試訳:ロシア修正主義者の声(2)
――ナチス体制とスターリン体制の比較――
エス・エヌ・アズベレフ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年3月31日
本試訳は当研究会が、研究目的でС. Н.
Азбелев, Юбилей соглашения большевиков с нацистами(ボリシェヴィキ・ナチス協定にちなんで)を「ロシア修正主義者の声(2)――ナチス体制とスターリン体制の比較――」と題して試訳したものである。 |
69年前の1939年8月23日、スターリンとヒトラーの願いにそって、いわゆる、「モロトフ・リッベントロップ条約」が結ばれた。そこには、二つの全体主義体制の指導者のあいだの地政学的秘密協約が付随していた。その後、ヒトラーが始めた世界戦争でナチス・ドイツは敗北した。そして、その後、スターリンが始めたボリシェヴィキ的ソ連邦も敗北した。
ソ連体制の思想的・心理的遺産が消え去っていくのは非常に遅かった。当然なことに、多くの人々がこのことに憤り、ドイツの例を引いた。すなわち、民衆たちの多くはヒトラーを熱狂的に信頼し、ナチスの宣伝を受けた民衆たちの黙認のもとで、「20世紀の疫病」であるナチス全体主義体制は、数百万のヨーロッパ人の破滅をもたらした、そのナチス体制は、悪夢の痕跡すら残さずに、きっぱりと消え去っていったというのである。文明化され物質的に豊かな住民を抱えたドイツは、すでに先進諸国の仲間入りをしている。一方、ロシアは発足の9年目に入っても、ソ連崩壊以降の状況の中で遅々として前進していない。すなわち、国民の圧倒的多数の物質的生活は、政府当局が公務員に対する些細な給料、些細な年金さえも支払うことができないために、財産の両極端化が進んだ結果、改善されるどころか、前よりも悪くなっている。腐敗と組織犯罪に対する「闘争」には巨額の資金が投入されているが、今のところ、目立った成果をあげていない。こうした状況の下で、多くの人々は、すべての市民が国家によって保護されており、生活に必要な金銭を国家から手に入れることができたソヴィエト権力に――もちろん、「改善された」かたちではあるが――に戻ろうというネオ共産主義者のデマゴギー的な呼びかけに共感しようとしている。
二つの全体主義体制には明確な類似点があるにもかかわらず、脱ソ連化は脱ナチス化とは原則的に別のプロセスであることを考慮しておかなくてはならない。ドイツ(正確には、当初はその西側部分の、その後で東側部分の政治・国家体制)は、ナチスによる権力奪取の以前の状態に復帰した。すなわち、直前の第一次大戦に敗北した国家の状態に復帰したにすぎない。その国家では、君主主義的な統治形態は消滅していたが、基本的に安定した社会組織、私有財産の不可侵性、すでに強力に発展した経済が維持されていた。ドイツが1918年の敗戦後に経験した変動は、社会的インフラストラクチャの原則的変更、社会の指導層の物理的消滅をもたらさなかったのである。
ロシアで起こったことはまったく別のことであった。ロシアでは、私的所有地は(「農業集団化」までは形式的に農民に帰属していた分与地を除いて)、「全人民的」財産に代わった。ロシア国民の上層部は、その一部は根絶され、一部は国外に逃亡した。残った人々は半合法的な状態におちいった。生活の維持のために新しい権力に使えることを余儀なくされた人々、すなわち、国家を指導する準備がまったくできていなかったが、革命の中で上層身分の地位を獲得した人々が、専門的知識を持つ専門家という従属的で、薄い身分層を形づくった。70年間にわたって、新しい身分が、固定するようになり、非合理的で寄生虫的な経済の役人として、指導にあたる経験を積んでいった(もちろん、これは、1917年以前のロシアの繁栄を保証していた、はるかに効率的な経済の下での、所有主=経営者としてではなかった)。
党・経営ノメンクラトゥーラは、生活(以前には命)の保証を、無条件に奉仕する状態に求めていたが、それから解放されると、万全の準備を整えて、「ペレストロイカ」と「私有化」を向えた。「ペレストロイカ」と「私有化」によって、国有財産の特権的管理者層は、私的資本を稼がない所有主に変ったからである。新しい地位と1917年の共産主義的なスローガンはまったく矛盾していたが、そのことを気にするものは少数であった。この環境では、共産主義的なスローガンを真剣に受け止め続けていたのはごく少数の人々だけだったからである。だが、すべてのノメンクラトゥーラが国有財産というピロシキを競って手に入れることに成功したわけではない。一瞬のうちに共産主義者から資本家になるという見通しに困惑してしまったノメンクラトゥーラも存在したのである。このために、反対派が形成された。彼らは、新しい社会階級が新しい条件のもとで合理的に運営することができず、その結果、国民の大半が苦しんでいるという状況をデマゴギー的に利用した。この苦難は、ドイツ国民がヒトラー時代、ヒトラー後の時代に経験しなくてはならなかったものよりも大きかった。
ナチスとボリシェヴィキの行動様式は、道徳、法体制、イデオロギー、プロパガンダの面で何よりも似ていた。双方とも、党の指導者への献身、国家体制での党の優位を強調していた。法治体制は実質的に、無法状態にとってかわり、恐怖と国家的な虚偽の情報の中で、密告が強く奨励され、ひいては要求された。学問と教育、文学と芸術、出版とラジオ放送は完全に統制され、「必要な」傾向においてのみ機能することができた。社会の精神生活は、イデオロギー的な統制のもとにおかれた。しかし、ドイツでは、異常に「肥大化した」ドイツ愛国主義がイデオロギーとなったのに対し、ソ連邦では、ロシア愛国主義は20年代には厳しく禁止され、その後、共産党と「プロレタリア国際主義」への帰依にもとづく「ソ連愛国主義」という、少なからず異常なイデオロギーに「とって代わられる」ようになった。この二つの偽愛国主義の変種は、程度の差こそあれ、「アーリア人の」(すなわちナチスの)世界支配を、もしくは「プロレタリア独裁の」(すなわち党・共産主義者の)世界支配を実現しようとする空想的な考え方の「根拠」となった。
たしかに、ソ連の「社会主義」体制とドイツの「民族社会主義」体制のあいだには類似点も多いが、少なからず重要な相違点も存在した。
ナチスのイデオローグの多くはキリスト教に反するような主張を行なっていたが、キリスト教徒に対しては寛容であった。ドイツでは、宗教的な動機による迫害はなかった。一方、無神論者のボリシェヴィキが、教会、とくにロシア正教会、聖職者、信者たちにどのように振舞ったかはよく知られている。数万の寺院が冒涜・略奪、解体・閉鎖された。数万以上の聖職者、数百万の信者が物理的に絶滅された。
ナチスは、それまで権力闘争でのライバルであった共産主義者を迫害し、「疎外した」。ドイツでは、突撃隊とゲシュタポが、ナチズムに対する頑強な反対派を清算した。約20万名のドイツ人を清算したという。この際、ナチスは、その多くが社会的に下層階級の出身であり、ドイツに「社会主義」をうちたてようとしていたにもかかわらず、社会的な反目を掻きたてようとはしなかった。彼らは、「階級的出自」にしたがって、旧王室関係者、皇帝に仕えていた貴族、将校、高級官僚対しても、ドイツの大企業経営者、大商人に対しても迫害しなかった。これとは逆に、ボリシェヴィキは、こうした手段を使ってロシアに「社会主義」をうちたてた。彼らは、身分的な出自や物質的豊かさにしたがって(「カザークの根絶」、「クラークの根絶」)数百万の土地所有者を――もっとも活動的であり勤勉ではあるが、「社会的な疫病」であるとの理由で――迫害し、ひいては根絶した。
ナチスは、ユダヤ人とジプシーを社会的な寄生虫と見なしたがゆえに、ドイツから追放した。しかし、いわゆる「ホロコースト」――ユダヤ人の大量絶滅――は、(ガス室その他と同じように)シオニストのプロパガンダである。ナチスがヨーロッパを支配している時期に死亡したユダヤ人の数は、600万人ではなく、50万人ほどである。
こうした重要な側面を論じている最近の研究には、スイス人歴史家ユルゲン・グラーフの『20世紀最大の嘘:第二次世界大戦中のユダヤ人虐殺の神話』がある。そのロシア語版は1997年にペテルブルクで出版されており、1年前に、短縮版がモスクワで出版されている。しかし、この著作の購入は非常に難しい。もちろん、50万人という数字は少ないものではない。しかし、比較してみなくてはならない。ロシアとその国民についていえば、レーニン時代やスターリンの抑圧時代の「赤色テロル」によって世襲貴族、一代貴族が被った損失は、とくに、内戦時に国内の敵からロシアを守るために死亡した人々を付け加えれば、はるかに多い数となる。
裁判なしで共産主義者に殺された人々、ソ連の強制収容所、流刑地、特別居住地で死亡した人々、ヴォルガ川流域地方とウクライナで、ボリシェヴィキが人為的に引き起こした、前代未聞の飢饉で死亡した人々、すなわち、ロシアにおける共産主義体制の直接の犠牲者は、6200万人にものぼり、その数は、第二次世界大戦前夜のドイツ国民の人口にほぼ匹敵する。
だが、これだけではない。統計資料によると、ロシア国民の自然増加は、ニコライ2世の時代には、年1.7%であった。この増加率が維持されていけば、旧ロシア帝国領(ソ連邦の最近の領土にほぼ等しい)の現在の人口は、5億以上になるはずである。実際には、1979年の人口調査によると、この地域に生活しているのは、2億6200万であった。この時期に二つの世界大戦とその他の軍事衝突で死亡した数を「最大限に」付け加えても、ボリシェヴィキによる支配についての人口学的な「値段」がわかる。すなわち、ロシア国民の2億以上の命である。ここには、殺されたか死に追いやられた人々と同じく、潜在的な両親が死んでしまったか、彼らの生活条件が劣悪であったために生まれてこなかった人々、もしくは、同じ原因で早死にしてしまった人々も入るであろう。もちろん、こうした原因は、残りの半分のわが国民の肉体的・精神的状態にも悪影響を及ぼした。そして、この半分のわが国民は、ボリシェヴィキの支配が終わって、「民主主義者」の支配によっても改善されていない条件のもとで依然として生活しているのである。
もちろん、冷戦でのボリシェヴィキ体制の敗北は、「熱い」戦争でのナチス体制の敗北と同じものではない。すなわち、軍事的敗北も無条件降伏もなかった。したがって、軍事占領時代にドイツで行なわれたような、統治機関の根本的粛清もなかった。もちろん、わが国が外国の軍隊に占領されなかったことを悔しがっている人は誰もいないであろう。だが、結果は明らかだった。ドイツでは、神に反する権力が完全に取り除かれた。ただし、西ドイツは、「超国籍」資本への「民主主義的な」従属状態にすぐにおちいり、東ドイツは、一時的に共産主義者に支配に入った。
一方、わが国では、反キリスト教的体制は全面的に自己消滅していった。共産党の党機関員と彼らが任命した赤い監督者たちの特権身分は、自分たちの行動手段を根本的に近代化しながら(もっとも、そのための資金は不足していたが)、消え去っていったかのようであった。神を知らないノメンクラトゥーラの中でも、目先のきく人々は十字をきる仕草までも修得し、その他の同じようなジェスチャーを試みた。しかし、まもなく、緊急事態が起り、まったく別のことが必要となった。十分な権限を持っていない人々は、国外からの財政的その他の援助によって、上向きの生活を維持していたが、そのような援助を失わないようにするために、また、落ちこぼれてしまっているライバル(おもに、「民衆を愛する」ボリシェヴィズム体制の復活を目指す人々)からの抵抗をしりぞけるために、スポンサーの提示する条件を実行しなくてはならなかった。すなわち、ロシアの国際的名声、国際政治へのロシアの過去の影響力の再建、国防力の強化、ひいては、ボリシェヴィキによって失われてしまった国家体制の歴史的独自性の復権を声高に語ることであった。もちろん、ボリシェヴィキ時代と同様に、新しい条件のもとでも、国民の物質的・文化的水準の向上、前代未聞の腐敗と組織犯罪の克服についても、弛まず配慮していると語らなくてはならなかった。
政府当局の「上層部」には、この課題を誠実に実行しようとする人々が存在していると考えることもできるが、空文句は所詮空文句に過ぎない。実際には、この「上層部」は、もっと「民主主義的」な方法によって、ドイツやその他の国々の実際の主人となっている勢力に対して、ロシアを経済的、政治的、文化的(これを文化的と呼ぶことが可能であればの話だが)に従属させてしまっているのである。ここでは、「鳥は、爪が引っ掛かってしまうと、その深みにはまってしまう」という原則が作用している。そして、爪はかなり深く引っ掛かってしまっているので、そこから爪をはずすことは簡単ではなくなっている。
国民の運命にとって本質的なことは、年代的要因であった。ドイツでは、ナチスの支配は12年続いたにすぎない。ロシアでは、共産主義者の全面的な支配は74年も続いた。ボリシェヴィキ体制の下で、3世代の「ソ連人」が成長しており、そのことが悲劇的な結果をまねいている。この悲しむべきテーマについては、ここではこれ以上述べるつもりはない。1992年にモスクワで出版されたヴェ・ア・ソロウヒンの衝撃的な著作『昼の明かりのもとで』、とくにその結論部の218−221頁をお薦めする。わが国民は長期にわたる、仮借のない「ソヴィエト化」を経験し、今日では、非常に強力な「民主化」を経験している。そのわが国民が本当の人間性を獲得することを手助けすること、これこそが非常に困難であるが、焦眉の課題である。
多くの人々は、「グラースノスチ(情報公開)」、ついで「民主化」ということを、幻想を抱いて受け止めてきた。すなわち、真実が勝利を収めるときがやってきたというのである。しかし、今日では、勝利を収めたのが金であることに誰も疑問を抱かないであろう。情報は金で買えるものであり、それが大金持ちの利益をおかさないという枠内でのみ、信憑性が保証されている。詳しく述べる必要はないであろう。「ロシア」のテレビ放送、ラジオ放送、ほぼすべての出版物を実際に支配しているのは誰であるのか。これは周知のことである。自分たちのことを冷笑的に、かつあからさまに巨魁集団と呼ぶ、今日の政府当局の「あやつり人形師」が存在している。このことは秘密でも何でもない。
レーニンの死後も、権力装置を維持してきた基本的な集団とはこのようなものであった。このような集団が、ロシア国民の最良部分の虐殺を組織・提唱した。彼らが権力の座に突進したことは、彼らの主人たちによって賄われた。この主人たちは、当時すでに、アメリカ、イギリスその他の国々の財界で重要人物となっていた。彼らの名前はよく知られている。今日、彼らはアメリカの軍事力の助けを借りて、世界を全面的に支配しようとしている。かつてドイツの人種差別主義者が、ドイツの軍事力に依拠して、そのような支配をもくろんだことがあった。それほど、あからさまではないが、今日の世界支配をもくろんでいる人々の意図は明白である。スターリンとヒトラーとの友好関係は短期間にすぎなかったが、ヒトラーに東部での安全を保証し、ナチスは、すみやかにフランスを征服し、その他のヨーロッパ諸国を服従させることに成功した。そして、その代償は、その後、わが国にふりかかってきたのである。
今日のロシアの支配者たちは、わが国民に対する野蛮な行為には目をつぶって、アメリカという主人との友好を弛まず志向している。そして、ヨーロッパに残っているロシアの古くからの友人を裏切ってしまった。われわれの新しい「友人たち」は、われわれと手を切ったのちに、すぐに、セルビア人に対して行なったと同じようなことを、われわれに対して仕掛けてくるであろう。全能なる「秩序の擁護者たち」は、わが軍が核の盾を発動することを許さないであろう。それは、つい最近、彼らがチェチェンでの盗賊集団を無力化することを終わらせるのを許さなかったのと同様である。
スターリンの政治的過ちは、戦時中に、数百万のわが軍の兵士の血によって「訂正」された。わが国とわが国の「新しい友人」とのあいだの軍事的・経済的力関係を考慮すると、今日のロシアの支配者の背信的な政治路線の代償ははるかに高いものにつくであろう。かつてボリシェヴィキを権力の座につけた同じ勢力が、ロシア国家を崩壊させようとしている。これが現実である。
われわれは、これを回避できるであろうか。もしできるとすれば、わが国が、外国の金融資本家やそれと結びついたわが国の「あやつり人形師」の利益ではなく、わが国の国益に奉仕するようになるという条件においてのみである。
エス・エヌ・アズベレフ(サンクト・ペテルブルク)
1999年11月11日