試訳:連合国異端審問下のドイツ人
J. ベリング
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年8月13日
本試訳は当研究会が、研究目的で、J. Belling, Germans under the Allied Inquisition を試訳したものである(ただし、第3部がまだ未公開なので、とりあえず第1部と第2部だけの試訳であり、脚注も省略した)。 |
修正主義に関心を抱いている人々がしばしば発する質問の中に次のようなものがある。
「ドイツ人は拷問にかけられて自白を強要されたという証拠がありますか?」
私の経験によると、非修正主義的な研究者でさえも、この質問を発して、修正主義的な所説の信用をおとしめようとしている。連合国が、拷問、ごまかし、脅迫を行なった事実は厚い秘密の壁に覆われているので、この事実を文書資料にもとづいて解明するのは非常に困難であった。しかし、長年にわたって、多くの有能な歴史家たちが、連合国が拷問を使ったという衝撃的な事実を暴露する優れた研究を行なってきた。連合国の「尋問官たち」は自分たちの振る舞いの証拠を隠してきたために、文書資料にもとづいてこの事実を解明することは困難ではあるが、真実に関心を抱く歴史家・研究者たちの執拗な努力は報われつつある。以下の事実は、この問題をさらに調査しようとする研究者であれば、誰でも簡単にアクセスできるさまざまな典拠資料にもとづいている。確かに文書資料はわずかであるので、事実を再現するには、議論を論理的かつ適切に組み立てること、事件の詳細よりも事件全体の構図を明らかにすることが必要であろう。ただし、以下で明らかにするように、事件の詳細が欠けているわけではない。
連合国が敗戦国に対してどのような政策をとるようになったのかを考察する場合、1943年のテヘランでの「三巨頭」会談が1つの重要な事件であろう。チャーチルとエリオット・ルーズベルトが回想録に記しているように、「スターリンが立って、身震いするような乾杯を提案した。彼がいうには、ドイツ軍の強さは、5万名の高級将校と技術者に依存している。彼の乾杯は、できるだけ、すみやかに彼らを射殺することを求めるものであった。」チャーチルは震え上がった。その場にいたエリオットによると、チャーチルはすっと立ち上がり、彼の顔と首は紅潮していた。彼は、法と正義に関するイギリスの考え方では、そのような屠殺を認めることはできないと宣告した。ここに、ルーズベルト大統領が割って入った。彼は妥協案を提案した。5万名の処刑の代わりに、「もっと数を少なくしましょう。49500名ではどうでしょうか」というのであった。テーブルについていたロシア人全員が笑いこけた。自分たちのボスの「ユーモア」を適切に褒め称えなくてはならないアメリカ人も笑いこけた。チャーチルはテーブルを離れたという。
ソ連人は、自分たちがカチン、ミエジョエ、ハリコフの森で殺戮した14000名のポーランド軍将校のことについても依然として一笑に付していたので、ルーズベルト大統領がいささかいやみな「ジョーク」を述べたことも、彼らには大いなる楽しみの源になったにちがいない。のちに、ルーズベルト大統領の通訳の一人は、自分のボスが衰弱してしまっている様子を、「彼の容貌は病人のようであり、振る舞いも病的であり、話し方も病人のようであった」と述べている。
しかし、ルーズベルトの発言をたんなる冗談として片付けることはできない。もしも、陸軍長官スティムソンが頑強に反対していなかったとすれば、ルーズベルトは一年以内に、悪名高い「モーゲンソー計画」を喜んで承認していたにちがいないからである。
連合国が敗戦国民であるドイツ人にどのような態度をとったのか。この問題を適切に評価するには、まず、諸事件を秩序立てて、概観しておかなくてはならない。連合国は「文明化されていた」ので、捕らえられたドイツ軍将校に対して拷問を使って、自白を引き出したことはないとの反論をとなえる人々は、まず、次のような、的確な基準を調査・提示・明示しなくてはならない。
(1)
連合国は非戦闘員をどのように取り扱ったのか。戦争遂行にまったく関係していないドイツ人はどのように取り扱われたのか。ドイツ人女性、老人、とりわけ子供たちに対して、連合国はどのような政策をとったのか。
(2)
ドイツ軍捕虜はどのように取り扱われたのか。とくに、その人物に対して犯罪告発が提出されていないドイツ国防軍、ドイツ空軍その他の構成員はどのように取り扱われたのか。
もしも連合国は敗戦国民であるドイツ人を正義と公正を持って取り扱い、そのことが、文書資料と実際の歴史記録にもとづいて立証されうるならば、ドイツ軍捕虜が拷問・虐待を受けたという話は、完全に消え去ることであろう。
まず、記録を検証しておこう。ドイツ人民間人は、イギリスの飛行士がベルリンの学校を爆撃し、多数の子供たちを殺傷した1940年に、連合国の政策の前触れのようなものを経験した。空爆は戦時中に熾烈を極めていき、ドレスデン、ハンブルク、ベルリン、ニュルンベルク、ミュンヘンその他の都市が崩壊し、50万ほどの生命が失われた。連合軍飛行士が難民とホームレスに対して爆弾を落としたり、機銃掃射することは一般的であった。このために、アメリカ軍とイギリス軍飛行士は、悪名高い「テロル飛行士」というあだ名をもらい、ドイツ人民間人に捕らえられると、そのように取り扱われた。すなわち、パラシュートで降下した飛行士は、自分たちの愛する家族をテロル爆撃で失ったドイツ人民間人よってしばしば殺害されたのである。のちに、連合国は、このような正義の復讐行為の責任者であった民間人を執念深く追跡し、いつどこで発見しても、彼らをすべて絞首刑とした。
1944年、50名の連合軍飛行士がサガン捕虜収容所から逃亡し、その後銃殺された事件が起こったが、連合国はこの事件にとくに敏感であった。ドイツ側からすると、もし逃亡を試みれば、射殺されるという警告が飛行士たちには出されていた。さらに、逃亡者の多くは民間人の服かドイツ軍の軍服を着ていたので、ドイツ軍当局は、彼らがスパイであると断定した。バルジの戦いのとき、オットー・スコルツェニイのコマンド部隊はアメリカ軍の軍服を着て、アメリカ軍の前線に侵入し、その下にドイツ軍の制服を着ていたにもかかわらず、捕虜となるとすぐに銃殺された。このことを考えると、50名のテロル飛行士の射殺などは、しごく当然のことである。しかし、ドイツ軍将校はこの「犯罪」のために銃殺され、一方、ドイツ軍の「スパイ」を銃殺した連合軍の犯罪にはお咎めはなかったのである。
マルメディでのアメリカ兵の銃殺はよく知られている事件であり、この戦闘に参加したドイツ軍部隊はすべて連合国の審問法廷の前に引き出された。一方、フランスで武装SS隊員を無慈悲にも銃殺した事件に関係する連合軍部隊が法廷に引き出されることはなかった。
ダッハウでは、アメリカ兵がドイツ人看守を壁の前に並べて、無慈悲にも銃殺した。また、アメリカ兵は、狂乱した囚人が、他の看守を残酷に殺戮することも許していた。この犠牲者の中には、SSが収容所を去ったのちに、そこに残って収容所を守ったにすぎないドイツ国防軍将校もいた。
連合軍がはじめてドイツ領に入ったとき、この勝利を収めた「民主主義のチャンピオン」は、尊厳と名誉を持って自己を律していたであろうか。これについては読者が判断していただきたい。以下の記録は、無防備なドイツ国民に対する略奪、強姦、窃盗という連合軍部隊の乱行についての多くの文書資料からの抜粋である。連合軍がドイツ各地でドイツ人民間人に対してもっとも頻繁に犯した犯罪は暴力的強姦であり、そのことは以下の報告の抜粋からも立証されている。しかし、女性と子供に対する犯罪の咎で処罰された連合軍兵士はほとんどいなかった。
『ドイツを占領する合衆国陸軍』という出版物から。
「合衆国軍部隊が犯した犯罪の中で、もっとも文書資料的に確証されているのは強姦であり、それは、戦争末期の数ヶ月に、『飛躍的』に増加している。1942年7月から1945年10月までのあいだに、ヨーロッパ戦線で904件の強姦事件が告発されており、そのうち、552件がドイツにおいてであった。487名の兵士が、なんと1945年3月、4月に犯した強姦事件で裁判にかけられた。すべての事件が報告されているわけではなく、報告された事件すべてが裁判にかけられたわけではない。有罪判決が出た割合は比較的低かった。」
「保安警察のデスクに積み上げられた、合衆国軍部隊による強姦と強盗事件報告書。」
「黒人部隊が駐屯する地区では、事態はもっとも緊迫していた。黒人部隊は、売春婦抑制措置を、別のかたちの人種差別と解釈していたからである。ヴュルッテンベルクのキュンツェルザウでは、第350野砲大隊の黒人兵士が、性病予防措置のために拘束されていた売春婦の釈放を看守が拒んだときに、看守を殴りつけた。その後、キュンツェルザウの警察は、売春婦問題に干渉しようとすると殺されるとの恐怖を感じて、職務を辞そうとした。」
「すべての事件に酒や女が関係しており、その2つ双方が関係している事件も多かった。11月、軍は、ドイツ人女性の性病に対処するためにペニシリンを放出し、それによって、監獄や病院からの『保釈』を早め、感染の恐れのために遠ざけられていた女性たちを引き寄せてしまった。このために、売春婦の数が不本意にも増加してしまった。結果として、売春婦問題は、兵士たちがドイツの警察を襲撃する根本理由となってしまった。…あるケースでは、アメリカ軍将校がオーストリア人少女をリンツからシュトゥットガルトまで連れてきて、3度強姦し、そのあとで、この少女をウルムに連れてきて、書類不備の罪で彼女を憲兵に引き渡した。」
「黒人兵士は、自分たちには平等に女性が割り当てられていないと思っており、ドイツ人とアメリカ人白人に対する恨みをつのらせていた。」
以上のような事例は連合国占領当局が確認している事例であることに留意しておかなくてはならない。その他の報告書には、以上のような事例をもっと詳しく確証している事件が報告されているかもしれない。
「東からは、ボリシェヴィキ化されたモンゴル系スラヴ系の群れがやってきて、捕まえた女性と少女をすべて強姦し、彼女たちに性病を植え付け、彼女たちをはらませて、将来のロシア・ドイツ人雑種の種を植え付けている。
西部地区では、イギリス軍は植民地兵を、フランス軍はセネガル兵、モロッコ兵を、アメリカ軍はかなり高い割合で黒人兵を使っている。われわれの方法はロシア人の方法のように直接的ではない。われわれは、生きるため、すなわち、食べ物を手に入れるため、寝る場所を手に入れるため、身体を洗う石鹸を手に入れるため、身を隠す屋根を手に入れるために、女性たちに美徳を放棄するよう強いているのである。」
以下は、1945年9月3日に、ドイツのブレスラウを脱出したカトリック司祭の手紙からである。
「少女たち、夫人たち、尼僧たちは果てしなく犯され続けている。…人目をはばかった隅の一角だけではなく、みんなが見ているところで、ひいては教会で、公共の場所で、尼僧たち、女性たち、そして8歳の少女までもが何回も強姦されている。母親たちは子供たちの前で、少女たちは兄弟の前で、尼僧たちは教え子たちの前で、何回も、死体のようになってしまうまで強姦された。」
わが「同盟国ロシア軍」は世界を「民主主義のために安全に」するために、ダンツィヒを「解放した」とき、少女から83歳までの女性全員を強姦することで、彼女たちの美徳と貞節をすみやかに解放したのである。町の女性が保護を求めたとき、ロシア軍将校は、カトリックの聖堂に隠れるように勧めた。数百の女性と少女が聖堂の中に身をひそめたとき、母なるロシアの勇敢なる息子たちが入ってきて、「オルガンを弾き、鐘を鳴らし、すべての女性たちに、30回以上も強姦しながら、一晩中ドンチャン騒ぎをくりひろげた。」
「こうした原則を侵犯したのはロシア兵だけではなかった。シュトゥットガルト警察記録によると、フランスの占領時代、1198名の女性と、8名の男性がフランス軍部隊、大半がモロッコ兵によって強姦された。」(ラルフ・キーリング)
同じ資料によると、ドイツのアメリカ占領地域での黒人兵の平均性病罹患率は、なんと1000名につき771名であった。シカゴ・デイリー・ニュースの特派員リー・ヒルズは、この現象をアメリカ国民に説明して、次のように述べている。
「政治的に微妙な問題なので、陸軍省も対処することを恐れているもう一つの問題は、黒人系アメリカ兵が多用されていることである。この結果、トップレベルでの陸軍の指導力は卓越したものであるにもかかわらず、対独戦勝記念日以来、アメリカの威信は落ちてきている。ドイツにいる指導部は、例外なく、そのように多数の(42000名)黒人兵を使うことは間違いであるとみなしている。…黒人兵のあいだでの犯罪発生率、性病罹患率は白人兵士よりも数倍も高く、悪事をはたらいという記録も多い。…率直にいえば、最悪の問題は、わが軍の有色人兵士がドイツの白人少女を連れまわしていることから発生しており、そのことは、ドイツ人男性のあいだに憎悪を呼び起こしている。わが軍の兵士の多くも、少なからずそのように感じている。」
ドイツ人女性・少女に対する大量強姦についての文書資料は膨大に残っているので、これらの典拠資料については、本小論末尾の「推薦資料」を参照していただきたい。これまでは、ドイツ人女性が連合国によってどのように取り扱われてきたのかを明らかにしてきたので、次に、子供たちがどのように取り扱われたのかを検証してみよう。
またもやルーズベルト大統領が、ドイツ人民間人に対する連合国の政策を決定するうえで主導的な役割を果たした。彼の政策は、敗戦国民に対する食糧提供についての発言の中に登場している。ルーズベルトの提言は、「ケーキを食べればよいのに」というフランス市民についてのマリー・アントワネットの発言と同様に、「陸軍の厨房からのスープを1日3度提供してやればよい」というものであった。
しかし、のちにわかるように、ドイツ人はこの「豪勢さ」にもありつけなかった。合衆国陸軍軍事史センターが刊行する『ドイツを占領する合衆国陸軍』によると、「軍政府は、ドイツ人難民、この段階では飢えた子供たちのためにも、救援の手を差し伸べなかった。」
ここには、飢えたドイツ人の子供にはまったく救援の手が差し伸べられなかったという、政府関連資料からの直接的証拠がある。だから、これらの子供たちは飢え死にするまま放置されたと推測しうる。これらの子供たちのあいだには孤児も多かった。父親たちは捕虜収容所で衰弱・死亡しており、母親たちは強姦されたり、殺されたり、あるいは、連合軍のぞっとするような空爆の犠牲者となっていた。いずれにしても、連合国の政策は一貫していた。例えば、連合国がベルリンを占領した最初の数ヶ月には、チフスが市内に蔓延し、新生児の65%が死亡した。ベルリン市民は、このチフスの蔓延のことを「飢餓チフス」と呼んだ。たしかに、6月の幼児死亡率は、1000名につき何と660名に達したのである。人道、とくに、無垢な子供たちに対する暴力と犯罪に責任をおっていたのは連合国の政策と政治家たちであった。連合国は、彼らを「ガス処刑」しなかった。「ガス処刑」のほうが人道的であったであろう。連合国は、彼らが餓死していくのを放置したのである。
『帝国の廃墟から』の著者ダグラス・ボッティングによると、1945年7月、ベルリンのアメリカ地区では、20名の新生児のうち19名が死亡した。同じ資料によると、イギリス地区では次のような状況であった。
「幼児と老人の死亡率は、ほぼ300年前の三十年戦争以降存在しなかったような水準にまで達した。戦前には、毎日の死者数は150名であったが、1945年8月には、4000名が毎日死亡していた。棺が不足していたので、死者は、荷車や担架で運ばれ、布か紙でくるまれていた。53000名の孤児が、地面に掘られた穴の中で、野生の動物のように暮らしていた。片目、片足の孤児たちもおり、その多くが空襲やロシア軍の攻撃によって精神をいためていたので、制服を見ると、たとえそれが救世軍の制服であっても、悲鳴をあげた。」
アメリカ軍当局は、このような筆舌に尽くしがたい状況を考慮して、可能であれば、一片の肉や魚に、「半分の卵」を付け加えることをお慈悲で許可した。だが、アメリカ軍兵士は、この時期に1日4000カロリーを受け取っていた。
ユダヤ人とユダヤ人難民は、アメリカ軍兵士の次に高い配給、すなわち3000カロリー以上を受け取っていた。
フランス地区では、事態を想像してみると、状況はさらに悪いものであったろう。ドイツ全土では、栄養失調、飢餓、放置と虐待のために、子供たちはくる病にかかっており、小さな身体の各所に、膿んだ潰瘍を抱えていた。靴も履かず、食事もなして数日間すごす子供たちも多かった。一方、アメリカ軍兵士は占領当局の命令にしたがって、数千ガロンのミルクを、飢えた子供たちに提供するのではなく、廃棄していた。パットン将軍はこのような事態に、正義の怒りをおぼえ、そのために、アイゼンハワーと不仲となった。アイゼンハワーはパットン将軍を解任した。
ボッティングの本には、当時、ベルリンで働いていたクリストファー・リーフェという名のイギリス軍将校の話が引用されている。それによると、ドイツ人の子供が、食糧を買うために、将校宿舎から物を盗もうとして捕まった。イギリス軍の少佐は、この少年に哀れみをかけるのではなく、繰り返し無慈悲に殴りつけた。この少年は10歳ぐらいで、「豆の支柱のように痩せており、まとっている衣服はズタ袋のようであった。」このイギリス軍少佐は、『ドイツ人のちびっ子のクソやろう』と叫びながら、何回も殴りつけた。
この事件でもっとも当惑するのは、誰一人としてこの少年に哀れみをかけようとしなかったことである。抗議をすることもなく、嘆かわしい事態が進んでいくのを許してしまうほど、悪意のある憎悪が抱かれていたのである。リーフェ氏はこう述べている。
「重要なことに、われわれの誰一人として、この少年に哀れみのかけらも抱かなかった。少年は孤児であったろう。父親は東部戦線で戦死し、母親は空襲の廃墟の瓦礫の下で衰弱していたのかもしれない。だから、この少年は飢えており、イギリス軍戦車連隊の真ん中で、命の危険を冒して、排水管をよじ登ったのである。だから、何であったというのか。われわれはこの少年に対しても、ほかのドイツ人に対しても、まったく憐憫の情を抱かなかった。彼らは公共の敵ナンバー・ワンだったからである。だから、われわれは、ドイツ人の馬を徴発し、ドイツ人のメルセデスを徴発し、ドイツ人女性を徴発した。ドイツにいたイギリス人青年の60、70%がそのように考えていたことであろう。われわれの大半は、血塗られたよき時間をすごすために存在しており、うまくやりすごすことができると考えていた。」
大量の幼児が死ぬまで放置されたことは別として、ドイツの少年が生き抜くことを強いられた状況は、悲惨なものであった。連合国はドイツの幼児の運命に無関心であったとすると、ドイツの10代の若者、青春期前の少年たちのおかれた境遇はそれよりも良くはなく、彼らの運命が死よりも過酷であることも多かった。戦争末期に国軍に徴用され、そして捕らわれの身分となったドイツの少年たちは、連合国の手でとくに虐待された。捕虜となったときの彼らの様子を写した多くの写真があるが、彼らの境遇は過酷なものであった。不運な彼らは青白く痩せており、その顔には傷があったり、血がついていたりする。そして、2倍も背が高いような、獣のような憲兵に「連行」されているのである。『連合国の戦争犯罪と人道に対する罪』には、アメリカの新聞からとられた「ヒトラー・ユーゲントの最期の歩み」と題する写真が掲載されている。そこには、せいぜい13、14歳の少年がMPに連行されて、処刑場に向かっていく姿が写されている。一体、どのような犯罪を犯したのであろうか。スパイ「容疑」であったのであろうか。裁判も開かれず、証拠も提出されていない。たんに、スパイ「容疑」の咎で、銃殺されたのである。この少年がこのような根拠薄弱の理由で、終戦時になぜ命を失わなくてはならなかったのか。それは、まったく不可解であるが、この事件の詳細については解き明かすことはできないであろう。だが、たんに飢えていたために、一人の10代の少年がイギリス兵によって虐待されたことについては、その証拠を提示してきた。
アメリカ人の作家Marguerite Higginsは、この時期にドイツを訪れ、のちに自分の経験をまとめている。彼女は、その著作News in an singular thingの中で、GI「尋問センター」を訪れたときのことを次のように記している。
「GIたちは私たちを収容所のメイン・ゲートのところに連れて行ってくれました。…房の格子の向こう側には、3名の制服を着たドイツ人がいました。そのうち二人は殴られ、血を流しており、意識を失って、床に倒れていました。3人目のドイツ人は、髪の毛をつかまれて、持ち上げられており、忘れることができないのですが、その髪の色は人参のような赤でした。一人のGIが彼の身体をひっくり返して、その顔を殴りました。犠牲者がうめき声を上げると、そのGIは『うるさい、このドイツ野郎』と怒鳴りました。…ほぼ15分間にわたって、二列の20名から30名のGIの列が、順番に規則的に、6名の捕らわれたドイツ人を殴りつけていました。…あとでわかったことなのですが、GIたちが捕らえた6名のドイツの少年は、SS隊員ではありませんでした。彼らは、最近、政府の作業大隊に徴用されたにすぎませんでした。赤毛の少年は14歳でした。房の中にいたその他の5名のドイツの少年は、14歳から17歳でした。」
もしこのような事件が単発的であると考える人がいるのであれば、私は、こうした殴打が風土病のように蔓延していた証拠をもっと提供しうる。これらは単発的な事件ではなかった。実際、広く行なわれていたのである。非修正主義的歴史家たちは、このような殴打事件が起こらなかったとの立場をとっているが、殴打が行なわれた証拠は圧倒的である。そして、こうした虐待が無実の人々、とりわけ子供たちに行なわれていたとすると、論理的には、凶悪犯罪で告発されたナチスに対する取り扱いがはるかに過酷なものであったと考えることができるであろう。
『気をつけろ!偽造!』と題する本には、連合国の尋問官の「尋問」を受けたのちの二人のドイツ人少年の写真が掲載されている。この写真自体が真実を物語っている。二人の少年の顔は傷だらけで、腫れ上がっており、血が流れている。結論を言えば、これまで読者のために提供してきたエピソードは、文書資料にもとづく数千のケースの中の氷山の一角なのである。連合国の政策は明らかである。ドイツ国民全体を巨大な強制収容所に入れてしまうことが連合国の意図であった。この政策はドイツ全土で推し進められた。ドイツの青少年は放置され、飢えの中で悲惨な生活を余儀なくされた。家も両親も失った数多くの少年たちは、「ギャング」団をつくって、ただ生きるために犯罪を犯さざるをえなかった。少年・少女は、一口の食べ物を手に入れるために、売春せざるをえなかった。連合国は、自分たちが他国民に科した恐怖と苦難について責任を取っておらず、また、謝罪もしていない。
また、次の事例からもわかるように、ドイツの少年たちが、脅迫なしに自白してしまうと、アメリカ兵たちはがっかりしたようである。
「われわれがのちに尋問した3名の少年とナチスについて驚くべきことは、友人がしゃべったことを知ると、すぐにすすんで、他人のことを密告しはじめたことである。だから、彼らが裏切られたと説得するには、さしたる『説明』は必要でなかった。このことは、尋問で物理的な手段にうったえる必要がなくなることを意味しているので、われわれの中にはがっかりしてしまう者もいた。」
先に進む前に、捕虜、とくに武装SS隊員の捕虜に対する拷問と虐待のケースを、文書資料にもとづいてあげておこう。連合国は、ニュルンベルク裁判がはじまるかなり前から、SSを犯罪組織とみなしていたし、武装SSは連合軍にもっとも決然と敵対し、敢然と抵抗したからである。
連合軍の死傷者の割合は、武装SS部隊と遭遇したときに非常に高かった。このために、SSはその勇敢さの面で、恐れられると同時に、賞賛された。連合国は、SSが占領当局に対する地下抵抗運動を続けることを恐れ、全世界の目の前だけではなく、ドイツ国民の目の前で、この優秀な部隊を徹底的に解体し、その名誉を貶めることを決断していた。その結果、SS隊員は連合軍の手でもっとも虐待されることになった。連合国は、戦争犯罪と人道に対する罪で告発することで、このエリート・ナチス集団の記憶自体を抹殺しようとした。しかし、武装SSは犯罪組織ではなく、戦闘組織であり、連合国がその隊員に行なった虐待は、不正であり、犯罪的でもあるというのが真実である。SS隊員は強制収容所の看守の役目も果たしており、連合国はこの事実を利用して、SS隊員全体を非難した。もちろん、収容所の看守であったことが、この人物が犯罪者であったことを意味しているわけではないこともいうまでもないが。以下は、武装SS隊員が連合国の手で受けた虐待に関する報告である。すべての文書資料は、『連合国の戦争犯罪と人道に対する罪』からである。
1945年1月
二人の武装SS隊員が、隠れていた穴から引き出され、くぼみに連行されて、銃殺された。このとき、二人は手を挙げていた。
肺に銃弾を受けたために病院で治療中であった武装SS隊員Kは、赤十字看護婦部隊の別の病院に移送されている途中で、アメリカ兵によって銃殺された。
1945年4月
パデルボルン。一人のSS将校が、尋問官からシャツと下着を脱ぐように命じられた。その後、顔を殴られ、背中を鞭で打たれた。MPはタバコの火を彼の背中に押し付けて、消した。ついで、このSS将校は顔を壁に向けて立つように命じられ、そのあいだ、尋問官は銃口を彼の首に押し付けていた。鎖が手首に巻きつけられ、苦痛で失神するまで、締め付けられた。
バイエルン。警察署長が捕虜となり、房に連行された。そこでは、アメリカ兵が彼の頭にピストルを押し付け、その後で、彼の身体に向かって小便をした。
SS隊員とナチス党員のための特別収容所では、サディスティックなアメリカ軍軍曹ポール・ドイルが、自分の管轄下にある人々を虐待している。彼は毎日、意識のなくなるまで殴りつけ、肋骨を折ることもしばしばである。頻繁にひどく殴られたので、入院しなくてはならない者もいる。ある晩、彼は房に入って、一人の男をとくに長いあいだ殴りつけた。この犠牲者が意識を失うと、回復させるために水が顔にかけられた。また、殴られた。終に、意識を失ったまま房から引き出された。この男は、身体の外部、内部に数箇所の傷を負って、入院した。別のSS将校はドイルにひどく殴りつけられたので、のちに、その傷がもとで死亡した。別の犠牲者は、頭を長いあいだ水に沈められ、お尻はひどく鞭打たれたので、皮が破れ、垂れ下がっていた。
一人のSS隊員が裸の足の裏を繰り返し殴られた。
二人のSS隊員がお互いの顔にげろを吐きかけるように強制された。
二人のSS隊員が、武器をアメリカ軍に引き渡したのちに銃殺された。
シェスリツ。地方支部長代理の頭が、アメリカ兵のゴム警棒と拳骨でひどく殴られた。彼は、その後で、火のついたタバコを食べるように強制された。庭に墓のようなものの区画が作られ、その後で、この男は手足を縛られて、ろうそくの火だけのともる部屋に一晩中放置された。翌日、この男は墓を掘って、その中に立っているように命じられた。一人のアメリカ兵が、この壕の中で排便・排尿しているこの男の写真を撮影した。
二人のSS隊員が、アメリカ軍軍曹からつばを吐きかけられ、その後で、失神するまで、性器を足蹴にされた。
1945年5月
一人のSS隊員が身体中にタバコの火を繰り返し押し付けられた。
一人のSS隊員が足を鎖で縛られ、便器の中に頭を入れたまま、便所に吊るされた。
アルテンブルク。SS隊員が丸裸になるように強制された。アメリカ兵は彼らを、意識がなくなるまで鞭で打った。彼らは、そのまま床に放置された。
ヘルフォルト。重傷のSS将校がアメリカ兵によって、鉄条網の重い束を裸の肩に背負い、走って往復するように強制された。この人物はまもなく、背中の皮膚がはがれたときに、気を失った。
1945年6月
SS指導者の集団が重い石を背負わされ、裸の足のままで砂利の上で体操するように命じられた。彼らは意識を失い、その場から運び去られた。
二人の片足の人物がコードでつながれて、48時間、食料や水も与えられずに、立ったままでいるように強制された。その時、尋問官のヴェルトハイム軍曹は、「これでお前たちも二本足となった」と嫌味を言った。
監獄22:囚人たちは、自分たちのむき出しの手で、夜毎、便所を掃除するように強制された。
監獄23:アメリカ軍収容所軍曹は、無防備な囚人の腹部に針を刺すことで数時間をつぶした。上記のことはフランスの収容所で起った。
1945年7月
シュトゥットガルト。ある男が、一般SS隊員であったとの告発を受けたために、アメリカ兵によって、真夜中にベッドから引きずり出された。彼は通りに引きずり出されて、棒で殴られた。30分後、二人のアメリカ兵によってふたたびベッドから引きずり出され、野原に連れて行かれて、その後、その場を去るように命じられた。この男は、背中を撃たれるのではないかと恐れて、これを拒んだ。すると、銃床と拳骨で気を失うまで殴られた。顔に水がかけられ、意識を回復したが、ふたたび、気を失うまで殴られた。このために、彼は、肋骨を折り、頭に裂傷を負い、脳震盪となり、歯を失った。
ミュンヘン近郊。武装SS隊員が軍服の記章を食べるように強制された。
1945年8月
ヴォルフハーゲン捕虜収容所で、重傷のSS伍長が、自白を強要されて、アメリカ兵の拷問を受けた。彼の性器は足蹴にされ、タバコの火を何回も押し付けられた。この人物は20歳の若者であった。
ヴァイデン捕虜収容所。二人のSS隊員がたがいに手錠をかけられ、尋問官が彼らを殴りつけた。彼らの腎臓が繰り返し殴られた。アメリカの尋問官の身元がわかっているので、ツィゲンハイン収容所については、特筆しておかなくてはならない。ここで使われた拷問の方法は、これまで挙げた事件での方法よりも邪悪である。この収容所の主席尋問官は、サイモン・ワトソン監督官とグッドマン中尉であった。彼らのお気に入りは、「アウトバーン」というゲームであった。犠牲者の眉毛と睫毛が切られるか、抜かれ、それが、長い時間、犠牲者の口と鼻に詰め込まれる。以下は、このような「特別措置」の実例である。
機械技師は、頭を何回も壁にたたきつけられたので、その鼻から血がほとばしり出た。
一人の男が「尋問」に連行された。彼の手、顔、首、耳は、鉄条網のついたゴムの警棒でひどく殴られた。その後で、拳骨で顔面を殴られた。彼は、何時間も照明を見たままでいることを強制され、縛り首にするぞ、銃殺するぞと脅迫された。また、鉤十字を首と額に描かれた。
犠牲者は、ヒトラーの写真のついた葉書と火のついたタバコを呑み込むように強制された。
一人の男が拷問部屋に連行された。ここで服を脱いで、げろ、排泄物、汚物の上に横たわるように強制された。
「サイモン監督官」は、一人の男に火のついたタバコを呑み込むように命じ、そして、彼の歯を殴り折った。アウシュヴィッツにいたことのあるユダヤ人囚人は同僚の囚人に、「自分はアウシュヴィッツにいたときには、SS隊員から殴られたことはなかったが、ここでは、アメリカ兵に殴られている」と打ち明けた。
このような事態が、毎日毎日、毎週毎週、毎月毎月、毎年毎年続いた。スペインの異端審問所の獄吏でさえも、この「尋問センター」の「尋問官」たちよりも悪辣ではなかったにちがいない。スペインの異端審問所は、連合国のトルケマダとマシュー・ホプキンスのモデルとなったようにもみえる。こうした連合国による裁判を考察してみると、その大半を主宰したのがアメリカ人であったという興味深い事実が見えてくる。以下がその証拠である。
「イギリス人、フランス人、ロシア人は、『国際軍事法廷』が終わってしまうと、ニュルンベルクから引き上げていった。その後でニュルンベルクで開かれ、1948年に終了した12の裁判は、すべてアメリカのショーであった。判事と検事はすべてアメリカの民間人であり、裁判はアメリカ国旗のもとで行なわれ、裁判の公判は毎朝、法廷執行官が合衆国国家を歌うように求めることからはじまり、原告対被告のあいだで進行した。にもかかわらず、これらの法廷は『国際法廷』とみなされ、その権威を、連合国管理委員会が存在しなくなったあとでも、そこから引き出しているとみなされた。」
言うまでもないことだが、現代の異端審問官に雇われた尋問官たちの誰一人として、犯罪で告発されたり、法廷に引き出されたことはない。もしも、この犯罪を文書資料を持って立証した勇気ある少数の人々の持続的な研究がなかったとすれば、彼らの犯罪という悪行は表に出てこなかったであろう。だから、非修正主義的な「歴史家たち」が、ドイツ人の自白は拷問や強要によって引き出されたものではないと主張するのを耳にすると、笑止千万であるとの思いを抱かざるをえない。こうした「歴史家たち」の力の根拠は、真実が明るみに出ることはないという確信なのであろう。
われわれは、連合国が、一般の兵士および通りすがりの一般人に対して、どのような尋問手段をとってきたのかを明らかにした。次に、収容所長やスタッフ、そうでなければ、ナチスの「主要」戦争犯罪人として知られている人々に対して開かれたニュルンベルク裁判およびその他の裁判を検証しよう。すでに指摘したように、膨大な証拠を考えると、連合国が、「自白」を引き出すために、犯罪で告発されているナチスに対して拷問を使わなかったとは考えられない。これらの被告の署名した文書が次のように記されていること自体が疑問を呼び起こす。
「上記の陳述は真実である。この陳述は、私によって、自発的に、強制なしでなされたものである。」
たしかに、「強制なしで」とある。では、ニュルンベルク裁判の検証から始めよう。
(以下続く)