようにホロコースト正史を確信している「専門家」でさえも、この石鹸物語については、真実ではないと語っているのです。

 1981年、近代ユダヤ史教授で、ホロコーストの専門家リップシュタットは、「ナチスがユダヤ人、その他の人々の死体を石鹸の製造に利用したことはないというのが事実です。この石鹸の噂は戦時中、戦後に広まっていました。その起源は、第一次大戦中の死体工場という虐殺物語にあるのでしょう。石鹸の噂は戦後に徹底的に調査され、虚偽であることが証明されました」と『ロサンゼルス・タイムズ』紙に書簡を送っています。

 今では、まったく明らかなのです。

 そして、ヤド・ヴァシェム・ホロコースト・センター文書館長シュムエル・クラコフスキは、「A Holocaust Belief Cleared Up」という記事の中で、「人間の脂肪から石鹸が作られたことはない、と歴史家は結論している」と断言しています。

 だとすると、当然のことながら疑問がわいてきます。第一に、サイモン・ヴィーゼンタールに、お前は間違っているといってやった人物がいるのでしょうか。第二に、ユダヤ人の死体から石鹸が作られなかったとすれば、ニュルンベルク裁判に提出された「石鹸」と「人間石鹸」に関する証言は間違っているのではないでしょうか。第三に、リップシュタットは石鹸物語が徹底的に調査されたと述べており、クラコフスキは、歴史家たちは石鹸物語が間違っていると結論していると断言しています。

 リップシュタットやクラコフスキは、徹底した調査とか歴史家たちのコンセンサスについて語ることで、一方では、石鹸物語をホロコースト正史からはずし、他方ではホロコースト正史の正しさを断言していますが、そのようなことは可能なのでしょうか。

 しかし、彼らの考えは、一般的ではありません。戦後、石鹸物語は徹底的に調査され、反駁されてこなかっただけではなく、石鹸物語については、歴史家や専門家のあいだでコンセンサスはありません。

 最近でも、1991年に、『ヴィレッジ・ボイス』のコラムニストのナット・ヘントフが、自分の目でユダヤ人石鹸を見たと話しています。では、ピペル博士はどうなのでしょうか。彼は、信憑性のない石鹸物語を依然として支持しています。

 

ピペル:他の強制収容所、グダニスク[ダンツィヒ]のシュトゥットホフ収容所では、人肉を石鹸製造に利用しようという試みがありました。

コール:そこで製造されたのですね。

ピペル:そのような試みがなされました。

 

 ごらんのように、このホロコースト専門家は、ホロコースト物語は疑問の余地なく証明されているのだから、それについて疑問を呈することはないと述べているわけです。まったくの偽善者です。

 そして、石鹸物語だけが、専門家たちの意見が一致していないテーマではありません、はるかに重要なことに、専門家たちはガス室説を支持して統一戦線を組んでいるにもかかわらず、彼らの多くはガス室についての資料がほとんどないことを知っているのです。

 

ガス室の資料

 

 ここで、ホロコーストの本当の神話にたどり着きます。殺人「ガス室」の実在と使用には十分な資料があるという神話です。しかし、私がはじめてこのテーマに関心を抱くようになったのは、ホロコースト正史の中で描かれているガス室には十分な資料が欠けているのではないか、証拠として提出されているものには矛盾や憶測が含まれているのではないかということです。

 私たちは何回も、プレサックの著作に触れてきました。この本は、1989年に有名なナチ・ハンターのデュエットであるクラルスフェルト兄弟の出版社から刊行され、ホロコースト修正主義を最終的に反駁したものとの触れ込みでした。プレサックはこの本の中で、伝統的な歴史家によるホロコースト研究の欠陥を指摘して次のように述べています。

 本書は「伝統的な歴史の完全な破産を明らかにしている。この歴史は、大半が証言にもとづいており、その証言は時代の雰囲気に応じて集められたものであり、勝手な真理に適合させるために切り捨てられたり、不均等な価値を持つ少数のドイツ側資料と混ぜ合わされたり、互いに関係を持っていなかったりする。」

 1989年、ユダヤ人の教授でヒトラー支配下のヨーロッパからの亡命者であるアルノ・メイアーもホロコーストについての自著『なぜ天は暗くならなかったのか』の中で、「ガス室研究の資料はごく少ないと同時に、信頼できない」と述べています。

 メイアーはまた、アウシュヴィッツで自然死したユダヤ人の数のほうが、ガス処刑されたユダヤ人や射殺されたユダヤ人の数よりも多いと述べています。他のホロコースト専門家は彼の著作に憤激しました。

 もしも、ガス室物語には論争の余地がないと専門家が語るとすれば、彼らは、そのような論争がしばしば行なわれてきたという事実を隠しているのです。ガス室についての論争をなぜためらうのでしょうか。それは、専門家たちも、ガス室には十分な資料が存在しないこと、現存の資料には信憑性がないことをひそかに自覚しているためなのです。

 ソ連が捏造したホロコーストの証拠という幽霊の影は、ウクライナ系アメリカ人のデムヤンユクに対する裁判のような最近の事例でもちらついています。デムヤンユクは戦争犯罪の咎で告発されましたが、その告発は捏造されたソ連側資料にもとづいていました。

 捏造された証拠に関していえば、ホロコースト専門家は、何が捏造されており、何が真実であるのかを区別することがなかなかできないようです。

 もう一度、アウシュヴィッツについてのプレサックの本に戻りましょう。この本は修正主義者を論破したとされているからです。この中で、プレサックは殺菌駆除室のガス気密ドアの写真を掲載し、ソ連側はこれを殺人ガス室のドアであると偽って提示したと述べています。しかし、その数頁後では、彼が本物であると考えている殺人ガス室のドアを掲載しています。のぞき穴を保護する金属製の網が付けられているからであるというのです。

 プレサックは、このドアを、殺人ガス処刑が行なわれた証拠としています。しかし、ここでも、回答されていない問題があります。一体、どのようにしてプレサックは、このドアもソ連による捏造ではないと知ることができたのでしょうかということです。

 私たちが、ソ連が物事を誤って展示し、作り直したことを認めるとすると、本物と偽物とをどのように区別することができるのでしょうか。のぞき穴に金属製の網のついているドアは本物だといわれていますが、この件について、自分の目で見ることができるかどうかをピペル博士に尋ねました。

 

コール:プレッサクの本には、のぞき穴の回りに金属製の網のついているガス気密ドアが掲載されています、それは、どこかにあるのでしょうか。現存しているのでしょうか。

ピペル:焼却棟Tの部屋にあります。

コール:焼却棟Tですか。

ピペル:はい、焼却棟Tです。

コール:見ることができますか。

ピペル:館長のところに行ってください。館長が[部屋を]開けるように指示してくれるでしょう。できると思います…[ジェスチャーしながら]

コール:窓越しにですか。

ピペル:…窓越しにです。

 

 どうなったと思いますか。インタビューを終えて、館長室に行き、鍵をもらって、焼却棟Tのすべての部屋を探してみましたが、のぞき穴に金属網のついた殺人ガス室のドアなどありませんでした。それがどこへ行ったのか誰も知りませんでした。魔法のように消えてしまったのでしょう。

 ソ連が信用できるかどうかという問題については、本物であるとされていた証拠が、すぐ次の年には偽物であるということになっていますので、あらゆる事柄を信じることはできないということになります。事実、本物であるといわれていた証拠が、「作り直し」であることになっているのです。ホロコースト専門家のあいだで、本物と偽物との区別について意見の一致が存在していません。ですから、このような専門家たちが、殺人ガス処刑説には疑問の余地がないと主張するとすれば、彼らは偽善者なのです。

 ソ連のごまかしについては、歴史的な脈絡の中でとらえる必要があります。私たちは今、ソ連が崩壊した時代に暮らしており、リベラル派、保守派とも、過去のものとなってしまった共産主義国家について悪く言ってもさしつかえありません。

 しかし、当時はそうではありませんでした、第二次世界大戦中、ソ連はまさに軍事的同盟国であったのです。ソ連による反ナチ宣伝は、連合国の目的にかなっているがゆえに、その他の連合国も受け入れたのです。

 ロシアの共産主義者とドイツのファシストは、ヒトラーとスターリンの不可侵条約以前から、そして、もちろん、独ソ戦が始まってからも、宣伝戦を繰り広げてきました。スターリンもヒトラーも宣伝に巧みでした。しかし、ソ連の宣伝を受け入れてしまう名残は、今でも残っています。たとえば、ドイツの反共ポスターを見ると、私たちは、パラノイア的なナチスの反共宣伝であるとすぐに拒否反応を示してしまいます。

 しかし、ソ連側の宣伝を見て、同じように、パラノイア的な反ファシスト宣伝であると拒否反応を示すでしょうか。スターリンの反ドイツ宣伝もヒトラーの反ソ宣伝も同じように邪悪なものであったことを悟らなくてはなりません。ソ連のほうは、戦勝国として、自分たちの宣伝を歴史書に事実として書き込んだだけなのです。

 しかし、第二次世界大戦中のあらゆる告発、それに対する告発のすべてを、私たちがのちに知るようになった知識――スターリンの専制体制、KGBの歴史、情報操作とごまかし――の面から、再検証しなくてはならないのです。そして、この再検証の対象には、ナチスに対する虐殺告発も含まれなくてはなりません。とくに、アウシュヴィッツやその他のポーランドの収容所(マイダネク、ベウジェク、チェルムノ、トレブリンカ、ソビボル)については、もっぱらソ連側の情報に依拠せざるをえなかっただけに、なおさらです。ソ連がアウシュヴィッツでの死亡者数を水増ししていたとすれば、その他の収容所ではそのようにはしなかったといえるでしょうか。

 アウシュヴィッツでは4倍も水増ししておきながら、トレブリンカでは正直であったといいうるのでしょうか。しかし、公平を期しておきたいと思います。わが国の軍隊と情報機関も、怠けていたわけではなく、ソ連と同じように虐殺宣伝を行なっていたのです。

 戦後、ダッハウ収容所ではガス処刑が行なわれたといわれてきました。実際、わが国の軍隊は、この説を支持する宣伝映画を作っています。

この映画のナレーションには、「殺人ガス室で窒息死した囚人の衣服が整然とつり下げられている。囚人たちは、シャワー室に入るとの口実で、服を脱ぐように指示され、タオルと石鹸を受けとった」とあります。

 しかし、今では、ダッハウのガス室でガス処刑が行なわれたとは誰も主張していません。これは、戦時中の宣伝であったのです。さらに、公平を期すために付け加えますと、アウシュヴィッツ収容所長ルドルフ・ヘスをソ連とポーランドに引き渡す前に、拷問にかけて、自白を引き出したのはイギリスです。このことは、1983年に出版された『死の連隊』という本の中で確証されています。そのなかでイギリス軍軍曹クラークは、ヘスを拷問にかけて自白を引き出したこと、彼の家族を脅したことを回想しています。

 ここで、またアウシュヴィッツに戻ります。今まで多くのことをお話ししたこの建物、いわゆるガス室の向こう側で、ヘスは、絶滅収容所の責任者として絞首刑になりました。しかし、おもな証拠が拷問によって引き出され、「ガス室」とは防空シェルターを作り直したものであったとすると、これは公平な判決であったということができるでしょうか。

 ヘスは、多くの人々が疫病と栄養失調から死んでいった収容所の責任者であったのだから、この判決は公平であったという答えが返ってくるかもしれません。しかし、人種的理由にもとづいて市民を収容することが絞首刑に値する犯罪であるとしたら、日系アメリカ人を収容した合衆国の収容所の責任者はどう扱えばよいのでしょうか。

 アイゼンハワー将軍と彼の部下は、数10万から200万以上のドイツ人が疫病や栄養失調から死亡した戦後の捕虜収容所の責任者でした。もしも、数多くの死亡者を出してしまった収容所の運営を死刑に値する犯罪であるとみなすのならば、アイゼンハワー将軍たちをどのように扱うべきなのでしょうか。

 第101空挺師団アーネスト・フィッシャー中尉――合衆国陸軍前上級歴史研究員――は、最近刊行されたOther Lossesという本の中で次のように記しています。

 「19454月以降、合衆国陸軍とフランス軍は100万名ほどを、おもにアメリカ軍の収容所で、何気なく虐殺した。

 アイゼンハワーの憎悪は、彼に従順な軍官僚のレンズを通して、アメリカ軍の歴史に例を見ない恐怖の死の収容所を生み出した…大規模な戦争犯罪。」

 アウシュヴィッツを連合国の所業から区別しているのは、絶滅、大量虐殺、殺人ガス室だけです。もしも、アウシュヴィッツから絶滅という要素を取り除いたとすれば、たんに悲劇だけが残ることでしょう。それは、類を見ない悲劇ではありません。第二次大戦中に、連合国も同じような戦争犯罪を犯していたのですから。

 だからこそ、アウシュヴィッツ中央収容所のガス室の信憑性という問題は、とくに重要なのです。それは、本物のガス室だったのでしょうか、たんに防空シェルターであったのでしょうか、何かに似せて作り直されたものなのでしょうか。

 この短いビデオでは、この問題に明確に答えるまでにはいたりませんが、この問題を提起することが理にかなっているということを明らかにしてきたと思っています。簡単な結論を出すことはできないかもしれませんが、一つのことだけは明らかです。問題はまだまったく解決されていないということです。

デイヴィッド・コールはロサンゼルスに生まれ、そこで教育を受けた。彼はそこで暮らし、仕事をしている。彼は、ホロコースト修正主義への支持のために、1992122日にロサンゼルスのカリフォルニア大学での会合で、ユダヤ人防衛連盟の暴漢たちに襲撃された。彼らをコールの顔を殴り、鼻を傷つけた。ユダヤ人防衛連盟の指導者ルブリンは彼を階段から突き落とそうとした。19924月、彼は、『歴史評論誌』編集長マーク・ウェーバーとともに、全国ネットのテレビ放送モンテル・ウィリアムズ・ショーにゲスト出演し、ホロコーストについての修正主義的見解を紹介した。