試訳:カプ・アルコナ号の悲劇(1945年5月)
P. シュトロハイム、 M. ウェーバー
歴史的修正主義研究会編・試訳
最終修正日:2007年10月13日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Paul von Stroheim, How a TV Documentary Turned a British War Crime
into a German War Crime, The Revisionists, 2004, vol.4、およびMark Weber, The 1945 Sinkings of the Cap Arcona and the Thielbek, The
Journal of Historical Review, July-August 2000 (Vol. 19, No. 4)の2論文を「カプ・アルコナ号の悲劇」と題して試訳したものである(文中のマークは当研究会による)。 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。 online: http://vho.org/dl/tr/4_04.pdf http://www.ihr.org/jhr/v19/v19n4p-2_Weber.html [歴史的修正主義研究会による解題] 戦後、ドイツ軍、日本軍の「残虐行為」や戦争犯罪行為について、誇張や捏造を含めてうんざりするほど取り上げられ、その当事者は厳しく処断されてきた。一方、連合軍による同一の行為は、かなり意図的に歴史の暗闇の中に封印され、その当事者が法的な処分を受けた事例もきわめて少ない。大戦末期に起こった、カプ・アルコナ号沈没事件もその一例である。 |
T:テレビ放送は、どのようにしてイギリスの戦争犯罪をドイツの戦争犯罪に仕立て上げたのか?
Paul von Stroheim
イギリス軍が第二次世界大戦を終わらせるほんの数時間前、ヒムラーは、ノイエンガムメ強制収容所とその衛星収容所の病弱な囚人10000人ほどをリューベック湾に停泊している三隻の船に移すように命じた。ドイッチュランド、ティールベク、定期船のカプ・アルコナ(Cap Arcona)の三隻であった。若干名の収容所の看守と多数の医師・看護婦がこれらの囚人に同行した。
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カプ・アルコナ号 |
ティールベク号 |
1945年5月3日、イギリス軍はリューベックから80qにまで迫っていたが、イギリスの戦闘爆撃機タイフーンの編隊がこの三隻を攻撃し、ロケットと機銃を発射した。三隻ともまったく武装していなかった。カプ・アルコナ号は有名な豪華客船で、攻撃が始まると船長は、降服の意志を示すために、甲板に大きな白旗を掲げるように副長に命じた。
船は大きな白旗と赤十字の旗をたなびかせていた。そして、客船は火につつまれ、乗客は海に飛び込んでいた。そのような事態になっても、イギリス軍パイロットは、燃えさかる船の周りで絶望的に泳ぎ続けている数百の人々に機銃をあびせ続けたのであった。
2004年8月27日、ドイツのテレビ番組は、7000人ほどの無抵抗な収容所囚人たちが殺されたこの大量殺戮事件のドキュメンタリーを放映した。
上映時間45分のフィルムの中で、フィルム製作者たちは、ナチスが「このような殺戮を計画した」との印象操作をしようとした。そのために、番組の中では、これらの船は「浮かぶ強制収容所」と呼ばれていた(囚人たちの収容空間が豪華であった事実は無視されている。カプ・アルコナ号の内部写真を参照)
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カプ・アルコナ号の内部 |
フィルム製作者と生き残った何名かの囚人たちは、船を沈めて、10000人の収容所目撃証人を消し去ってしまうのがヒムラーの計画だったと実際に主張していた。イギリス空軍は、船に乗っていたのは逃亡するSS部隊だけであると信じて攻撃し、結果として、ヒムラーの悪魔的な計画の実現に利用されてしまったというのである。
フィルム製作者がこうした主張をしたのは、殺戮の責任をイギリス空軍ではなくSSに押し付けるためであったが、このたくらみは成功しなかった。やはり生き残ったカプ・アルコナ号の副長は船を沈める計画などまったく知らなかった。また、囚人とともに船に乗りこんだドイツ人看守や医師・看護婦は、自殺を志願していたとでもいうのであろうか。
さらに、このフィルムのためにインタビューを受けたイギリス軍パイロットは、イギリス空軍戦闘機司令部は、船が強制収容所の囚人を運んでいることを知っていただけではなく、そのことを事前にパイロットに知らせようとしなかったことをあからさまに認めている。だから、これらの「ドキュメンタリー」フィルムの製作者たちはまったく厚顔無恥であり、馬鹿であることになる。
「戦争犯罪であることを知っていながら、なぜ、波間に漂う人々に機銃を向け続けたのですか?」と尋ねられると、当のイギリス軍パイロットは、「こうしたことは戦時中にはよく起こるものです」と答えている。
ニュルンベルク裁判おいて、ドイツ軍将校が同じように肩をすぼめて、「こうしたことは戦時中にはよく起こるものです」と証言したとすれば、どのような扱いを受けたであろうか!
フィルム製作者は死亡した7500人の囚人のための大きなメモリアルを撮影し、そのバックグラウンドでユダヤ人Klezmerの曲を流して、犠牲者の大半がユダヤ人であったかのような印象を作り出そうとしている。しかし、実は、船に乗っていた囚人の中で、ユダヤ人は5分の1以下であった。
フィルムは、やはり、この攻撃によって死亡したドイツ人医師・看護婦、船員、収容所看守のことについてはまったく触れていない。死者の割合も非常に高かったに違いないにもかかわらず、彼らのためのメモリアルは建てられていない。
このようなドキュメンタリー・フィルムではいつもそうであるように、信憑性のない「目撃証言」が登場する。一人の生存者は、沈没についてこう語っている。
「手すりを超えて海に飛び込もうとすると、見覚えのあるSS看守がやってきてピストルを取り出し、やめさせようとしましたが、私の頭を撃ちました。」
別の生存者もこう語っている。
「ドイツの警備艇が港から出てきて、私たちの方にやってきました。助けに来てくれたと思いましが、波間に漂っている人々の上を航行し、スクリューで殺そうとしました。イギリスの飛行機がやってきて、その警備艇を沈めてくれましたので、私たち全員は喜びました。」
さらに、別の生存者は、地元のドイツ人たちは生存者を海から引き上げてくれたが、引き上げると、今度は生存者たちを殺し始め、イギリス軍の戦車の到着がやっとそれを止めた語っている(だとすれば、なぜ海から引き上げたのか?)。
その後開かれた戦争犯罪裁判では、この災難を生き延びたノイエンガムメ収容所のドイツ人看守と収容所長Max Pauleyがこの殺戮の責任の咎で告発され、絞首刑となった。無抵抗な市民に発砲した咎で、イギリス軍パイロットを裁判にかけようとする試みがあったことはあった。しかし、イギリス空軍当局はこの船が囚人を満載していたことを知っており、パイロットにはこのことを前もって話していなかったことを認めているにもかかわらず、司法的措置はまったくとられていない。
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追悼碑の嘘:「私たちは、ノイシュタット湾で殺された7000名のナチ独裁制の犠牲者を忘れない」 |
殺された人々の追悼碑はまだ、これらの人々はナチ独裁体制の犠牲者であったと述べている。死んだドイツ人船員、医師・看護婦、看守の追悼碑は建てられていない。
――連合軍の攻撃が数千名の強制収容所囚人を殺戮した――
M. ウェーバー
ドイツの戦時中の強制収容所の囚人の中で、ドイツに拘束されているときに死亡した囚人は、たとえ、連合国の政策の直接・間接の結果命を失ったとしても、すべて「ナチズムの犠牲者」と通常みなされている。同じように、第二次世界大戦中にドイツに拘束されていたときに死亡したユダヤ人も、その死因が何であれ、すべて「ホロコーストの犠牲者」と数えられている。
このやり方は、詐欺とはいえないまでも、誤解を招くやり方である。事実、連合国の行為、もしくは第二次世界大戦中の殺戮行為のために、直接、間接に死亡した囚人やユダヤ人は数万人にも及ぶからである。たとえば、戦争末期、悪名高いベルゲン・ベルゼン収容所ではアンネ・フランクなど多数のユダヤ人が死亡しているが、彼らはドイツの政策の直接の犠牲者ではなく、戦争末期の混乱とカオスの犠牲者であった。
連合軍の手で殺されたドイツの強制収容所囚人の中には、大戦末期、三隻の大型ドイツ船に載って疎開しているときにイギリス軍用機の攻撃を受けて殺された7000名ほどの囚人がいる。ほとんど知られていない悲劇であるが、史上最大の海難事件の一つである。
1927年5月に就航したカプ・アルコナ号は「ハンブルク・南アメリカ」航路の優雅な客船だった。27000トンの本船は、ドイツ商船の中で四番目の大きさであった。1939年に戦争が勃発するまでの12年間、ハンブルクとリオデジャネイロ間の定期航路を運航していた。戦争末期、赤軍の脅威に直面する東部地区からの難民を救助するために、ドイツ海軍に徴用された。それは、デーニッツ提督指揮下のドイツ海軍が計画した大規模な救出作戦の一環であった。合衆国ではほとんど知られていないが、この作戦は多くの人々の命を救った。これよりもはるかに小さなティールベク号2800トンも、救出作戦の一環として、難民の移送に使われた。
1945年4月、ハンブルク管区指導者で帝国商船監理官カール・カウフマンはカプ・アルコナ号とティールベク号を海軍の指揮下から、ドイツ北部の町リューベック近くのバルト海のノイシュタット湾に移した。
ノイエンガムメ(ハンブルクの数マイル南東)強制収容所から急いで疎開してきた5000名ほどの囚人が4月18日から26日の間に乗船した。また、400名ほどのSS看守、500名の海軍砲科分遣隊、76名の船員も乗船していた。ティールベク号も同じように、2800名ほどのノイエンガムメ収容所の囚人を載せていた。戦争末期のドイツ各地では、生活環境は劣悪となっていたが、二隻の船に載っていた囚人たちの環境もひどいものあった。狭い所に詰め込まれた囚人たちの多くは病気にかかっており、水も食料もひどく不足していた。
1945年5月3日午後、イギリス軍の「タイフーン」戦闘爆撃機が数次にわたって攻撃を仕掛け、まず、カプ・アルコナ号を、次いでティールベク号を爆撃、炎上させた。軍用船でもなく、軍事的な任務を果たしていたわけでもない二隻の船は何枚もの大きな白旗を掲げた。しかし、『第三帝国百科事典』によると、「白旗を掲げても、まったく効果なかった。」 だから、この攻撃は国際法違反であり、もしドイツではなく、イギリスが敗戦国となったならば、イギリス軍パイロットとその指揮官は「戦争犯罪人」として、処罰された、ひいては処刑されたに違いない。
ロケット、爆弾、機銃で攻撃されたティールベク号はわずか15−20分で沈んだ。そのあと、イギリス軍パイロットは、救命艇に何とかもぐりこんだおそれおののく生存者たち、冷たい海に投げ出された生存者たちに機銃を浴びせかけた。ティールベク号に乗船していたほぼ全員が、その場で死亡した。SS看守と船員のほぼ全員も死んだ、囚人のうち生き残ったのは50名にすぎなかった。
カプ・アルコナ号が沈むのにはもっと長くかかった。多くの囚人が焼け死んだ。外に脱出できた囚人の多くも冷たい海に沈み、救助されたのは350−500名にすぎなかった。事件後の数日間、数百の死体が近くの海岸に流れ着き、大量埋葬地に埋められた。浅瀬に沈没したので、ひっくり返ったカプ・アルコナ号の残骸の一部が水中から姿を現したままであり、人々にこの陰鬱な災禍を思い起こさせた。
ドイツ語参考文献Verheimlichte Dokumente(秘密文書)はこうまとめている。
「連合国の戦争犯罪の中で、とりわけ野蛮であったのは、リューベック湾に停泊する客船カプ・アルコナ号とティールベク号――収容所囚人を満載していた――に対する、1945年5月3日のイギリス空軍の爆撃であった。数多くの『名も無き』の犠牲者の中には有名な政治活動家たちも多かった。その多くがヒトラーに抵抗したレジスタンス戦士たちであった強制収容所の囚人が『解放者』のテロ行為の犠牲者であったという事実は、『再教育者』の肖像にはマッチしていないので、この事実は今日では等閑視されている。」
別の参考文献Der Zweite Weltkrieg (第二次世界大戦、1985)はこう記している。
「1945年5月3日の『ハンブルク・南アメリカ航路』蒸気客船カプ・アルコナ号と蒸気船ティールベク号の沈没は、並外れた悲劇である。両船には強制収容所の囚人が載っており、自分たちは助かると思っていたが、ノイシュタット湾で連合軍機の爆撃を受けた。カプ・アルコナ号だけで、5000名以上――船員、強制収容所囚人、SS看守――が死んだ。」
1945年5月3日の死者、すなわち、7000名ほどの強制収容所囚人は、犯罪的なイギリスの攻撃の犠牲者であるが、第二次世界大戦の歴史の中ではほとんど知られていない挿話である。だが、非常に良く知られている海難事件、すなわち、1912年4月15日のイギリス客船タイタニック号の沈没事件と比べてみれば、1945年5月3日の事件のすさまじさが分かる。タイタニック号の沈没では、「わずか」1523人の命が失われたにすぎないのだから。
これに匹敵するような、海難事件は、1945年前半のソ連軍潜水艦による三隻のドイツ船舶の沈没事件である。すなわち、少なくとも5400人の命―大半が女子供――を奪った1945年1月30日のヴィルヘルム・グシュトロフ号の沈没事件、3500人の命――大半が難民と負傷兵――を奪った1945年2月10日のゲネラル・シュタウベン号の沈没事件、なかんずく、7000人ほどの命――難民と負傷兵――を奪った1945年4月16日のゴヤ号沈没事件である。
Sources: Fritz Brustat-Naval, Unternehmen Rettung (Herford: Koheler, 1970), pp. 197-201; C. Zentner & F. Bedürftig, eds., The Encyclopedia of the Third Reich (New York: Da Capo, 1997), pp. 126, 644-645, 952; W. Schütz, Hrsg., Lexikon: Deutsche Geschichte im 20. Jahrhundert (Rosenheim: DVG, 1990), pp. 66, 455; Dr. Bernhard Steidle, Hrsg., Verheimlichte Dokumente, Band 2 (Munich: 1995), pp. 212, 230; "Britische RAF mordete Tausende KZ-Häftlinge," National-Zeitung (Munich), May 19, 2000, p. 11; Kay Dohnke, "5 Minuten, 50 Meter, 50 Jahre: Gedenken an die Cap Arcona, nach einem halben Jahrhundert," taz: die tageszeitung (Hamburg Ausgabe), May 3, 1995, also on line at http://www.theo-physik.uni-kiel.de/~starrost/akens/texte/diverses/arcona.html; "The Cap Arcona, the Thielbek and the Athen," on line at http://www.rrz.uni-hamburg.de/rz3a035/arcona.html; Konnilyn G. Feig, Hitler's Death Camps (New York: 1981), p. 214; Martin Gilbert, The Holocaust (New York: 1986), p. 806; M. Weber, "Bergen-Belsen: The Suppressed Story," May-June 1995 Journal of Historical Review, pp. 23-30; M. Weber, "History's Little-Known Naval Disasters," March-April 1998 Journal, p. 22.
For further reading, these books are available: Rudi Goguel, Cap Arcona (Frankfurt/Main: Röderberg, 1972); Günter Schwarberg, Angriffsziel Cap Arcona (Hamburg: Stern-Buch, 1983/ Göttingen: Steidi, 1998), with portions on line at http://www.reger-online.de/buchcd/w7506002.htm; Wilhelm Lange, Cap Arcona: Dokumentation (Eutin: Struve, 1988).